第8話



 二度寝をしたということは、練習をしなかったというわけで。

 一回生が発表するという曲の音程が最後までうまく取れずに、午前の練習は終了した。

 リーダーの花田さんの視線が、心なしか痛い気がするけど、自業自得なので、反省するしかない。

 昼食を終えると、ドキドキしながら部屋へと戻った。

 二日目の今日は、午後に三時間の自由時間があるのだ。

 そして、毎年、その時間は、ほとんどのメンバーが琵琶湖で泳いで過ごすという。

 今年も例年同様だ。

 高木先輩も泳ぐと聞いた私は、一も二もなく参加を決めた。

「晴れてよかったね!」

「天気予報は雨だったよね。心配して損した」

 実夏と塔子がさっさと服を脱ぎ捨てる。

「ねえ、見て! どう?」

 水着姿の実夏がくるりと一回りする。

 ピンク色のビキニは、上下ともにフリルでひらひらと飾られており、とってもキュートだ。でも、なんだか露出が多い気がする。

「めっちゃかわいいけど、ちょっと刺激がきついかも」

「え? そう? 峰川先輩が選んでくれたんだけど」

「あはは。峰川先輩らしいね」

 笑った塔子は、前は一見ワンピース、後ろは肌みせのタンキニを、抜群のプロポーションで着こなしている。

 うーん、二人ともレベルが高い。

 私は部屋の隅で、身を隠すようにして着替えた。

 スタイルにも自信がないが、それに加えて、水着が問題だ。

 合宿費用を捻出するのに精一杯で、高校生のときに買ったワンピース型水着を、泣く泣く持ってくるしかなかった。 

 目立たないことと、安いことを重視して選んだ水着だから、色合いは地味だし、デザインは野暮ったい。

「のりちゃん、ワンピース?」

 大慌てで、だぼっとしたTシャツを着て水着を隠す。

「うん」

「ワンピ型も、今年は流行らしいね」

「そうみたいだね」

「でも、そのTシャツはちょっと……」

 塔子が微妙な視線を送ってくる。

 わかってます。ダサい格好をしているということは。

「えへへ。ラッシュガード忘れちゃった。日焼け止めは、あんまり塗りたくないんだ」

 笑ってごまかす。

 この水着で高木先輩に会うのは恥ずかしい。でも、高木先輩の水着姿は見たい。

 そう。

 サークル全員が心待ちにしていたと言っても過言ではない、この合宿恒例行事を、素直に喜べなかったのは、そのせいだ。

 悩んだ。

 おおいに悩んだ。

 だって、男の水着って、下半身分だけで構成されているでしょ?

 ってことは、上半身、裸なんだよー。

 そんなの、マジマジと見られる機会はなかなかないわけで。

 だけど、服を着て、泳いでいるみんなの近くにいくのも不自然だし。

 ……あれ? 意外とエロいかしら、私。

 いやいや、年頃の女の子って、みんなこうだよね?

 で、結局、誘惑に負けて、今に至るのだ。

「のりちゃん、早く行くよー」

 いつの間にか、日焼け止めを塗り終えた実夏と塔子が、部屋の出口でまっている。

 私は急いで、バスタオルをつかんだ。



 琵琶湖の水泳場は、白いビーチと透明度の高いエメラルドの水が美しかった。

 海とは違う、甘いような香りが漂っている。

「琵琶湖、泳げるの、知らなかったわ」

 塔子がはしゃぎながら言う。

「実夏ちゃーん!」

 パラソルを持った峰川先輩が手を振っている。遠めからでも目がハートマークになっているのがわかる。

 その側に、高木先輩がいた。

 目があったような気がした。

 実夏と塔子と一緒では、私のしょぼさがいかにも目立つだろう。

 もしかして、その目に、落胆の色が浮かんでいるかも知れないと思うと、怖くて下を向きながら歩いた。

「実夏ちゃん、遅かったじゃん」

「一回生は練習が押したんです。それに先輩達、ごはん食べるの、早すぎですよー」

「だって、こんな楽しいことが待ってんだよ。じっとしてなんて、いられない」

 峰川先輩は、持っていたパラソルを開き、棒の先端を砂浜へとねじ込んだ。

「高木、これ、差しといてあげて。実夏ちゃんには、あっちにパラソルを用意してるんだ。さ、行こう」

 そう言うなり、二人でさっさと行ってしまった。

「私、ちょっと探りたいターゲットがいるのよね。のりちゃん、悪いけど荷物、置いといてくれる? よろしくね」

 タオルが入った袋をぽんと渡して、塔子が駆け出していく。

 後には私と高木先輩だけが残された。

 ええー!

 いきなり二人きりになっちゃった!

 水着を着ている先輩と向かい合うだけでパニック寸前なのに、二人きりなんて荷が重すぎる。

 挙動不審になりそうな自分を、どうにかこうにか抑え込んだ。

 平静を保つのが精いっぱいで、話す余裕はない。

「みんな、勝手だよね」

 冗談っぽく言って、高木先輩はパラソルの棒を持つと、ぐいっと地中に差し込んだ。

 見てはいけないと思うのに、思わず視線が釘付けになってしまった。

 普段は線が細い印象だが、腕には筋肉が盛り上がり、意外に厚い胸板がはっきりとわかる。無駄な肉はどこにもない。

 鎖骨のあたりを、汗がきらりと滑り落ちた。

 ああ。

 服を着ている先輩もかっこいいいけど、水着姿も、ため息が出るほど素敵だ。

「高木くーん、こっち来なよー」

 三回生の女子たちの声がした。

 そちらに手を振り、くるりと振り向いた先輩は、私に向かって微笑んだ。

「のりちゃん、凝視しすぎ」

 …………。

 うわー!

 ばれてた!!

 呆れられたかな?

 むっつりだと思われたかな?

 とっさにうまい言い分けを思いつかないまま、恥ずかしさに内心で、身もだえする。

 くすっと笑った高木先輩は、首を傾げて私を見た。

「ところで、なんでTシャツなんか着てるの?」

「あ、あの、日焼けするのが嫌で……」

 目を合わせることができずに、あさっての方向を見ながら言う。

「そっか。それは残念。それじゃ、呼ばれたし、行ってくるね」

 ざ、残念?

 信じられない思いで、三回生に合流するために、走り出した先輩を見送る。

 残念だって、先輩は言った。

 それって、私の水着姿が見たかったってこと?

 嬉しいような、恥ずかしいような気持ちが、こみあげてくる。

 と、同時に、先ほどの失態を思い出し、私はへなへなとしゃがみこんだ。

「男の裸に免疫ないのね」

 うなだれた私にかけられた声は、幽霊のものだった。

「年齢と彼氏がいない暦が同じ女子には、そうそう免疫がつかないんです」

 反発する力がなく、私は弱々しく答えた。

「高木くん、うすっぺらい体かと思ってたけど、結構、マッチョなのね。見直したわ」

「……ちょっと、何を値踏みしてるんですか」

「だって、見放題よ。若い男の身体を間近で見れるのよ! わけあって幽霊になっちゃったんだから、これくらいの特権はあったっていいと思う」

 鼻息荒く言う幽霊に、面倒くさくなって、はいはいと答える。

「鉄吉くんのも見たいなー。見に行ったら、消されちゃうかなー。腹筋、割れてんだってさ」

 腹筋が割れてる?

 それは確かに見てみたいような……。

「って、なんでそんなこと知ってんるんですか!」

「女子が話してた」

「幽霊さん、楽しそうですね」

 呆れて言うと、幽霊は大きく頷いた。

「あんたも楽しいんでしょ?」

「まあ、そうなんですけど……」

 言いながら、私は口ごもった。

 目の前の浜では、高木先輩たちがビーチバレーをしている。

 高木先輩は、どの回生の女子たちからも人気が高く、私が割ってはいるすきまなんて、どこにもない。

 加えて、私は、今、自分の着ている水着に自信がない。

 そうすると、高木先輩に近づくことも、なんだか怖いのだ。

「あんたの気持ちもわからんでもないわ。気になる相手にはいつでも一番いいとこを見せたいもんね。あたしもそうだった」

 しみじみと幽霊がそう言う。

「幽霊さんは、どんな恋をしたんですか?」

 幽霊は、湖のほうへ顔を向けた。

「一度目の恋は、あんたと同じような恋だった。あたしが好きになったのは、見た目がよくて、調子のいい伊達男よ。だいぶ、苦労させられたわ」

「一度目ってことは、二度目もあるんですよね?」

「うん。二度目の男は、本当にいい男よ。あたし、添い遂げる気、まんまんだった。でもね、うまくは行かないものよね。あたしとその人、事故で死んじゃったみたい。死んだときの記憶はないんだけど、二人で出かけたところまでは覚えてる。酷い雨の日だった」

 幽霊の口調がいつもよりしんみりしている。

 泣いちゃうんじゃないか、と心配になったとき、幽霊が明るく笑った。

「もう過去のことよ。気にしてない。それよりあんたのことが気になる」

「私?」

「そうよ。あんたは高木くんが本当に好きなの?」

「もちろんですよ」 

「じゃ、いつも一緒にいたいと、心から思ってるのね?」

 当たり前です、と答えるつもりだった。

 だが、口を開いたまま、私は何も言えなかった。

 高木先輩が気になるのは確かだ。

 見ていて嬉しいし、かっこいいなとも思う。

 でも、いつも一緒にいたいか、と問われると、迷ってしまった。

 先輩を怒らせないように、期待はずれだと思われないように、私はいつも気にしてしまう。

 いまだって、そうだ。

「好きなのに、ずっと一緒にいたいとは思えないなんて、矛盾していますか?」

 聞くと、幽霊が小さく息を吐いた。

「好き、にもいろいろあるからね。明日の肝試しで、答えがわかるんじゃない?」

 よくわからないまま、私は頷くしかなかった。


 風呂に入り、夕食を済ませた後、再び練習を終えると、もう寝る時間になっていた。

 ひとつ屋根の下だというのに、高木先輩と話せる機会はほとんどないままだ。

 琵琶湖ではあの後、結局話をする勇気ができないまま終わってしまったし、練習はパートごとに行うことが多く、たまに合唱するときでも、話す機会はない。

 廊下で出会ったり、夕食時に顔を合わせたりするときは、二回生の女子が一緒なので、近づける雰囲気ではなかった。

 と、いうわけで、サークルで出会うときよりも、高木先輩が遠く思える。

 期待していたぶん、がっかりしてしまう。

 ため息を一つして、自動販売機で買ったお茶を手に、非常階段へと出た。

 幸いにも、熱帯夜ではなく、琵琶湖のほうから吹いて来る風が、エアコンの冷気よりも優しく、肌を冷やしてくれた。

「幽霊を待っているのか?」

 突然の声に驚き、持っていたお茶を落としてしまった。

 声の主の足もとに、ころころとペットボトルが転がっていく。

「鉄吉!」

「幽霊は来ない。なぜなら俺がいるからだ。そしてここには結界もある」

 かがんで拾い上げたお茶を、鉄吉が渡してくれる。

「ありがとう。それにしても、なんで、またここにいるのよ?」

「階段の上り下りは、適度な負荷が、身体を鍛えるのにちょうどいい」

 普通なら、妙ないい訳だと思うところだろうけど、鉄吉なら、逆に納得してしまう。

「そう。それじゃ、トレーニング中、お邪魔しました」

 くるりと踵を返し、私はドアノブに手を伸ばした。

「ちょっと待て」

 声と同時に、腕をぐっとつかまれる。

 鉄吉の手のひらを通して、体温のあたたかさが伝わってきて、心臓が飛び跳ねた。

「な、なに?」

「聞きたいことがある」

 そのまま階段を降りた先にある、踊り場へと連れて行かれる。

「あの幽霊は、一体お前とどういうつながりがある?」

 古ぼけた蛍光灯の黄色がかった光に照らされた鉄吉は、とても真剣な表情をしていた。

 何故、そんなことを聞きたいのかはわからないけど、ふざけているわけではなさそうだ。

「つながりって言っても、文机をリサイクル店で買ったら、幽霊が憑いてたの。それだけだよ」

 正直に答える。

「本当に?」

「こんなことで嘘をついても、なんの得にもならないよ」

 あごに手をあてた鉄吉は、少し黙り込むと、今度は意を決したように口を開いた。

「お前の親戚で、亡くなった人は?」

 聞かれた瞬間、どう言おうか迷った。

 私の両親はすでにこの世の人ではない。

 両親の話をすると、どうしても重い雰囲気になってしまう。

 だから、なるべく話さないようにしていたのだけど、嘘をついて、後でばれるのも気まずい。

「両親とも、もういないんだ。かなり前、小学校に入る前のことだよ」

 できるだけ、明るい口調を心がける。

 父親が病死した翌年に、母親にも病気が見つかったと聞いている。

 それから半年後、桜の花が咲く前に、母親も帰らぬ人となった。

 まだ幼かった私は、両親のことをはっきり覚えているわけではない。

 だけど、二人がとても優しくて、その二人のことを大好きだったことは覚えている。

「まあ、まだ小さかったし、それからは叔母夫婦のところで育ててもらったから、そこまで寂しくはなかったし、苦労もしていないんだけどね」

「……そうか」

 鉄吉が目を伏せた。

「あ、でも、幽霊さんがお母さんってことはないからね」

 私は先回りして言った。

「髪型が違うし、体型も幽霊さんのほうが、かなりスリムだもん。顔ははっきり見えないけど、雰囲気でわかる」

 母親の写真は、遺影だけではなく、叔母と一緒にアルバムなどを、何度となく見た。

 写真の中の母親は、常にショートカットをしていた。短い髪型が好みだったのだろう。セミロングの髪型をしている写真すら、見たことがなかった。

 体型はやせても太ってもいないが、幽霊ほど華奢な印象はない。

 それに、母親は叔母とよく雰囲気が似ているのだ。

 幽霊からは、叔母に似た雰囲気は感じない。

「だから、お母さんじゃないって断言できる」

 きっぱり言うと、鉄吉が難しい顔をして、腕を組んだ。

「なら、なんであの幽霊はお前にここまでこだわるんだ?」

「さあね。人助けじゃないの?」

「そのために、力を使い果たして、消えそうになるほどに?」

「え?」

 私は鉄吉を見た。

 鉄吉は眉間にしわを寄せている。

「どういうこと?」

「俺の知っている限り、意識を持った幽霊は、成仏することを目的に動いている。反対に、力を使い果たして消滅してしまうことを極端に嫌がる。本能的に怖いらしい」

「怖がる?」

 鉄吉が頷く。

「悪霊になっていない幽霊は、人間と同じように、感情を持つ。消えるのは嫌だ、成仏したいって思うんだ。だから、恨みにしろ、遣り残したことにしろ、成仏するためにことを起こす。自分がこの世に抱いた未練を消し去ることをしようとする。そう考えると、あの幽霊は変だ」

 鉄吉の眉間のしわが、さらに深くなった。

「幽霊がこの世にとどまっているためには、力が要る。動いたり、人前に姿を現すのにもだ。力を使い果たすと消えてしまう。そのために、幽霊達は、できるだけ目的を達するためだけに力を使う。悪霊は別だけどな。なら、お前に憑いている幽霊は? 縁もゆかりもない人間を、助けることが成仏の条件とも考えづらい。だとすると、消滅するしかないことをわかっていて、お前に協力していることになる。自分を犠牲にして人助けをする幽霊なんて、俺は知らないが、そうとしか思えない」

 鉄吉が一気に話すものだから、理解するのが容易ではなかった。

 要するに、鉄吉の知る幽霊たちから考えると、私に憑いている幽霊はイレギュラーということなのだろう。

 で、今のままだと、私のために力を使い果たして、幽霊が消える。

 それも、本能的に怖いと感じるはずの消滅という最期を迎えて……。

「ちょっ! ちょっと待って! 幽霊さん、消えちゃうの?」

 ようやく事の重大さに気がつく。

 そんなこと、思ってもみなかった。

「どうしよう、鉄吉! 私、幽霊さんが消えるなんていやだよ。もうそんなにヤバイの?」

「たぶんもう、一週間も持たないんじゃないか?」

「どうすれば……?」

「どうしようもない。成仏させてやる方法がわかれば、それが一番だろう。だけど、幽霊がそれを望んでいるのかはわからない。ただ言えるのは、あの幽霊は、本気でお前のことを考えているらしい、ということくらいだ」

 衝撃で言葉が出てこない。

 幽霊はひとことも、そんなことを言っていなかった。

 聞かなかったから?

 だから教えてくれなかったの?

 心の中で幽霊に向かってたずねる。

 でも、幽霊からの返事はなかった。

「もう部屋に戻ろう。今夜は少し冷える」

「幽霊さんに聞いてみる。呼べば、出てきてくれるかも」

「……駄目だ。この建物には強い結界がはられている。近づくだけで、幽霊の力を消耗させるぞ。また下宿先に戻ってから聞けばいい」

 鉄吉にうながされ、私は仕方なく階段を上った。

 扉を開ける前に振り返る。

 夜の濃い闇の中に、幽霊の気配はなかった。


 部屋に戻ると、塔子がにやにやしながら寄ってきた。

「どこ行ってたの?」

「ちょっと、お茶買いにね」

 ペットボトルを見せる。

「それにしちゃ長かったわね。自販機、すぐそこなのにさ」

「塔子ってば、芸能レポーターみたいね」

「あ、それ、褒め言葉? 実は夢なんだよね、あの仕事」

 塔子が嬉しそうに言う。

 そりゃ、さぞ活躍しそうだ。

「そういえば、琵琶湖で高木先輩と二人きりにしてあげたのに、いい雰囲気にはならなかったみたいね」

「なっ! 塔子、あれ、わざとだったの?」

「結果的にそうなっただけよ。下村先輩が鉄吉くんにどう接近するか、興味があって、見に行ったの」

 そういえば、鉄吉とは琵琶湖でほとんど顔を合わせなかった。

 もしかして、下村先輩と一緒だったのだろうか。

 心がざわついた。

「知りたい?」

 塔子が意地悪く笑った。

「べ、別に。私に関係ないもん」 

「なーんだ。つまんないの。でもさ、鉄吉くんってば、一回生の男どもとつるんでばっかりで、ちっとも隙をみせなかったから、まったく収穫なしだったんだよね。下村先輩、せっかくセクシーな水着を着てたのにな」

「そうなんだ」

 なんだかとてもほっとしたことに、我ながらびっくりする。

 幽霊が言っていたとおり、私の中に、鉄吉に対する独占欲があるんだろうか?

 自分の心の中のことなのに、全然わからない。

 今まで幽霊に頼り切ってきたせいなのかな?

 ふと、そう思った。

 彼女が何を思い、どうして私にいろいろしてくれるのか、考えもせず、甘えてきた。

 恩返しなんて、何もしていない。プレゼントするために買った髪留めは、いつでも渡せると思って、カバンに突っ込んだままだ。

 それなのに、彼女はもうすぐ消えてしまうという。

 しかも幽霊たちが、本能的に怖がるという消滅を……。

 嫌だ、と強く思った。

 何とかしなければいけない。

 幽霊が力を使い果たすと消えるというのが変えられないのなら、成仏をする方法を探すのだ。

「私、ちょっと疲れたから、横になるね」

「えー、みんなでゲームしようって、言ってるのに?」

 塔子にごめんと謝り、私は頭まですっぽりと布団にもぐりこんだ。

 幽霊と出会った時のことを思い返してみる。

 最初ははっきり言って、迷惑だった。と、いうか、誰でも幽霊に憑かれるなんてまっぴらごめんだろう。

 でも。

 思い返せば、出会ったあの日、恐怖を感じたのは、ほんの数分だけだった。

 驚くほど素直に、幽霊の存在を受け入れたのは、彼女が私に出会って喜んでいることが伝わったからだ。

 あのとき、幽霊は私に会えたことが、神様の温情だと言った。

 温情?

 一瞬、ひっかかったその言葉が、今になってよみがえってくる。

 どうして、私に会うのが、神様の温情なんだ?

 それは、私でなければならない何かがあったからはずだよね。

 もてない女子に、恋愛についてを指南したかったから?

 そういう人助けをしたかったから?

 私は布団の中で首を横に振る。

 そんな条件の子は、他にもいるだろうし、そんなに大げさに喜ぶほどのことだとは思えない。

 幽霊と見つめ合っていた時間の長さ。

 そして、あの台詞。

 幽霊は私をきちんと認識して、会えて良かったと思ってくれたはずなのだ。

 そこから導けるのは、幽霊が最初から私を知っていたということ。

 顔が見えないのは、もしかして、幽霊が無意識に見せることを拒んだからなのかも知れない。

 いままでうっすらと思っていた、でも考えるのをあえて避けていたことが、どんどん形になっていく。

 幽霊が、もしも私の知っている人なら、きっと別れるのがいっそう辛くなる。

 本能的にそう思っていたから、今まで考えるのを避けてきた。

 でも、正体を知らなくても、別れるのがこんなに辛い。

 湧いてきた涙を、ぐいぐいとぬぐう。

 泣いている時間はない。

 幽霊が誰かを特定することができれば、成仏の条件がわかるかも知れない。

 私と面識があり、亡くなった女性は二人。

 母方の祖母と母だ。父方の祖母は、私が生まれる前に他界している。

 祖母の線は薄い。祖母は、私が中学生のときに亡くなったのだが、母や叔母に似ていない私のことが気に入らなかったようで、ほとんど会うことがなかった。

 母はというと、鉄吉にも言ったように、体つきも、髪型も、覚えている声も違う。若い頃の姿だとしても、違和感がある。

 …………。

 いかん。めっちゃ出だしで行き詰ったやんっ!

 他に誰かいたっけ?

 私の親戚で亡くなった人……。

 頭を抱え、身体を丸めて、ぶつぶつ呟く。

 亡くなった人。法事。墓……。

 墓?

 ふいに、鮮やかな彼岸花の姿とともに、母と叔母と墓参りに行ったことを思い出した。

 帰りにお気に入りのキーホルダーを落としてしまい、咲き誇る彼岸花の間を探して回った。

 父や祖母たちが眠る墓の周りには、彼岸花は咲いていない。

 あれは誰の墓だ?

 私は勢い良く跳ね起きた。

「うわっ! びっくりした」

 塔子がのけぞる。

 かまわずバッグをつかむと携帯を出した。

 画面に表示された時刻は、十二時過ぎだ。

 携帯の電源をきって就寝する習慣の叔母には、電話してもつながらない時間だ。

 せっかく、糸口をつかんだと思ったのに。

 脱力して、ぱたりと横になる。

「だ、大丈夫? のりちゃん」

 塔子がおずおずと声をかけてくれる。

「うん。ちょっと寝ぼけた」

 そう返して、再び布団を頭まで被った。

 今夜はどうにも眠れそうになかった。


 

 

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