命を預けた夏
岩原みお
命を預けた夏
序章
序章 遠い約束と手紙
なぜ、こうなってしまったのか。
今しがた読み終えたばかりの手紙をたたむことすら忘れて、有史はその場に立ち尽くした。
自分になにか問題があったかと考えてみるならば、それは数えきれないほどにあるだろう。それでもこれはあまりにも理不尽ではないかと思うことは多く、その度に自分は抗ってきたつもりだった。
はじまりは、いつだったか。
そうして振り返ってみた自分の人生は、なんとも情けないものだった。
□
物心ついた頃からいたずらばかりしていた有史は、近所の人たちにあまり好かれていないことを幼いながらに理解していた。いたずらをする度に理由もきかずに頭をさげていた母親は世間体をなにより大事にしたがる人だったものだから、きっと母親からも、自分は疎まれていたことだろう。
あまり他人を信用せず、何事もくだらないと決めつけてばかりいる、誰が見ても可愛げのない子供だった。
なぜそんなことをしていたのかと問われると、特に理由はなかったように思う。ただ、当時の有史の瞳に映る世界はとてもつまらないものだった。
ひとつ、例外を除いては。
小学四年生まで住んでいた、有史が生まれた小さな町。その町が与えてくれたものの大半は有史にとってどうでもいいものだったが、唯一、幼馴染の真澄との出会いだけは感謝したいと思えることだった。
いまでも忘れはしない。初めて会った静かな路地裏、遠くで奏でられるかすかなお囃子を運んできた風も。一緒に歩んだ短い季節も。振り返った笑顔や、自分を呼ぶ声すらも。
真澄は有史よりひとつ年上で、名前のとおりに透明感のある綺麗な子だった。普段はおとなしくて控えめに笑う子であったが、本当に嬉しいことがあったとき、それは綺麗な笑顔をみせるのだ。
彼女は有史のようにいたずらで近所から非難の目を浴びることはなかったが、消極的な性格だったためか、同年代の子供の輪にうまく入ることができなかったらしい。
いつしか有史と真澄は家が近いことを口実にして、理由はちがうもののコミュニティから外れてしまった者同士、よく遊ぶようになった。
「ねえ、いいものみせてあげる」
「え、なーに?」
「きて」
「うん!」
有史にはとっておきの場所があった。いわゆる秘密基地というものだ。小学一年生の夏のはじめ、有史はそれを真澄に教えることにした。
その場所を見つけたのは数ヶ月前、小学校にあがるすこし前のことだった。
町のはずれにある高台の、小さな時計塔へと続く道中。とある場所から横の雑木林に入り、真っ直ぐに進んでいくとほんの少しだけ開けた場所に出る。そこは時計塔よりは低いものの町が一望できて、遠くの山に夕日が沈みゆく様を誰にも邪魔されずに眺めることができた。
自分にとってつまらない一日が、終わりを告げるように変わっていく空の色を眺めるのは、わりと好きだった。いたずらと真澄以外に好きなものがなかった有史にとって、好ましいものが増えることは一大ニュースのようなことだったのだ。
だから、そんな景色を彼女と眺めることができたなら、それはどんなに素晴らしいことだろうと。有史はそう考えて、真澄に教えることを決めたのだった。
「ここからすこし目をとじてて、おれが手をひいてあげるから。すぐだからね」
「うん、わかった」
目を閉じた真澄からかすかな緊張を感じたが、有史はきっとそれ以上に緊張していたと思う。しかし真澄より一足先に景色を見た瞬間、その緊張も吹っ飛んでしまった。
「もういいよ。どう?」
「……!」
有史が思ったとおり真澄はとても喜んでくれたし、彼女と見る夕日は綺麗だった。
しかしそれ以上に嬉しかったのは、帰り際に「この場所は他のひとにはないしょだよ」と言ったときの真澄の笑顔が、本当に嬉しいことがあったときに見せるものだったということだ。
あの年頃は誰もが「特別」を喜ぶもので、とくに自分たちはその傾向が強かったように思う。きっと、周りになんと思われようともお互いがいれば大丈夫だと、自分に言い聞かせていたかったのかもしれない。
そういうわけで、それからの二人はことあるごとにその場所へと足を運んだ。あるときは有史がその日のいたずらの成功談を、あるときは失敗談を大げさに話し、またあるときはお菓子やおもちゃを持ち寄って遊んだ。まじめな真澄に説得されて、宿題を持っていくこともあった。
有史はいたずらをしていたからといって勉強をしなかったわけではないが――むしろ勉強は嫌いではなく、家でしっかりと宿題をやってはいたのだが――真澄いわく「私たちはうんと勉強をして、まわりの人をあっと言わせるべきだよ」とのことで、秘密の計画めいたその説得は、有史が頷くのにじゅうぶんな理由だったのだ。
結論から言えば、それによって頭でっかちになった自分は更に世間をつまらなく思う気持ちに拍車がかかった気がするし、真澄も余計周囲に馴染めなくなってしまったかもしれない。
それでも、有史には真澄がいるから。真澄には有史がいるから。
だから大丈夫なのだ、と。
そんな孤独をつなぎ合わせたような関係が崩れてしまうことは、有史にとって何よりも怖いことだった。
有史は、近所の大人たちがいつか真澄を連れて行ってしまうのではないかと考えると、とてつもない恐怖におそわれた。きっと真澄も同じような恐怖を感じていたのではないかと思う。
有史が同級生と喧嘩をした日、彼女は自分と一緒にいるせいなのではないかと聞いてきた。実際その通りだったりしたのだが、それを伝えることで真澄が離れてしまうのは、同級生と喧嘩することよりもずっと嫌だった。だからそのときは適当な理由をでっちあげて、真澄が安心できるように努めていた。
そんなことを繰り返すうち、いつしか二人の居場所は互いの居る場所となり、それが秘密基地となっていた。
茂みのなかの小さな空間は、依存し合っていた二人だけの世界だった。
「大人になったら、この場所が狭く感じるのかな」
いつものように沈みゆく陽を眺めているとき、真澄が呟いた。
「狭くなっても、こうやって座っていれば大丈夫だよ。それに、大人になったらここだけじゃなくて、ふたりでいろんな場所に行けるよ」
二年生になっても三年生になっても「大人になること」は想像がつかないほど遠いことだったが、それでも真澄がいない未来を考えるほうが難しかった。
語るのは漠然とした夢でしかなかったのだが、ただそれだけで幸せだった。
「そうだね。一緒にいろんな場所へ行きたいな」
「俺たちなら、ずっと一緒にいられるよ」
「どっちかがいなくなっちゃったら」
「いなくならない」
「でも、もしかしたら事故でしんじゃったりするかも。なにがあるかわからないよ」
「それでも大丈夫、きっと俺たちはしぬときも一緒だと思う」
幼い自分たちの幼い夢は、そのときは確かな形となっているように感じた。
「長生きしたら、おじいちゃんとおばあちゃんになっても一緒にいるのかな」
「うん、きっとそうだと思う。おじいちゃんとおばあちゃんになっても、一緒にいる」
「それ、プロポーズっていうんだよ」
からかい半分の真澄の笑顔は、この場所を教えたときのものによく似ていた。それでも真澄の頬が赤くなっているように見えたのは夕日のせいだ、そう結論づけて、自分の頬が温かいのも夕日が照らしているせいだと思い込むようにした。
周りからはどうしようもない男の子と、かわいそうな女の子としか見られていなかった二人。でも、それでじゅうぶんだった。
しかし有史が四年生、真澄が五年生となった、とても暑い夏。自分たちの世界は壊されてしまうこととなる。
とある事件をきっかけに二人は一緒に遊ぶことを互いの親に禁じられ、さらに有史は遠くへ引っ越さなければいけなくなってしまった。
引っ越しをしたあとも、きっと連絡をとることを許されはしないだろう。まだ小学生が携帯電話を持つことのない時代、ほんの子供だった自分たちにとって、親という存在に隠れて連絡をとりあう手段は皆無だった。
引っ越しは、夜の闇にまぎれるように行うこととなった。周りの目を気にして引っ越すことが本当にあるのだと、なぜそんなことをしなければならないのかと、他人事のように感じていたのを覚えている。なぜなら有史は、その事件だけは自分に非はないと確信していたからだ。
それでも世間というものはどこまでも冷たく、普段からいたずらばかりしていた「はみ出し者」である少年を、都合よく守るようなことはしなかった。
有史はただ、真澄が心配だった。学校生活はこれから先何年も続くというのに、自分以外の友達を知らない真澄に、いままでのように安心できる場所を与えることができなくなる。
西に傾いた太陽が高度を下げるにつれて、その心配はじわじわと恐怖へと移り変わっていった。現実味のない引っ越し準備が終わってから見上げた空は、赤く染まるまであまり時間はかからないようだった。
親には最後にこの町を見ておきたいと言って、有史は外へと飛び出した。その言葉に隠した意味に気付いてはいただろうが――もしくは、気付いていたからこそなのだろう――母はなにも言わなかった。
町を見るということは、嘘ではないのだから。
見慣れた商店街を駆け抜けて、町内のイベントに使われる広場を通り過ぎ、町のはずれを目指す。道端で丸くなっていた野良のぶち猫が、「またお前か」とでも言いたげに鳴いた。
そんなに迷惑そうな顔をするなよと、有史は走りながら思った。このぶち猫が昼寝しているところをよく邪魔したものだったが、たまに餌をあげてやっていたじゃないか。これからは自分で餌を探すんだぞと言いたかったが、そう思ったころには曲がり角で見えなくなっていたものだから、諦めて目的地を目指すことだけを考えるようにした。
いつのまにか民家はまばらになって、高台へとつづく坂にさしかかっていた。
その場所をはじめて見つけたのは、本当に偶然だった。
いつものようにいたずらをして、いつものように近所の人から逃げている途中。このまま行くと小さな時計塔があって、でももしそこまで追いかけてきたら逃げ場がなくなってしまうから、途中で横の雑木林に入ってみた。目の前に隠れるのによさそうな茂みがあって、その茂みの裏で近所の人が諦めるのを待とうとしたときだった。
木々の隙間からこぼれていた、燃えるようなオレンジ。それに誘われるように進んだ先で。低く身を沈めた太陽が真っ赤に燃えている様子が目に飛び込んできて、夕日がこんなにも綺麗なものなのだと、有史はそのとき初めて知ったのだった。
あれから、何度この道を通っただろうか。夏の夕方は蒸し暑くて、すこし走っただけで服が身体にひっついてしまう。この茂みの先にすこし開けた場所があって、いつしかそこに真澄の背中が見えることが当たり前となっていた。
秘密基地を教えた当初は、有史のほうが先に来ていた。しかし、あるとき真澄のほうが早く来ていたことがあって、そのとき有史はとても嬉しく思ったものだった。彼女にとっても、この場所が特別なものになったのだと。
それ以来、はやる気持ちを抑えて、わざとゆっくり来るようにした。待っている真澄の背中を見て、声をかけて、振り向いた彼女の笑顔に居場所を感じたくて。
この場所に来るのは、最後になるかもしれない。そこに彼女の背中が見えないのは正直とても寂しい、そう思いながら茂みを抜ける。染まり始めた西日に目を細め、しかしその直後、有史は驚きに目を見開いた。
空間を照らす太陽の光に、見慣れた影があったからだ。
真澄は、両膝をかかえて座っていた。有史がここに来ようと決めたのはつい先ほどで、いまの状況で連絡などできるはずもない。
それなのに待ち合わせたわけでもなく、彼女はただ静かにそこに座っていた。
もしかしたら、自分は期待をしていたのかもしれない。ここに来れば彼女に会えるかもしれないと。
「お母さんが、こっそり教えてくれたんだ。……今夜だよって」
声をかけることもできずにその背中を見ていると、真澄は夕日に視線を固定したまま、ひとり言のように話し始めた。
「だから、有史がここに来るんじゃないかなって」
「そっか」
真澄は自分に会いに来てくれたのだ。他の人が別れを惜しむことのないような自分に。なんだか胸が締め付けられるようで、視界がほんのすこしだけぼやける。一度目を閉じて溢れそうになるものを堪えてからゆっくり瞼をあげると、僅かに滲んだ涙に西日が乱反射して、世界がきらきらと輝いて見えた。
彼女の背中越しに見える小さな町、小さな世界は、夢のように美しかった。
「私ね、この町はあまり好きになれないけど、ここから眺める町は好きだったんだよ」
有史は真澄の右隣に腰をおろして、同じようにひざを抱えて町を眺めた。いつも自分が座っていた場所だ。
「うん、俺も」
「きっとね、有史がいたからだね」
その声にどことなく違和感を覚えて、有史は左隣をちらりと見た。そして、すぐに町並みへと視線を戻した。
「……うん、俺も、真澄がいたからだ」
真澄は泣いていた。名前のように透明感のある彼女に似合う、綺麗な涙だと思った。
しばらくの間、互いに無言で景色を眺めていた。眩しいオレンジだった太陽が落ち着いた深い赤になった頃、真澄が再び口を開く。
「前にさ」
「ん?」
「ずっと一緒にいたいねって、話してたけど。だめになっちゃったね」
「連絡とるのも難しいからね。……でも」
あのときも今も、まだまだ遠いけれど。
「大人になったら。大人になって、どこにでも行けるようになったら。そしたらまた、会える。会いにくるから」
今はまだ、ひとつ年上の真澄のほうがすこしだけ背が高いけれど。大人になるころには自分のほうがおおきくなっていて、真澄もきっと、今よりもっと綺麗になっていて。そんな将来を漠然と予想して、ついでに未来の自分をかっこよく想像してみたりして。
「そしたら今度こそ、ずっと一緒にいられるよ」
左隣から聞こえる嗚咽には気付かないふりをした。きっと彼女も、自分のくしゃくしゃになった顔に気付かないふりをしてくれているだろうから。
「楽しみに待ってるね。約束だよ」
「うん、約束だ」
「そのときは一緒に死ぬまで、一緒に生きようね」
「もちろん。絶対に忘れない」
視界の隅に差し出された小指に、自分の小指を絡めた。互いに顔を見ないまま、弱々しく指切りをする。
それが終わると彼女の指がするりと離れて、左隣の体温も離れて、彼女の気配が遠ざかっていく。
今日ここで自分たちが会って交わした幼い約束は、誰にも教えてはいけない秘密だ。真澄はきっと、どこかで涙を落ち着けてから家に帰るのだろう。
有史の涙は、すぐには止まりそうになかった。それでも辺りが暗くなるころには何もなかったかのように家へと帰った。
そして町の住人が寝静まった深夜、有史は家族と共にこっそりとこの町を去ったのだった。
□
月日は流れて、遠く離れた街で有史は二十三歳となった。
あれからいたずらっ子は卒業し、あの約束を守るためだけに、ひたすら真面目に生きてきたつもりだ。親元を離れてちっぽけなワンルームを借り、自力で生きていく力がようやく身についてきたところだった。
そんな有史のもとへ母親からの手紙が届いたのは、初夏のことだった。
いつも何かあるときは電話をよこしてくるのに、なぜわざわざ手紙なのだろう。そう訝しみながらも、どうせくだらないことだろうと軽い気持ちで開いた手紙の内容に、身動きがとれなくなった。
信じたくなかった。
約束を守るために努力を重ねた日々が、音もなく掻き消えた。
鳴きはじめた蝉の声が、やたらとうるさく感じた。
おかしいな、さっきはこんなにうるさいとは思わなかったはずだ。これから真夏にむけて蝉が増えるはずなのに、いまからこんなにうるさいと、真夏には外を歩けなくなるのではないかと頭の隅でぼんやり考えながら、有史はのろのろと手紙を読み返した。
きっと蝉がうるさくて集中できなかったから、読み間違えたのだ。
しかし何度読み返しても、内容が変わることはなかった。
真澄は亡くなっていた。
それも、七年も前に。
交通事故だった。すぐには有史に伝えないほうがいいと、双方の親が話し合った結果、いまになって知ることとなった。
親たちの判断は正しかったのかもしれない。おかげで自分は叶わぬ夢を見ながら、いままでのうのうと生きてきたのだ。
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