第12話
どれくらい泣いていたのか、ふと、人の気配がしたような気がして振り帰ると、すぐ後ろに、腕を組んだ鉄吉が立っていた。
こちらを見下ろす鉄吉の顔は、普段よりもずっと柔らかく見えた。
「怨念が残っていない。無事、成仏したみたいだな」
鉄吉にはわかるようだ。
鼻をすすりながら頷く。
鉄吉がさらに近づいてきたと思ったとたん、頭をぽんぽんと触られた。
「よくやった」
こちらをのぞき込んでくる鉄吉の目が優しい。
ほんの一瞬、胸にすがりついて泣きたい気持ちに駆られて、慌てて目を逸らした。
頼子さんがいなくなった寂しさのせいとはいえ、何を血迷ってるんだろう、私は。
立ち上がりながら眼鏡をはずして、ぐいぐいと力を込めて、両目をこぶしでぬぐう。
「……いいぞ」
急に鉄吉がそんなことを言うから、目を開いてみてみると、自分の胸を右手で軽く叩いている。
「何?」
「拭いてもいいぞ、と言っている」
「へ?」
「ハンカチを探したが持っていなかった。そしてお前も持っていないようだ。そんなに目をごしごしこすると腫れるぞ。だから、胸を貸す。風呂には入ってないが、シャツは着替えた。まだ洗い立てだ」
「真面目に言ってるの?」
鉄吉が真剣な顔をして頷いた。
心の中は喪失感でいっぱいのはずなのに、思わず笑ってしまった。
「鼻水もついちゃうよ」
「緊急事態だ。許す」
鉄吉はどこまで大まじめだ。
「遠慮しとく」
「何でだ?」
「うちに帰ってからゆっくり泣くことにする」
「泣けるときに泣かないと、心にたまるぞ」
「あんたが邪魔したの」
「そうなのか?」
鉄吉はきょとんとしている。さすが、女心のわからない奴だ。
「あの幽霊は、お前にとって、そんなに近しい存在だったのか?」
「うん。あの人は私にとって、すごく大切な人だったの。もっと一緒にいたかった」
素直に言うと、鉄吉が腕を再び組んで、思案するように宙を睨んだ。
しばらくそのまま動かない。
つきあう義理もないので、帰ろうと一歩踏み出したときだった。
「そうか。だったら……」
なにやら言い出した鉄吉を振り返ると、鬼のような形相をしているから驚いた。
「お前のそばに、ずっと俺がいてやる」
「はい?」
なんでそうなるのか、まったく理解できずに聞きかえした。
「二人なら寂しくないだろう。だからお前がもういいというまで、一緒にいてやる」
何と返せばいいかわからず、私は脱力した。
鉄吉はきっと優しさからそう言ってくれている。
だけど、その優しさは、幼い子が持つ純粋なものに近くて、こういう場合はちょっと違うんだと説明するのが難しい。
返事を待つようにこちらを見る鉄吉は、主人の命令を待つ忠実な大型犬に似ていて、邪険にするのがためらわれた。
「そういうことを、いい歳した男が女性に言うのは、好きだって言ってるのとほぼ同じだと思うよ」
かんで含めるように言う。
「なっ!」
鉄吉が今更のように固まった。
月光の下ではわからないけど、たぶん真っ赤になってるのだろう。
面白くて、ちょっとからかってみたくなる。
「鉄吉の好きな子、いるんでしょ? 私、知ってるよ」
「え?」
鉄吉は落ち着かないように視線をさまよわせた。
いつも冷静な鉄吉が取り乱す姿は新鮮だ。
たっぷりじらしてから、言ってやった。
「鉄吉が好きなのは、高木先輩の彼女でしょ?」
無言で鉄吉が私を見る。
ざあっと風が吹き抜けた。
あれ?
何で驚かないんだろ?
「違う」
低い声で、鉄吉がそう言った。
「違うの? だって、下村先輩に好きな子がいるって言ってたよね? 私、てっきり先輩の彼女のことだと……」
言ってしまった後に、まずいと思った。
鉄吉の顔つきが険しくなる。
「何故、知ってる?」
「えと……」
うまいいい訳が見つからなかった。
「聞、聞いちゃったんだ」
「盗み聞きしたってことか?」
その一言は、本当なだけに痛かった。
素直にごめんなさいと言ったほうがいい、と頭の隅で思うのに、つい反発してしまう。
「鉄吉に話したいことがあったから、探しにいったの。そしたら、渡り廊下の近くで、そんな込み入った話しをしてるんだもん。気になっちゃうじゃない。鉄吉だって、私と先輩が部屋にはいった後、気配をうかがってたでしょ」
「それはその必要があったからだ」
鉄吉のほうが圧倒的に正しいとわかっている。
その分、心の中がやましさでいっぱいになってしまう。
「なによ。自分は間違ったことはしない、みたいに言うのね。好きな子がいるのに、下村先輩にキスしちゃうくせに」
言っちゃ駄目だと思うのに、止まらなかった。
「お前、それも見てたのか……」
鉄吉が呆れたように言った。
鉄吉に嫌われたかも知れない。
そう思ったら、急にものすごく怖くなった。
「それは下村先輩が望んだからだ」
「でも、相手に言われたなら、好きでもない相手とキスするの?」
鉄吉はずるい。
初めてそう思った。
鉄吉は確かに優しい。
悪霊退治につきあい、ドアを蹴破り、蹴破ったドアを直して、夜の展望台に私を慰めに来るほどに。
でも、誰にでも優しすぎるのは、誰も選んでないのと一緒で、それは、きっとみんなを傷つける。
鉄吉がはっとしたように私を見た。
「なぜ泣く?」
「わかんないよ。わかんないけど、鉄吉が、下村先輩にキスをするのは嫌だった。他の誰にもしてほしくなかった」
なんで泣きながらこんなことを言っているのか、自分でもわからない。
鉄吉が私を見つめる。月明かりを反射した鉄吉の瞳は、青みがかってみえて、とても美しかった。
鉄吉の人差し指が、私の額に近づく。
何かと思ったら、トントンと軽く二度、おでこを触られた。
「な、なに?」
「俺は確かにキスをした。下村先輩の額に」
「……え?」
記憶を手繰る。
あのとき、鉄吉は頭を下げ……。
あれ?
そういえば、まっすぐ頭を下げていたような。
普通、映画やドラマでキスするときは、男の人は斜めから行くよね?
まっすぐ下げたら、鼻にぶつかっちゃう。
じゃあ、鉄吉は本当に……。
「女子の額にキスは駄目なのか? それなら許されると思ったが……」
鉄吉が不安そうに聞く。
「え、いや、おでこは、たぶん、大丈夫かと」
たどたどしく答えると、鉄吉が安心したように笑った。
「良かった。下村先輩の要望にはできるだけ答えたかったが、あれが精一杯だった。好きな子以外に、そういうことをしたくはない」
そういいながら、鉄吉が自分のシャツの端をつかんで、私の涙を拭いてくれた。
予想していなかった行動に、とっさに反応できず、されるがままになってしまった。
どうやら、嫌われてはないみたいだと安心はしたものの、シャツが大きくめくれて、割れた腹筋が丸見えだ。恥ずかしくて仕方がない。
「盗み聞きも、盗み見も褒められたものじゃないが、俺のことをそこまで気にしてくれるのは、正直嬉しい」
「え?」
見上げると鉄吉が微笑んでいた。
「俺には確かに好きな子がいる。入試の日、駅から大学に行く道で、迷っている老人を交番まで案内した子だ。試験開始時間に間に合うかどうかわからないのに、その子は老人に付き添って、交番まで行った。学生も、通行人も、みんな関わり会いたくなくて、下を向いていたのに」
小雪が舞う入試の日のことを思い出す。
私はあの日、道に迷う老人に会った。最初は通り過ぎてしまったけど、心細そうな顔と、凍えるような寒さのなか、おそらく家着で出てきてしまったらしい服装の老人が気になって、結局引き返して、一緒に交番にいったのだ。
おかげで、大学まで走りづめで、ぎりぎりセーフだったのだけど、試験には間に合ったし合格したから、結果オーライだった。
「それって……」
「そうだ。お前のことだ。俺はお前が声をかけなければ、あの老人を送るつもりだった。だから気になって、全部見てたんだ」
頭が真っ白になった。
「……ええー!」
大声をあげてしまって、慌ててあたりを見回す。
建物から離れているとはいえ、誰かに気づかれないとも限らない。
「お前の良さを知ってるのは俺だけだと思って安心していたのに、どんどん綺麗になるから、心配した。案の定、周りの男の見る目が変わったし。だけど、お前が前より幸せそうに笑うようになったから、今は幽霊に感謝している」
「そ、そ、そんな……。だって、鉄吉は誰にでも優しいし」
「お前にだけは特別優しくしてたぞ。俺も男だ。下心がある。いい人なだけで、ここまで骨をおるものか。なのに、全く気づかない。どんだけ鈍感なんだと思ってた」
空気を読めない鉄吉に、鈍感だと思われていたなんてショックだ。
しゅんとする私の頭に、鉄吉がそっと手を置いた。
「こんなこと、言うつもりはなかったのにな。さっきの酒のせいで、まだ、酔ってるらしい。嫌なら、忘れてくれればいい。お前が嫌がることを、俺はしない」
鉄吉の温かい手が、頭から離れる。
咄嗟に、その手をつかんでしまった。
自分でも驚いて、あたふたしてしまう。
「あの……答えを出すの、ゆっくりでもいい? いろいろありすぎて、混乱してて……」
頷いた鉄吉が、私につかまれた手をそっとほどき、改めてちゃんとつなぎなおしてくれた。
「もう帰ろう」
「高木先輩、大丈夫だったかな。今頃大騒ぎだったら、どうしよう」
「大きなケガはしていなかったし、問題はない。幽霊の件なら、俺が奴に暗示をかけておいた。肝試しを始めたころからの記憶は、すべて曖昧になっているはずだ」
「…………」
暗示って、なんの技なの、それは?
鉄吉、敵に回すと恐ろしいわ。
ゆっくりゆっくりと、山道を下りていく。
鉄吉の手の感触は、とても大きくごつごつとしていた。
高木先輩と手をつないだときよりも、もっとドキドキしている自分に、私は気がつかないふりをする。
この気持ちがいったい何なのか、まだまだわからないけど、でも今は、このままでいたかった。
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