第三話 後悔ばかりのおとな(前)
昨日、見知らぬ少女に命を預けた。
もし知人にそんなことを言ったら、きっと、頭でも打ったのではないかと言われるだろう。唯一、元同僚だけは「そりゃいいや」と言う様子が目に浮かぶ。「自分の命を誰かに左右されるなんて、滅多に体験できるものじゃないぜ」と、新しいおもちゃを見つけたように喜ぶ顔が容易に想像できた。そして彼は、きっと最後にこう付け足すだろう。「まさか夢でした、だなんて言うなよ?」
その言葉が自分にとって都合がいいのか悪いのかは、いまは判断することができないのだけれど。
自分でも、一晩経ってみるとあれはただの白昼夢だったのではないかと思えてくる。しかし白昼夢であったなら、真澄とどこか共通点のあるだけの見知らぬ少女ではなく、真澄本人が登場してくれてもいいのではないかと思う。自分はこんなにも真澄を必要としているのだから。
そして、いま自分が座っている公園のベンチに近づいてくる少女の姿が、昨日の出来事は現実であったのだと証明していた。有史はタバコを消して残り少ない缶コーヒーを飲み干すと、すぐそばのごみ箱へ空き缶を放り込む。青空に届くような、澄んだ音が響いた。
現在時刻、午前九時五十五分。偶然なのか律儀なのか見事な五分前行動をとったトウカは、公園の隅に自転車を置いてから有史のもとへ駆け寄ってきた。ノースリーブのパーカーにキュロットスカート。昨日と同様に動きやすそうな服装だ。
「おはようございます、ユウシさん!」
「うん、おはよう。しっかり挨拶ができるようで何よりだ」
お辞儀までするトウカにそう返すと、褒められたのが嬉しかったのか、彼女は自慢げに胸を張ってみせた。
「あったりまえだよ、挨拶しないと怒られるからね」
「誰に?」
「施設の人とか、学校の先生とか、いろんな大人に」
「なるほど。たしかに挨拶がなかったら、俺はいろんな大人のうちの一人として叱っていたかもしれないな」
そう言いながら、有史は立ち上がって公園の出入り口へと歩き出す。その後ろをトウカが小走りでついてきた。公園の真横に自分の車を停めてあるのだ。
ハザードが点いている黒の軽自動車、その助手席側のドアを開けると、トウカはのんびりとした声でお邪魔します、と言って乗り込んだ。
昨日出会ったばかりの大人の車にためらいなく乗るのだから、最近の子にしては警戒心がないというか、度胸があるというか。前者だろうなとこっそり溜息をついてから、有史はエンジンをかけた。もちろん子供相手にどうかしてやろうという考えは皆無なのだが、大人に対するこの警戒心のなさが、どうにも腑に落ちなかった。
「うしろの席にある鞄、なにが入ってるの?」
「タオルとかレジャーシートとか」
「これは? なにもはいってないね」
「保冷鞄。途中で昼飯買いたいから。ほら前向いてシートベルトして」
近くを流れる川の上流は比較的綺麗だったと記憶していた有史は、川に沿うようにして車を走らせる。
最近の小学生の好きな音楽なんて知らないうえに興味もないのだが、静かなのも気まずかったのでとりあえずラジオをつけた。
適当に合わせたチャンネルではリスナーからの便りを読み終わったところのようで、リクエスト曲が流れはじめる。テレビで何度か耳にしたことのある、最近流行りのアイドルの曲だった。トウカの好きな曲かもしれないが、自分が興味のないものを無理に話題にしようとは思えなかったので、有史はひたすら運転に集中することにした。
ゆったりとついてくる入道雲の手前でいくつもの街路樹が通り過ぎていく。青々としたひときわ見事な葉桜が、車内に一瞬だけ影をおとしていった。
「あのね、今日ユウシさんが本当に来るとは思わなかったんだ」
トウカがぽつりとつぶやいた。有史は一瞬トウカを横目で見たが、すぐに前方へと視線を戻す。
「奇遇だな、俺もトウカが本当に来るとは思わなかった」
「え、じゃあなんで来てくれたの?」
「他にすることないし、あの公園は俺の家から近いし、まあひっくるめて言えばなんとなく、だな」
即答すると、えー、と不満そうな声が左から聞こえた。
「命を預けたから、とか言ってくれればすてきなのに」
「昨日も思ったけど、お前は絵本か漫画の読みすぎだ」
「そんなことないよう」
どうやら自分はトウカの希望から大きく外れた回答をしたようであったが、望み通りの回答をする約束などしていなければ、義務もない。さらに言えばこうして付き合ってあげているのもご機嫌取りというわけではないのだから、どう答えようが自分の勝手だった。
そう伝えたところ、トウカはふて腐れてしまったのか頬を膨らませながら、しばらくの間不満を漏らし続けていた。その様子はなんとも歳相応で、変に大人びたドラマのような会話をするよりも、自分の回答のほうが正解だと思えた。
途中でコンビニに寄って適当に昼ごはんを買い、さらに一時間半ほど車を走らせた。元々たいして大きくなかった川の幅はさらに狭まり、周りもちょっとした緑のある河原となっていた。
山奥の川とまではいかないが、ここまできたら川の水もだいぶ綺麗になっている。小川と言ってもいい大きさなので深くもなく、小学生が足をつけて遊んでもとくに危険はないはずだ。
ただし、滑って転んで頭を打ったりしなければ。
それを伝えるとトウカは「転ばないように気を付けるね」と笑ってサンダルを脱ぎ、川へと走っていってしまった。本当にわかっているのだろうか。
百均などで子供用のビーチサンダルでも買っておくべきだったか、石や木の枝で足を切ってしまう可能性を考えていなかったのだが、今更どうしようもない。それ以前に、そこまで世話をやく必要があるのかどうかも疑問なのだが。
しかし「秘密」である以上は怪我をさせるわけにもいかないので、とりあえず目を離さないように、有史はそのまま砂利に腰をおろした。
当の本人は有史の心配をよそに、楽しそうに川に足をつけていた。冷たさに感動しているのか、一歩進むごとに「きゃー」だの「わー」だの歓声をあげ、目を輝かせている。彼女が足を振り上げるたびに、飛び散った水滴が昼近くの高い位置から注がれる日光とぶつかって、きらきらと輝いていた。
「ユウシさんはこないのー? 冷たくて気持ちいいよ!」
振り返って手を振るトウカを、有史は目を細めて眺める。
日差しで輝く川と、はしゃぐ小学生。夏らしくていいとは思うが、遊ぶことに興味をひかれることはなかった。
「俺はここで見てるから、気にせず遊んできなさい。足元に気をつけないと危ねーぞ」
「えー、しょうがないなあ」
トウカは先ほど車内でそうしていたように頬をふくらませていたが、無視しているうちに諦めてくれたようで、再び水面を蹴りはじめた。その様子が、水の反射が、やけに眩しかった。それでも目を離せずにいたのは、きっと怪我をしないように見張らなければならないという理由があったからだ。
それ以外の理由など、あるはずもないのだから。
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