第二話 通りすがりのお願いごと(後)

 叶えたいことがたくさんあるのだと。再び左隣に座った少女は、両足を交互に揺らしながらにこやかに言った。


「それでね、ずっととは言わないけど、数日間だけでいいからおにーさんが手伝ってくれたらなって」


 最初は妙に大人びた子供だと思ったが、理由を聞く限りはなかなかに歳相応のようだ。有史は短く息をついた。


「悪いけど、そういうのは親にでもお願いしてくれ。親に断られたのなら、大人になってから自分で叶えるんだな」


 ジーンズのポケットを探り、くしゃくしゃになったタバコの箱を引っ張り出す。少女に咎められないことを確認してから残り数本のうちの一本をくわえて、安物のライターで火をつけた。


 以前、元同僚がオイルライターで火をつけたほうが美味いと購入を勧めてきたことがあったのだが、吸うことができれば構わない自分は必要性を感じることがなく、購入までには至らなかった。確かに火をつけた瞬間のあのオイルの混ざった香りが鼻腔をくすぐるのは、悪くはないのだけれど。

 それに、真澄が煙を苦手としていたらすぐにでもタバコを捨てるつもりだった。だからライターにまでこだわろうとは思わなかったのだ。


 有史はそこまで考えてからはっと我にかえり、途端に胸の中を支配しようと湧き出てきた寂しさを、タバコの煙とともに長く吐き出した。


「俺に頼むより、親のほうが現実的だと思うけど」


 すこし投げやりな言い方になっていたかもしれない、自分は子供相手に何をやっているのだろう。有史は心の中で苦い顔をして、横目で少女を見遣る。少女は「うーん」と唸りながら、困ったように笑っていた。


「わたし、親がいないんだー。施設育ちってやつ、です」


 そこで一旦区切ってから、彼女は様子をうかがうような視線を有史に向けてきた。見覚えのあるこれは、同情されたくない類の目だ――ああ、また思い出している。


 じわりと胸中を侵してくる感情をごまかすように、有史はタバコに口をつけた。昔の自分がどういう顔をしていたかなんて知る由もないが、こんな目を周囲の人々に向けていた少女を、自分はよく知っている。


「そうか。施設ってのはわがままを言いづらい場所なのか?」


 だから有史は視線をタバコの先に固定して、なんでもないような顔で続きを促すことにした。少しの沈黙のあと、隣からほっとしたような気配が伝わってくる。


「うん。施設には他の子もいるし、わたしより小さい子もいる、ので。わたしだけがわがまま言うわけにはいきません」

「だからって、俺に叶えろと言われても。他の人にしてくれよ、俺より優しいおにーさんなんて腐るほどいる」

「おにーさん、人間がたくさんいたって腐らないよ」

「当たり前だ。みかんみたいに物理的に腐ったら怖いだろう。使い古された例えに文句を言うんじゃありません」


 こんなに喋ったのはいつぶりだろう。たいした時間は経っていないはずなのだが、酷く体力を消耗しているようだ。つい先ほどまではあまり感じなかったが、喉がかわいてしょうがなかった。じわじわと首をしめられているような苦痛に早く話を終えたくて、有史はのろのろと立ち上がった。


「とにかく、他にも頼めそうな人くらい見つかるだろ」

「ううん、おにーさんくらいですよ、頼めるの」


 え、と声を漏らして、有史は数歩はなれた日なたから肩越しに振り返る。


「暇そうで、生きることも死ぬこともできなくて、命がいらない大人なんておにーさんくらいだよ」


 にこにこと、少女は笑っている。いったいいつから聞いていたのか、というより、いったいいつから自分は声に出していたのか。


 やはり最初の印象通りにませた少女なのかもしれない、笑顔の裏に隠されているだろう真意を読み取ることができなかった。あるいは見た目通りに裏なんて持っていないのかもしれず、賢い子供が純粋な願いを抱いた結果なのかもしれない。

 これくらいの年齢の子供が考えていることが分からないくらい、自分も大人になってしまったのだろうか。


「ね、せっかく持て余してる命なら、わたしに使ってくれませんか」


 あくまで無邪気な声で語り掛ける少女の言葉のせいか、単に木陰から出てしまったからか。夏の日差しにすこし目が眩む感覚がする。


「いいですよね、おにーさん」

「……数日間だけだぞ」


 有史は溜息をついて、タバコが入っているのとは反対のポケットから携帯用灰皿を取り出し、吸殻をねじ込む。どうせ時間も金も余っている。この先どうするかを決めるまでの暇つぶしだと思うことにした。


「ほんと? ありがとう!」


 嬉しそうに飛び跳ねる少女を見て、有史はゆっくりと瞬きをした。この子は嬉しいとき、こんな風に笑うのかと。


「ただし、明日からな。どんな願いがあるのかは知らないが、いまは手持ちがないんだ」

「えっとね、わたし、トウカっていいます」

「聞いてるか?」


 絶妙に成り立っていない会話に不安を覚えつつ、トウカ、と心の中で繰り返す。夏の抜けるような空に似た、透明感のある名前だと思った。


「もちろん聞いてますよー。おにーさんの名前は?」

「……有史」

「ユウシさん」

「呼びにくかったら、おにーさんのままでもいいけど」

「うーん、でもすてきな名前だから、名前で呼びたいです。よろしくねユウシさん。あのね、明日のことですけど。まず川にいきたいなーと。綺麗な川に」


 綺麗な川。どうやら初日から遠出をしなければいけないようだ。引き受けたのは自分とはいえ、なんて面倒な。あとで車のガソリンを入れておかなければ。


「待ち合わせは、この公園でいいと思います。わたしの自転車は隅に置いておけばいいし」

「ああ」


 そういえば、トウカはどこの施設にいるのだろう。たしかこの近くには施設はなかったはずだ。本人に聞いてみると、隣町だという。それなら迎えにいこうかと提案すると、彼女は慌てて首を横に振った。


「このことは、ユウシさんとわたしの秘密にしたいんです。ふたりだけの秘密ってやつです」


 真剣に、しかし目を輝かせながら言うトウカに、そういえばこの年頃は秘密という特別な響きに憧れるものなのだと再認識する。自分がそうだったように。


「わかった」

「あとね、時間は朝の十時でいい、です」

「ああ。あのさ、丁寧な言葉使えるのはえらいと思うけど、無理して使わなくていい。なんかすげー違和感だ」

「う、うん。わかった」

「じゃ、今日は帰れ。俺ももう帰るから」

「うん。じゃあ明日、ぜったいね、十時ね!」


 頷くと、トウカは素直に公園の入り口に置いてあった自転車にまたがって、髪を風になびかせながら帰っていった。その背中が見えなくなってから、有史は再びベンチに座って新しいタバコに火をつける。



 実のところ、有史はいま自分にひどく落胆していた。こうして誰かと関わってしまった自分に。何を言われても、頑なに断ることはできたはずなのに。

 それでもと、時々見つけるトウカと真澄の共通点を言い訳にした。トウカの言動は、なぜか真澄を連想させるのだ。決して見た目が似ているわけではないのだが。


 他人に同情されたくなくて、本当に嬉しいときに本当の笑顔を見せて、透明感のある名前を持つ少女。そんなトウカを、有史は無意識に真澄の代わりにしようとしているのだろうか。


 なんて愚かな考えなのだろう。


 きっと夏の日差しに眩暈がしたからだ。それに、トウカのような小学生の子供は昔の自分たちを嫌でも思い出させる。

 有史は自分への言い訳を重ねながら、燻らせた煙が空に溶けていくさまををしばらく眺めていた。

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