第11話
蹴破ったドアを修理すると言う鉄吉を残して、私と頼子さんは展望台に登った。
光源はポケットに入れっぱなしだった携帯電話しか持っていなかったけど、夜空には雲ひとつなく、煌々と輝く月が足もとを照らし出してくれる。
頂上へとたどり着くと、古ぼけたベンチが一つ置いてあった。
腐食が進んだベンチは、それでも私一人の体重ならなんとか座れそうで、私たちは並んで腰をおろした。
目の前には、琵琶湖が広がっている。
月明かりに照らされて、琵琶湖全体がきらきらと銀色に輝いていた。
頼子さんと一緒に、しばらく無言で座る。
何から話せばいいか、迷ってしまう。
いきなり確信に迫る話はしにくいし、やっぱり一番聞きやすいのは、和美さんのことだ。
「あの……」
話しかけると、頼子さんがびくりと体を震わせて、私を見た。
身構えられると、こちらも挙動不審になってしまう。
「な、なに?」
「いや、その、和美さんって何者なんだろうって思って? 二〇二号室の幽霊ですよね」
早口で言うと、ほっとしたように頼子さんが頷いた。
「え、ええ、そうよ。あの子、二〇二号室にずっと憑いてたんだって。文机に憑いてたときのあたしみたいに、はっきりとは自分を意識せず、でも存在してるって状態でね」
「それがどうして、私たちに襲いかかってくるような話になっちゃったんですか?」
頼子さんは、頭を軽くかいた。
「えーとね、これ、ちょっと言いにくいんだけど、あたし、実はあんたと一緒にバスに乗って、ここまで来たのよね。で、バスの中で肝試しの話を聞いてたの。それで、いろいろあって、結果、こうなりました」
「え? じゃあ、あれは嘘なんですか? 私を追って、一生懸命ここにたどり着いたって言うの……」
「そんなことしないわよ」
からからと頼子さんが笑う。
そんなにまでして、来てくれたんだ、と感動したのに……。
「もっと言えば、あの建物に結界があるというのも作り事よ」
「ですよね。だって、しっかり二○五号室に出てきたもん。で、いろいろの中身は何だったんですか?」
苦々しい気持ちで、頼子さんに話の続きを促す。
「バスの中で聞いた話が気になって二〇二号室にいったの。先輩幽霊がいるなら、挨拶は必要でしょ? そしたら、和美ちゃんがいたってわけ。あの子、あたしに反応して目を覚ましたんだけど、いまひとつ、何が目的で存在してるのか、わからなかったのよね。で、いろいろ話しているうちに意気投合しちゃって。そこで、あたしはひらめきました。和美ちゃんに協力を頼むことを」
「先輩を襲ってほしいって頼んだんですか?」
頼子さんが、手を顔の前でひらひらと動かした。
「とんでもない。そもそも、和美ちゃんが浮気男に復讐することを願ってる、ってわからなかったんだもん。あたしはただ、肝試しで、和美ちゃんにあんたを脅かしてもらおうと思ったの。あたしのことが見えるあんたなら、和美ちゃんが見えるはずだもん」
「なんで、私を脅かすんですか?」
「高木くんと一緒にいるあんたが、幽霊が見えるって怯えまくるでしょ? そこで、あたしがポルターガイスト! 部屋はめちゃくちゃ、高木くんもびびる。んで、あんたをほったらかして、一目散に逃げる。あんたはそんな高木くんに幻滅する」
頼子さんが、軽く握ったこぶしの指を一本ずつ開く。最後に開ききった手をバイバイするように振った。
「そんな計画が……」
どうりで、頼子さんがいきなり肝試しに行くことを勧めてきたわけだ。
「高木先輩が逃げるかどうか、わかんないじゃないですか?」
「そのときは、そのときよ。あんたを守ろうとする男なら、ちょっとは見る目があるってことでしょ? この計画は、失敗しても、成功しても、どっちでもメリットがあったの」
そう言われれば、確かにそうだ。
「ま、十中八九、高木くんは、あんたをほっぽって逃げるって思ってたけどね。邪魔になりそうなのは、鉄吉くんだった。計画に巻き込むせいで、和美ちゃんが消されちゃったら大変だし。だからあたし、鉄吉くんに会いにいったの」
鉄吉が頼子さんと会ってたというのは、考えていなかった。なんとなく、裏切られたような気持ちだ。
「じゃ、鉄吉は、頼子さんの企みを知ってたってことですか?」
ばつが悪そうに、頼子さんが小さく頷く。
「鉄吉に消されたら、怖いって思わなかったんですか?」
「いきなり、そんなことしない子だって思ったんだもん。あんたを見る鉄吉くんの目は、いつも優しいし。あの子、いい子ね。あたしの話、ちゃんと聞いてくれた。危ないからやめたほうがいいと言われたけど、粘ったの。そしたら、あんたがあたしのことを大切に思っているなら、協力してもいいって」
非常階段で鉄吉と話したことを思い出す。
あのとき、鉄吉は、もう頼子さんと会っていたに違いない。
それで、幽霊が誰なのか、私に聞いたのか。幽霊が言ったことが本当か、確かめるために。
私はその正体をまだ知らなかったけど、自分にとって大切な人だということは、鉄吉に伝えた。
だから鉄吉は、頼子さんの計画に協力したんだ。
「和美ちゃんも承諾してくれたし、うまく行くはずだったのよ。高木くんが二〇二号室を素通りしなければ」
「え? 二○五号室じゃなくて、二〇二号室にいたんですか?」
「いたいた。みんな神妙な顔で線香を立てていくの。けっこう、笑えた。だけど、あんたたちは通りすぎちゃったじゃない。どうしようか、と思ってたら、和美ちゃんの様子が急変するからびっくりよ。和美ちゃん、昔に同じようなことがあったみたいなの。浮気現場を押さえるために隠れていた部屋を、旦那さんと手をつないだ浮気相手が通り過ぎて、先の部屋にはいるのを見たんだって。宙を睨みながら、低い声でぶつぶつ語り始めるから、怖いのなんのって。そのうえ、あの顔」
頼子さんは、自分の両手で自分を抱きしめるようにして、ぶるりと震えた。
「悪霊、超こわっ!」
同じ幽霊なのに、幽霊を怖がる様子がなんだか面白い。
「あっという間に、あんたたちのところに行っちゃうし、後を追おうとしても、和美ちゃんの力のせいで、跳ね返されちゃうし、もう、どうしようかと思ったわ。鉄吉くんが来てくれなかったらと思うとぞっとする」
「それはこっちの台詞です。心臓止まりそうなほど、怖かったんですよ」
鉄吉が来てくれなかったらと思うと、今更ながら足が震える。
「そうだよね。ほんと、ごめんね。でも高木くんのことは、どうしても、あきらめてほしかったの」
頼子さんが背中を丸めて小さくなった。
ひどくしょんぼりとしたその様子が、少しかわいそうに思えてきた。
「ねえ、頼子さん。なんでそんなにまでして、高木先輩をあきらめさせたかったんですか?」
頼子さんは、困ったように爪をいじった。
「高木くんは、あんたを泣かせると思ったから。実際、そうだったんじゃないの?」
「確かに、そうだったけど……」
無理やり迫ってきたことも、悪霊から逃げるために私をダシにしたことも、絶対許せない。
あんな姿を見た今は、先輩を好きだと思っていたことを不思議に感じるほどだ。
そう思った瞬間、頼子さんが勢いよく立ち上がった。
ワナワナと手を震わせている。
また、私の思考を読んだらしい。
「あいつ、そんなことしたの? 迫ってきたって、あんた、大丈夫だったの? キスとか、まさか、あんなことや、こんなこともされちゃったんじゃないでしょうね!」
つかみかからんばかりの、ものすごい剣幕に圧倒される。
「な、何もされてないですよ。その前に、和美さんが現れて、それどころじゃなくなったんだから」
「でも、あんたをダシに逃げようとしたんでしょ? 最低ね! 本当にド最低だわ。やっぱ、あいつの息子らしいわ!」
「あいつ?」
はっとしたように頼子さんが黙り込んだ。
「あいつって? 高木先輩が息子なら、先輩のお父さんのことですよね? 何で知ってるんですか?」
頼子さんはこぶしをぎゅっと握り締めた。
唇を一直線に引き結んで、両手を握り締めて立つ頼子さんは、なんとなく途方にくれた子供のように見えた。
「頼子さん?」
ふっと体の力を抜いた頼子さんは、ベンチに再び腰を下ろした。
「あたしって、嘘が下手よね。黙っていようと思っても、なーんかひとこと、ぽろって言っちゃう」
頼子さんは、ため息とともにそう言った。
「高木くんパパの話をする前に、あんたはどこまで知ってるの? あたしの名前だけ、なんてわけないよね」
「頼子さんが叔母さんとお母さんの友達だったってことと、それから……」
言いよどむ私を、頼子さんはじっと見つめているようだ。目のあたりが見えないからわからないけど。
「それから、頼子さんは、私を産んだ人だって」
頼子さんは大きく息を吐いた。
「そう、百合(ゆり)に聞いたのね」
叔母さんの名前を懐かしそうにそっと呟く。
「本当……なの?」
頼子さんが小さく頷いた。
覚悟していたはずなのに、頼子さんにそうだといわれると、どんな顔をしていいかわからなかった。
驚き、悲しみ、怒り、そして、懐かしさ。様々なものが混ざったような、形容しがたい気持ちが湧き上がってくる。
「どうして、なんでずっと黙ってたんですか? 私と会った時、すぐに自分が産んだ子だって、わかったんでしょ? だから、神様の温情って言ったんでしょ?」
「え? あたし、そんなこと、言ったけ?」
神妙な様子で聞いていた頼子さんが、首をかしげる。
「言いましたよ。しっかり聞いたもん」
「あっちゃー、駄目じゃん。もうそこで、ぽろって余計なこと言ってる」
頼子さんが舌を出した。
思いがけないコミカルな動きに、ふっと笑いがこみあげてきて、そのせいか、ちょっと落ち着いた。
「ねえ、どうして隠してたんですか?」
重ねて問うと、頼子さんは両手を組んで、指をいじいじと動かした。
「言わなきゃ駄目?」
「駄目ですよ。絶対に」
「言っても、あたしのこと、嫌いになったりしない?」
「へ?」
冗談かと思ったが、頼子さんは緊張したように背筋をぴんと伸ばし、私の様子を伺っている。
「嫌いになったりしません。約束します」
「じゃあ、話す」
気合を入れるように、頼子さんは頬をぴしゃぴしゃと叩いた。
「あたしの家は、あんたの叔母さんと、お母さんが住んでいた家と近くてね。仲が良かったのよ。あんたのお母さんと同級生だったし、気も合ったから、家にもよく行って、百合とも遊んでた。でも、中学生のとき、親が離婚しちゃって。家も引っ越すことになって、疎遠になっちゃった。貧乏でね、高校は何とか出たけど、その後は、就職するしかなかった。そのとき入った会社に、高木くんの父親がいたの」
頼子さんはふふっと笑った。
「正直、顔は本当にかっこよかった。恋愛経験ゼロのあたしは、入社早々、恋に落ちたわ。親子そろって、面食いよね」
それには返す言葉がない。
「それでも、あたしが二十三歳になるときまでは、清い片思いだったのよ。高木くんパパをめぐっての、血みどろの争奪戦に参加する勇気はなかったし、勝ち抜いた女と結婚したのも知ってたし。だけど、あいつは奥さんがいるのにもかかわらず、あたしにちょっかいを出してきた。最初は断った。でも、好きな相手からのアプローチを断り続けられるほど、あたしは強くなかったのよね。自分に自信もなかったし」
「それじゃ……」
「奥さんがいるのを知りつつ、付き合った。楽しい気持ちなんて、ほんの少し。後はひたすら辛かった。あいつはあたしの気持ちを一切考えることもなく、自分の思いを優先する。二年間、耐えて、耐えて、もう無理だと思った頃だった。あたしは心から好きになれる相手に出会ったの」
「なら、高木先輩のお父さんとは別れたの?」
「すったもんだの末にね。で、その新しい彼と付き合い始めた。彼はまだ大学生で、結婚なんてまだ先の話だと二人とも思ってた。でもね……」
頼子さんは言葉を切った。
ためらうような少しの間のあと、頼子さんは意を決したように口を開いた。
「しばらくして、おなかに赤ちゃんがいることがわかったの。逆算してみると、ちょうど、高木くんパパと別れて、彼と付き合った頃。はっきりとした心あたりがない分、どちらの子か、わからなかった」
はあ、それは大変だ、と人ごとのように思ってから、気が付いた。
頼子さんは私を産んだ人だ。
その人がおなかに宿した赤ちゃん。
それって……?
「もしかして、わ、私のこと?」
頼子さんが頷いた。
だとするとだ。
私と高木先輩は異母兄弟の可能性があるということか。
ぱっと視界が晴れたような気がした。
頼子さんがどうしても、私に高木先輩をあきらめさせたかった理由。
「私と先輩の血がつながってるかも知れないと思ったから、あきらめさせたかったんですね」
頼子さんが申し訳なさそうに、小さな声でうん、と言った。
「でも、でもね。あんたにはあいつの血は流れてない。卑劣なところも、意地悪なところもないし、どっちかというと、人に利用されるというか、すぐ騙されるというか、あんたのお父さんとそっくりだもん」
「頼子さん、それ、褒めてないですよ」
「あ、ごめん。あんたのお父さんにも、それ、よく言われた」
頼子さんが微笑んだ。
「あたし、あんたがおなかにいるとわかったとき、絶対に産みたいと思ったの。あんたを必ず守るって、そう思った。彼にはどちらの子かわからないって正直に話したわ。でも、そういったら、あの人、結婚しようって言ったの。二人で育てればいいって。すごく嬉しかった。でもさ、世の中、そんなにうまくいくわけないのよね。彼の実家が猛反対で。どうしても結婚させないって言われちゃった」
頼子さんの口調は軽かったけど、私はちょっと切なくなった。
ぎゅっとこぶしを握り締める頼子さんは、たぶん、今でもそのことをとても悲しんでいると、そう思った。
「猛反対されても、あんたをあきらめるわけにはいかないもんね。あたしたちは、二人であんたを育てることを決めた。とはいえ、あたしは出産で会社を辞めるし、彼は学生でバイト代しか収入がない。あたしの実家に頼ろうにも、離婚した母親は、借金抱えて蒸発しちゃってたから、無理だしさ。貯金を切り崩す生活なわけよね。やっぱりしんどかった。そんなとき、彼の母親が倒れたの。危篤だって連絡が入った。夜だったわ。台風が近づいて、ひどい雨降りの」
想像する。小さな私を抱えた頼子さん。台風が近づく荒れた天気の中、頼子さんは迷っただろう。
危篤の知らせを無視するわけにはいかない。彼だけを行かせればどうだろう。彼の実家は、頼子さんのことを、不誠実だと感じないだろうか。反対に、この中を頼子さんも駆けつけたら、結婚を許してもらえる足がかりになるんじゃないか。
「その通りよ。あたしは迷った。そして、彼と一緒に行くことを選んだ。悪天候のせいで、電車は動いていないから、レンタカーを借りた。それで、いちかばちか、あんたのお母さんたちが住んでいた、あの家に行ってみたの」
私は唇をかみ締めた。
すべてがつながっていく。
どうして、私が頼子さんの手から、お母さんの手にゆだねられたのか。
「あたしにとっては幸運だった。あんたのお母さんは、まだあの家に暮らしてた。結婚して、同居してたのね。そして、こどもはいなかった。ずいぶん久しぶりに会ったっていうのに、あたしはあんたを預かってくれって頼み込んだ。まだ二ヶ月の赤ちゃんを連れて行くのは心配で、でも頼れる人はほかにいなかったの。向こうのお母さん――あんたにとってはおばあさんね、その人が、怒鳴り散らしてあたしたちを追い返そうとしたわ。でも、あんたのお母さんは承諾してくれた。絶対に戻ってくることを条件に」
怒り狂う祖母が目に浮かぶ。私を見る祖母の目は、いつも何かしら、怒りに満ちていたから。
「戻るって、約束したわ。あたしの赤ちゃんを、誰にも渡すものかと思ってた。なのに、あっけないもんよね。どしゃぶりの雨で、車がスピンしたのかもしれない。気がついたら、事故ってた。あたし、最後にあんたにとても会いたかったの。どうしても、そのまま死にたくなかった。だって、あんたはあたしがちゃんと育てると、自分みたいな苦労をさせないように、いろいろ教えてあげようと、本当に、本当に思ってたんだもん」
頼子さんの声が震えた。
ああ、だからなのか、と私は思った。
頼子さんが私を認識したとき、私は恋について悩んでいた。
傷ついている我が子を見て、頼子さんは心を痛めたはずだ。
と、同時に、限られた時間では、すべてを教えることはできないが、恋についてなら、教えることができると、頼子さんはそう思ったに違いない。
思えば、頼子さんはファッション誌について詳しかったし、はやりの映画やドラマも見ていたようだ。
きっと、現代の女子や恋愛事情について、勉強していたんだろう。
ふらふらと消えていたのは、そういうわけだったんだ。
「そうしたら、文机に憑いてた。あの机にあんたを寝かせて、あたしはよく、子守唄を歌ってたの。手元で内職しているときに、あの高さがちょうど良かったから。まだ笑ってくれはしなかったけど、目であたしを追いかけてくれる。ものすごく可愛かったわ」
頼子さんはベンチから立ち上がった。
ふと、その体が幾重にもぶれたように見えた。
思わず立ち上がる。
近づいて目を凝らすと、頼子さんの足首から下が、透けて見えた。
「頼子さん、透けてる。体が透けてきてるよ!」
焦る私に、頼子さんは落ち着いた声で言う。
「うん。もう力が残ってないみたい。消滅の期限がきたのかな」
「消滅するって……。それって幽霊にとっては嫌なことなんでしょ? 成仏したいんでしょ?」
頼子さんは首を横に振った。
「確かに怖いわ。ものすごくね。でも、いいの。あんたと一緒に過ごせた。いっぱい話せた。あんたのお母さんが、あんたを養子にしてくれて、百合ちゃんがその後を引き継いで、大切に育ててくれたことも知ることができた。もう充分よ。本当は、真実を知らせないまま、あんたが高木くんをあきらめたのを見届けて、バイバイするつもりだったんだけどね。計画狂っちゃった」
頼子さんの膝から下はもう見えず、ワンピースの裾も消え始めている。
「まだ消えないでください! 私、頼子さんに髪留めを買ったんです。お礼に受け取ってほしくて。それもまだ渡してないのに……」
照れくさくて、渡せなかった。
なんて馬鹿なんだろう。いつでも渡す機会があると思っていたのだ。
頼子さんがうふふと笑う。
「知ってるわよ。かわいいことしてくれるなって思ってた。あたしには実態のあるものを受け取ることはできないから、気持ちだけ、もらっとくね。だから、あれは、あたしの形見として持っておいて」
「それじゃ、お礼にならないじゃないですか」
消えないで欲しい。まだ話したいことが山ほどある。
感謝の気持ちも伝えきれていない。
鼻の奥がつんとする。
「じゃあ……、じゃあ成仏の条件を教えてください。今からでも、クリアしたいんです。いろいろ聞いたけど、私、頼子さんのこと、嫌いになってないです。それじゃ無理なの?」
「嬉しいことを言ってくれるのね。条件ってさ、和美ちゃんも言ってたけど、自分ではよくわからないんだよね。でも、もういいよ。あんたと過ごせてすごく楽しかった」
頼子さんがふわりと浮かぶ。
行ってしまう。頼子さんが消えてしまう。
言いたいことがたくさん、たくさんあるのに、気持ちだけが空回りして、言葉が一向に出てこない。
「あんたにとって、あたしは過去なの。過去に引きずられちゃ駄目よ。あんたはこれから、愛され女子の絶対法則で、幸せをつかまなくちゃ。自分磨きも勉強も、男をつかむことも、全部、手を抜かないで、全力で生きるの。そうすれば、自分に自信が持てるでしょ? 結局は自分を愛せるかどうか、幸せをつかむのにはそれが一番大切なんだからね」
どうしよう。どうすれば、頼子さんが成仏できるの?
「頼子さん、まだ行かないで! まだ話したいことがあるのに」
頼子さんが手を振る。消滅する姿を見せないよう、私の前からいつものように姿を消す気だ。
どうすれば引き止められる?
「待って、お母さん!」
咄嗟に叫んだ私の声に、頼子さんははっとしたように動きを止めた。
ほんの一瞬の間をおいて、頼子さんの体が淡く輝き始める。
この光は見たことがある。和美さんと同じだ。
頼子さんが両手で口を覆う。
「もしかして、これだったの? お母さんって呼ばれることが、頼子さんの成仏の条件?」
「そういえば、あたし、あんたがお母さんって呼んでくれる日を、心待ちにしてた。まだ赤ちゃんのあんたに、いつお母さんって言ってくれるのって毎日言ってた……」
輝きが徐々に強くなるごとに、頼子さんの顔のあたりにかかっていたもやが消えていく。初めて頼子さんの顔が見えた。
鏡をみているみたいに、私にそっくりな泣き顔がそこにあった。もちろん、頼子さんは眼鏡なんてかけてないけど。
その顔を見た瞬間、言うべき言葉が見つかった。
「お母さん、ありがとう。私、お母さんのこと大好きだよ」
頼子さんが笑った。
輝きがひときわ強くなったのと同時に、頼子さんの姿が消えた。
その瞬間、かすかにありがとうと聞こえたのは、たぶん空耳じゃないと思う。
私はその場にペタンと座り込んだ。
月明かりに照らされた琵琶湖は、先ほどと何も変わらず、きらきらと静かに光っているのに、頼子さんはもういない。
熱い涙が後から後からあふれ出すのを止められない。
眼鏡をはずすのも忘れて、私はこどものように手放しで泣いた。
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