第一章

第一話 通りすがりのお願いごと(前)

 手紙を読んだ日から一ヶ月が経ち、本格的な夏が訪れた。


 有史はアパートの近くにある公園の木陰に置かれたベンチに座っていた。平日の昼間になにをするでもなく、ただぼんやりと虚空を眺めるだけ。時折、熱されて涼しいとは言えない風が通り抜けていく。


 仕事は、先日辞めてきた。できることなら直ぐにでも辞めてしまいたかったのだが、さすがに引継ぎなしに辞めることはできなかった。とはいっても高卒から真面目に勤めてきた自分には多くの有給が残っていたため、引継ぎが終わってからはそれを消化した。退職届を提出してから出社した日数は、半月と少しくらいだろうか。


 社会人としては若い年齢だ。そのため引継ぎを必要とする仕事はたいした量ではなかった。おかげで仕事が手につかなくなってしまった状態でもスムーズに引継ぎができたのは幸いだった。


 そう、何もしたくなくなってしまった。同僚のなかでもわざと空気を読もうとしない奴なんかは面白がって理由を訊こうとしてきたが、当たり前ではあるが話すことはなかった。話したところで、大喜びで詳しい話を聞こうとしてくるだろうことはわかりきっていた。「働く意味を失ったから」なんて、彼にとっては最高にくだらない笑い話と同じようなものだろう。

 しかし約束のために働いてきた自分にとって一番適切だと言えるその理由は、いまは笑い飛ばされることは耐え難かった。


 真澄との約束を果たすことが叶わなくなった今、彼女と生きるために働く意味はない。

 有史は、生きる意味を失ってしまった。

 同時に、死ぬ意味も失ってしまった。

 彼女のために生き、彼女のために生を終える。それが全てで、夢であり、希望だったのだから。


 彼女の死をすぐに知ることができたなら、どれだけ良かったことだろう。すぐに後を追うことができたなら、こじつけでありながらも一緒に死ぬということにできたかもしれない。

 しかし、知ったときには既に長い月日が経過していた。何もかもが遅かったのだ。

 その間、もうすぐだと胸を躍らせていた自分の、なんと滑稽なことか。


 ごめん。心の中で謝罪の言葉をつぶやく。もう何回繰り返しただろう、どれだけ繰り返してもあの日に戻れはしないというのに。有史はベンチに座ったまま俯き、両膝の上に腕を組んで、そこに額を押し当てる。そうやって何も見ずに謝ることしかできなかった。ごめん、真澄。


 記憶のなかの彼女は、最後に会った小学生の姿のままだ。それでも当時からかなり整った顔立ちをしていたから、亡くなる前はきっと綺麗に成長していたことだろう。

 彼女は怒っているだろうか。約束を守れなかった自分を責めているだろうか。そう考えると会わせる顔がなくて、墓参りにも行けそうにない。


 お昼時で公園には誰もおらず、俯いたままでも誰かが気に掛けることはない。それがありがたかった。いま顔を上げようものなら、どうしようもないほどの胸の痛みでいまにも叫びだしてしまいそうだった。


 これからどうすればいいのだろう。生きることも死ぬこともしないと、どうなってしまうのだろうか。どうすれば。なにか、なにか上手いこと、この命を投げ出す方法があればいいのに――


「あの」


 突然耳に飛び込んできた声に、有史は驚いて体を起こした。短時間ではあるものの光を遮っていた腕をどけたことで、木陰の先にある日なたの照り返しに、必要以上の眩しさを感じる。眩暈がしそうで、反射的に視線を木陰のなかへ戻そうと自分の左隣を見た瞬間。有史は目を見開いた。

 いつの間にか、見知らぬ少女が隣に座って有史を見上げていたのだ。


 先ほどまでは確かに誰もいなかったはずなのだが、気付かないくらい考え込んでいたのだろうか。それとも気付かないくらい、自分は弱っているのか。どちらにしても、じっとこちらを見つめる少女の視線はなんとも居心地が悪かった。


 見たところ、小学校低学年くらいだろうか。傷みを知らない黒髪は背中まで伸びていて、淡いピンクのカットソーにデニムのショートパンツ、そこから伸びる華奢な足に白いサンダルが映えている。よくいる最近の女の子だ。


「えっと」

「おにーさん、命を投げ出したいの?」


 なにか用かと話しかけようとしたが、少女がそれを遮った。どうやら先ほどの思考はつぶやきとなってダダ漏れだったようだ。


 これは、困ったことになってしまった。

 有史が答えあぐねていると、少女はベンチから飛ぶように身軽な動きで降り、自分と向かい合うように立った。背が低い少女の目線は、ベンチに座る有史の目線とあまり変わらない。


「ねえ、おにーさん」

「……なに」


 きっと親や教師から、世間にとっての大事なことを教えられている時期だ。まさか命の大切さ云々と諭そうとするのではないだろうか。やることもない自分には子供の自信たっぷりなお説教を聞いてあげる時間は山ほどあるのだが、とてつもなく面倒だ。

 有史はにこにこと見つめてくる幼い瞳をうろんげに見返した。もし諭そうとしてきたら、無視して家に帰ってしまおうか。


「あのね、命がいらないんだったら……おにーさんのその命、わたしに預けてみませんか?」

「は?」


 面倒だとかいう以前に、まるで遊びに誘うかのような無邪気さで発せられた、あまりにも突飛な言葉に有史は思わず聞き返してしまった。

 やられたと、正直思った。内容がどうであれ、これでは無視することもできないではないか。

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