第四話 後悔ばかりのおとな(後)

 しばらくして戻ってきたトウカは「足がすごくつめたくなっちゃった」と至極当然のことを口にしながら、持ってきていた肩掛け鞄から小ぶりの水筒を取り出し、有史の隣に腰をおろした。


 横目で確認した限りでは、足に怪我はないようだ。有史は用意していたタオルを渡して足を拭くように言うと、車へ保冷鞄を取りにいくために立ち上がる。

 出発時にはぺしゃんこだった保冷鞄は、コンビニで購入したものによって膨らんでいた。それを持って戻ると、トウカは待ってましたと言わんばかりにそのなかを覗き込んだ。自分で選んだのだから、なにが入っているかは分かりきっているだろうに。


「わたし、これ!」

「え、おまっ……それ俺のじゃねーか。自分で選んだやつあるだろ」


 取り出されたものは、有史が食べる予定だったコロッケパンだった。取り返そうと手を伸ばすと、トウカはきゃー、と笑いながら立ち上がって有史の手から逃れてしまった。

 他の人が買ったものが欲しくなることは確かにある。が、ひと口や半分こならまだしも、交換となっては受け付けられない。


「こっちも食べたくなっちゃったんだもん。ユウシさん遊んでないから、そんなにお腹すいてないでしょ?」

「俺はここまで運転してきたんだ、残念ながら普通に腹減ってる。ほら返しなさい」

「やーだーよー、これがいいの!」


 相手は子供だと、あくまで優しく手のひらを差し出してみる。それでも頑なにコロッケパンを背後に隠す彼女の様子に、有史は溜息をついた。これは、何を言っても無駄なようだ。

 というか、これ以上は疲れる。


「……今回だけだからな」


 そう言って保冷鞄からトウカが選んだハムチーズサンドを取り出すと、トウカはにんまりと満足そうな笑みを浮かべてコロッケパンの封をあけた。


「へへ、さすが大人だね!」

「そーですね」


 呆れながらサンドイッチをかじる。これはこれで悪くないと思いながらも、やはり有史はソースがしみこんだコロッケパンに未練を抱かずにはいられなかった。


「サンドイッチも美味しいでしょ?」

「……コロッケパンうめーだろ」


 ソースを口の端につけて無邪気に笑うトウカを見ていると、なんだか悔しくなって皮肉で返してしまう。自分はこんなにガキだったかと内心首をかしげて、ひとつめのサンドイッチのかけらを口内に放りこんだ。


「ひとくちあげよーか?」

「半分なら貰ってやる」

「それはだめー」


 隣でなくなっていくコロッケパンを横目に、有史は思った。今日の晩ご飯に悩む必要はなさそうだ、と。




「ごちそうさまでした」


 口を拭ってから行儀よく手を合わせたトウカは、勢いよく立ち上がると有史の手をひいてきた。


「やっぱりユウシさんも一緒に遊ぼうよ。今日暑いし、きっと涼しくなるよ」

「面倒。遠慮するよ」


 今度はすぐに諦めるつもりはないようで、トウカは体を反らせながら有史を引っ張ろうとしていた。これは、手がすべったらかなり危ないことになるのではないだろうか。

 誘いにのるつもりはないが、とりあえず手が抜けてしまわないようにと握り返す。力のない小さな手だった。そうして無言の綱引きがしばらく続いたのち、少しずつ力が緩んだかと思うと、息をきらせたトウカが手を離して有史を睨んだ。


「ユウシさん、川きらいなの?」

「そうだな。そんなに好きじゃない」

「なんで? わたしは水が好きだよ」

「川は流れが速いからな。俺はゆっくり変化するものが好きなんだ」

「うーん、ざんねん……じゃあさ、近くまで見にきてよ。さっきおもしろいもの見つけたんだ」


 ようやく手を離したトウカはそう言うと、有史の返事も待たずに川へと走って行ってしまった。


「おもしろいもの?」


 しかたなく、言われたとおりに近づく。と、振り返ったトウカの瞳が悪戯っぽく光った。

 やばいと思ったときには遅かった。トウカは右足をおもいっきり振り上げる。瞬間、視界いっぱいに飛び散る水飛沫。


「えーい!」


 高く上げられたトウカの足に弾かれた水は、見事彼女の狙い通りに有史の体にかかった。


「あはは、それで涼しくなったでしょ?」

「俺、着替え持ってないんだけど」

「わたしもないよ!」

「だろうな」


 トウカの服はとくに濡れてはいないのだから、着替えは不要だろう。


「……どーも、涼しくなりました」


 本日何度目かわからない溜息をつきながら言うと、トウカは「どういたしまして」と胸を張った。まさか親切心から水をかけたわけではないだろうし、自分も感謝の意味で言ったわけではない。そんなに嬉しそうにされても困るのだが。



 やはり昨日の時点で断ればよかったのだ。こんな風に子供に翻弄される自分なんて、知りたくなかった。

 一時間後にそろそろ帰ろうとトウカに呼びかけるまで、有史は話しかけられても「ああ」とか「へえ」と言うだけで、それ以外は黙ってトウカを眺めるだけだった。




 夜、風呂上がりにテレビをつけることもなく座椅子に座った有史は、ビールの缶を片手に今日の出来事を思い返していた。

 トウカに一日振り回されたことで、正直とても後悔していた。断ればよかったと。

 それと同時に、わかりたくないことがわかってしまった。


 有史が、トウカとは比べ物にならないほどいたずらっ子だった子供の頃の、周りの大人たちの気持ち。それがわからなくもない。

 それでも、べつにトウカを嫌ったわけじゃないと、当時の自分を正当化する。

 あのときの「大人たち」は、普段いたずらばかりしていたからといって自分だけを悪者扱いしたじゃないか、と。


 アルコールが血液に混ざっていく先に、小さな面影が映って、消える。一瞬本当に視界に映ったような気がして思わず手を伸ばしてみるが、その方向を改めて見てみると、そこにあるのはいつもの殺風景な自室でしかなかった。


 行き場を失った手で視界を覆う。今度は、また明日ねと手を振り帰っていったトウカの後ろ姿が脳裏に浮かんだ。明日も振り回されるのだろうかと思うと、気が滅入ってしまう。


 もし自分が明日、行かなかったら。そしたらトウカはどうするだろう。


 今日のように五分前に到着して、時間になるまで待って。暑いなかで、水筒のお茶を飲みながら自分の姿を探して。

 そのあとは。


 何時間でも待つだろうか。

 諦めて帰るだろうか。

 こんなものだと思うだろうか。


 それとも、泣くだろうか。


 子供を泣かせるのはさすがに嫌だなと、有史は苦笑する。

 ビールを飲み干して、その日はもう寝ることにした。ここ最近まともに動いていなかったためか、酷い疲れようだった。

 そんななかで飲酒をすれば、眠気に抗えないのは当然のことだ。一度布団に入ると、もう起き上がることはできなかった。


 まともに眠りにつくのが久しぶりだということすら忘れて、有史の意識はアルコールと共に闇に溶けていった。

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