第五話 めぐるモノの話
有史の目の前で、おおきな夕日が沈んでいく。
空が真っ赤に燃えていて、眼下には町並み。反対側からは、夜闇がじわりと染みこむように忍び寄っていた。ここは。
あの、秘密基地だ。
「有史、どうしたの?」
ああ、これは夢だ。左隣で、五年生の真澄が笑顔を浮かべている。鏡がないから定かではないのだが、服などの見える範囲で確認した限りでは、自分も四年生のときの姿になっているようだった。
「なんでもないよ」
なんて美しい夢なのだろう。嬉しさに視界が揺れて、有史はうつむいた。夢とはいえ、泣いているところを見られたくなかったからだ。
「有史」
「ん?」
「約束、だめになっちゃったね」
「……え」
唐突な言葉に、有史は弾かれたように顔をあげて真澄を見つめた。どこか悲しそうな響きを含んだその言葉に対してなにも言えないまま、少しずつ夕日は沈んでいく。
もう家に帰る時間で、その前になにか言葉をかけてあげなければと、有史は思う。
自分が真澄を泣かせてはいけないのだ。彼女が本当に嬉しいときに見せる笑顔を守ってあげなければ。それが自分の役目だと信じているから。
これが夢であることも忘れて、有史は震える手を真澄の肩へと伸ばす。
しかし触れる直前、真澄は踵を返して走り去ってしまった。
真澄の姿が茂みの向こうへ消えた途端、どこかで何かがぶつかったような、鈍い音が響いた。
瞬間、ビデオを早送りするかのように夕日が速度を増して沈み、夜になる。月のない夜だ。真っ暗でなにも見えなくなってしまい、そのうち方向もわからなくなった。いま自分がどこにいるのかさえもわからなくなって――
――そして、有史は布団のうえで目を覚ました。
見慣れた自室の天井を見つめて、荒い息をなんとか整える。寝汗で服が体に張り付いて不快だった。
「……また」
またこの夢か。
あの手紙を読んだ日から、この夢ばかりを見るようになった。いつしか夢を恐れるようになり、微睡に身を投じてはすぐに浮上することを繰り返して、まともに寝れなくなっていた。
疲れて久しぶりに深い眠りに落ちてみれば、これだ。
有史は異常な気持ち悪さを拭おうと、布団から出てコップに水を注ぎ、一気に喉に流し込んだ。寝汗が冷えはじめたパジャマを洗濯機に放り込んでシャワーを浴び、部屋の隅に畳んで置いておいた洗濯物の山の、一番上にあった服を着る。それからベランダに出てタバコに火をつけると、だいぶ気分は和らいだ。
ベランダに注がれる日光は、朝だというのにじりじりと肌を焼こうとする。
今日も暑くなりそうだった。
トウカは昨日同様、五分前に公園に現れた。昨晩の有史が考えていたことなど何も知らないトウカは、今日も自分の姿を見つけた途端に元気そうな笑顔を見せた。
「昨日帰るときにも言ったけど、今日は海へ行きたいです!」
「知ってるよ。ほら、車に乗るぞ」
「はーい」
待っている間に飲んでいたコーヒーの缶をごみ箱へ捨ててから、車に乗り込む。ラジオのチャンネルは昨日のままだ。
「人、多いかな?」
「海水浴場には行かない、人混みは苦手でな。今日行くのは遊泳禁止の海です」
できるだけ振り回されたくないという、ささやかな抵抗のつもりで決めたことだ。
「あ、それならよかった!」
しかし残念ながら、トウカにとっては都合のいい選択となってしまったようだった。
「水着持ってくるの、ちょっと難しくて」
「ああ、なるほど」
トウカは、自分とでかけることを「二人だけの秘密」と言っていた。
学校がプールを開放しているだろうが、それに行くと言って出かけたとしても、そういったものはプールだろうがラジオ体操だろうが、大抵は出席スタンプなどで簡単にばれてしまうだろう。
そしてトウカの年齢からして、多くの人が遊んでいる海水浴場に行けば周りと同じように遊びたくなるものだ。水着を用意していないまま行くのは辛いものがあるはずだった。
それにしても、昨日みたいに親切にしてやるつもりなど全くなかったのに。自分が決めたことでトウカが嬉しそうに笑うのは、なかなかに不本意だった。
有史が予想した通り、この時期の遊泳禁止区域の海岸にはほとんど人がいなかった。いたとしてもこの辺りに住んでいると思われる人の、散歩やジョギングをしている姿ばかりだ。
自分たちにとっては好都合なのだが、そのかわり海のほかは全くと言っていいほど見るものがない。
「さて、着いたわけですが。今日は何をしたいんだ?」
トウカくらいの年齢の子が楽しめそうなものは、正直見当たらない。自分はそれが目当てだったのだが、当の本人はここで何をするつもりなのだろうか。
「えっとね、貝殻拾い! きれいな貝殻を探して、集めるの」
そう言って、トウカはその場にしゃがみこんで貝殻を探しはじめた。なるほど、女の子らしい遊び方だ。
「これは?」
なんとなく、足元に落ちている貝殻を一枚拾って太陽に透かしてみる。二枚貝の片方だった。
「それは割れてるし、色も茶色で全然かわいくないよー」
自然の神秘を感じさせるグラデーションが綺麗だと思ったのだが、捉え方は人それぞれだ。トウカの好みには合わなかったらしい。
有史が選んだ貝殻を否定したトウカが集めているのは主に白い貝殻のようで、形もできるだけ欠けていないものを選んでいた。形はともかく、いろんな色があってこそ白が映えるのだろうと言いたかったのだが、先程思ったように、捉え方は人それぞれ。自分が口出しをしていいものではなかった。
これは、暇だからといって自分が手伝おうとしても邪魔になるだけだ。かといってとくにすることのない有史は少し離れた場所に防波ブロックを見つけ、そのうちのひとつに座ってトウカを眺めることにした。
頬杖をつきながらあくびをこらえる有史の視線の先で、トウカはしばらくの間真剣に砂浜をあさっていた。彼女は、有史がこらえきれずにあくびをした途端「あっ」と声を上げたかと思うと、勢いよく立ち上がった。
慌てたように辺りを見回す瞳は、すぐに有史を捉える。そして小走りで駆け寄ってくると、ずいと右手を突き出してきた。
その手のひらを見てみると、若干欠けているものの可愛らしいピンクの貝殻が乗っていた。
「みて、ピンク色の貝殻があったよ!」
「桜貝か。落ちてるもんなんだな」
「へー、桜貝っていうんだ……殻が薄くてすぐ割れちゃいそうだけど、すごくかわいい!」
「よく土産として売られている貝殻だからな」
初めて見るらしい桜貝をしばらく興味深そうに眺めてから「もっと探してくる」と背中を向けたトウカを、有史は慌てて引きとめた。この炎天下だ、砂浜の照り返しも強いなかで水分補給もなしに熱中症で倒れられたらたまったものではない。この機会に少し休憩をとることにして、彼女を隣に座らせた。
人のまばらな海岸には波の音がよく響いて、磯の香りをのせた風が自分たちの髪を撫でていく。
「ユウシさん、ゆっくり変わるものが好きなんだよね?」
水筒のお茶を飲んでひと息ついたトウカが、有史を見上げて言った。
「海はどうなの? 波の動きは早いから、やっぱり嫌い?」
「あー、たしかに波とかはあまり好きじゃない。すぐ壊れてなくなるし。ただ海全体のイメージだとどうだろうな、ゆったりしてる気がして悪くないかもしれない」
曖昧な返しであったが、トウカはそれで満足したらしい。嬉しそうに表情を緩めながら、海のほうを眺めている。実際に見ているのが海なのか、海に近い空なのか、はたまたその境界線なのかはわからないが。
「じゃあ、今回はわたしとおそろいだね! 水が好きなわたしは海が好き、ゆっくり変わるものが好きなユウシさんも、ゆったりしたイメージの海が好き」
「ずいぶんと都合のいい解釈だな」
「同じでいいの!」
「……はいはい」
「むう……あ、そうだ」
心底どうでもいいと思う有史は、適当な相槌を返す。それを不満そうにしていたトウカであったが、ふと思い出したように切り出した。有史は目線だけ彼女に向けて、続きを促す。
「海って、川から水が流れてきてるんだよね。毎日たくさんの水が増えてるはずなのに、海が広がらないのはなんでかなあ」
そういえば昔、自分も同じ疑問を持ったことがあったと思い出す。
「トウカにはまだ難しいかもしれないが、海の水は常に少しずつ蒸発してるんだ。えーと、風呂上がりにドライヤー使わなくても、時間が経てば乾くだろう? で、空気のように見えなくなった水が空に昇って、雲になる。それが雨や雪になって山とかに降って、地面に染み込んだ水が湧き出て流れたのが、川になるんだよ」
「へえ、なんとなくわかったかも。そっか、水って生まれ変わってるんだね!」
好きな水に関する知識が増えたためか、トウカは嬉しそうに笑みを深めた。
「そう、そんな感じ。生まれ変わりがわかりやすいって意味では、水はいい。人間の生まれ変わりもこれくらいわかりやすかったらいいのにな」
「なんで?」
「そうすれば人間が生まれ変わったとき、見つけられるかもしれないから」
そこまで言って、有史は自分がとんでもない弱音を吐いていることに気付く。咄嗟に右手で自分の口元を覆った。
きっとまだトウカにはわからないだろうが、それでも気が緩んでいたことには変わりはない。
「悪い、いまのは気にしなくていい。なんのことかわからないなら、そのままでいいから……」
「――でも」
取り繕う有史の言葉を、トウカが遮った。
「でも、海は陸よりひろいって、テレビでやってた。雨が降る空は、もっともっとひろいから。どこに降るかを知るのって、きっとすごくむずかしいと思う。だから」
そこで一旦言葉を切り、トウカはひと呼吸おいてから目を閉じ、続けた。
「……だから、もしかしたら、人間のほうが生まれ変わりがわかりやすいんじゃないかなって、わたしは思うんだ」
それを聞いた有史は、さっきまでトウカが眺めていただろう海、その境界線を眺める。
トウカは自分の言葉にそのまま答えただけかもしれないし、弱音であると感じて慰めようとしてくれたのかもしれない。後者であったならなんとも情けない話なのだが、すこしだけ、そうであってほしいと願ってしまった。
もし本当に、海や空や川を巡り続ける水よりも、人間の魂の巡りのほうがわかりやすいというのなら。一生をかけて世界中を探しまわれば、真澄の生まれ変わりと出会えたりするのだろうか。
もしそうなら、気付けるかどうかは別として、残りの人生で真澄の魂を探してみるのもありだと思えた。
有史は昨晩の夢を思い出す。
もしかしたら、真澄の魂は約束を果たすためにどこかで待っていてくれているのかもしれない。
真澄の魂を探すことで、夢で悲しそうな表情をしていた彼女の笑顔を取り戻すことができるのだろうか。
希望を持つには、あまりにも根拠のない考えだ。
それでもいまの有史には、目に見えないなにかの導きのように、正しいことだと思えてならなかった。
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