第7話

 一日目の夜は、九時までみっちりと練習が続いた。

 サークルと言っても、体育会の部活に近いノリなのだ。

 鉄吉にCDを貸してもらい、予習はしていたものの、楽譜を読むことができない私は、音程をとるのにも一苦労だった。

「ああ、へとへとだよ」

 敷き終わった布団のうえに、ぼすんと寝転ぶ。

「のりちゃん、頑張ってたもんねー」

「私は実夏たちみたいに経験者じゃないからね。足をひっぱらないようにしなくっちゃ」

「ふふっ。のりちゃんのそういう努力家なとこ、素敵だと思うよー」

「そ、そうかな。へへっ」

 二人でまったりしていると、勢いよくドアが開かれた。

「あ、塔子とうこ、布団しいといたよ」

 同部屋の岸田塔子きしだとうこだった。

「サンキュ。ちょっと、大ニュースよ!」

 ショートカットの髪は濡れていて、しずくが滴り落ちている。風呂上りりで、よっぽど急いで来たようだ。

「じゃーん、速報です。二回生の下村(しもむら)先輩さ、鉄吉くん狙いらしいよ」

「ええー?」

 私と実夏の声がそろった。

「この合宿、先輩たちもいろいろ動いてるらしくってさ。下村先輩も、告るんじゃないかって。こりゃ、実夏と峰川先輩以外にも、カップルが誕生しちゃうかも、だよ?」

「全く、みんな何をしに合宿に来てるのやら」

 塔子の後ろから部屋に入ってきた花田さんが、腹をたてているような顔つきで言う。

「花ちゃん、もてるくせに、恋バナ嫌いだよねー」

「嫌いというわけじゃない。恋することに、興味がないだけよ」

「美人なのに、もったいなーい」

 実夏と花田さんのおしゃべりが、頭の上を通り過ぎる。

 鉄吉に恋の話?

 私の頭の中で、そのことだけがぐるぐると回っていた。

 自分に関係ないはずなのに、妙に気になる。

 噂の下村静香しもむらしずか先輩は、上品でしっとりした和風美人タイプだ。

 鉄吉の趣味は知らないけど、男の子から見たら、かなり魅力的な人だと思う。

 そんな人に好きだと言われたら?

 …………。

 あれ?

 私、なんでそんなことにこだわるんだろう。

 鉄吉が誰とどうなろうが、私には関係ないことだ。

「鉄吉くん、けっこう、もてるみたいだからね」

 髪の毛をガシガシとタオルで拭きながら、塔子が意外なことを言った。

「そうなの? 鉄吉、変わってるよ。いっつも筋力トレーニングしてるしー」

 実夏が言う。私も同感だ。

「確かにそうだけどさ。でも。鉄吉くん、よく見ると、イケメンっぽくない? スタイルもいいじゃん。どっかの知らない女子と、親しげに歩いてたって話もあるんだよ」

 どこでそんな話を聞いてくるんだろう。

 塔子の情報網、おそるべし。

「そっかー。だけど、鉄吉はのりちゃんだけしか見てないでしょ?」

「へっ?」

 いきなり話の矛先がこちらを向いて、私はどきりとした。

「そうなのっ?」

 勢い込む塔子の迫力に、後ずさる。

「そんなはずないよ。鉄吉からは何も言われたことないし」

「そりゃ、言えないんじゃない? だって、のりちゃんは、高木先輩ひとすじだもんね。そっか、鉄吉はそうなのか。うん、面白い」

 塔子がうんうんと一人で納得したように頷いた。

「塔子、人の話をあれこれ詮索してると、いつか落とし穴にはまるよ」

 苦々しい顔つきの花田さんに諭され、塔子はぺろっと舌を出す。

「わ、私、お風呂行って来るね」

 居心地の悪さに、お風呂セットをつかんで立ち上がった。

「一緒に行くー」

 実夏も続いて立ち上がる。

「二〇二号室の前、通らないように行っておいでね。なんか不気味な感じだって聞いたよ」

 塔子が手の甲を上に向け、五本の指を下に折って、幽霊のポーズをしてみせた。


 風呂を済ませたあと、部屋に帰る道を、私は一人で歩いていた。

 実夏は峰川先輩と待ち合わせがあるらしい。

 幽霊がいると怖がっていても、なんだかんだとみんな、夜中まで集まって騒ぐようだ。

 渡り廊下にさしかかる。

 この廊下を通ると、私たちが泊まっている本館に行けるのだ。

 吹き抜ける風は琵琶湖から立ち上る水蒸気を含んでいるのか、少ししっとりとしていた。

 風呂上りの火照った体に心地いい。

「鉄吉くん」

 はっとして、私はあたりを見回した。

 ささやくような声だったが、風にのってはっきりと聞こえた。

 渡り廊下から少し離れたその先に、小さな庭があったはずだ。

 声はその方角からした。

 聞いてはいけない。

 そう思って、足を進めようとしたが、好奇心が押さえきれない。

 あの声は、間違いなく、鉄吉の名を呼んでいた。

 塔子が言っていた話は本当のことだったのか。

 気がつくと、スリッパのまま、そっと庭に下りていた。

 足音を立てないように注意して、茂みの陰から覗く。

 ほの暗い電灯の光の下に、鉄吉と、下村先輩がいた。

「鉄吉くん、好きなの。つきあって」

 ストレートな告白だった。仄かな光を受けた先輩の横顔が美しくて、私は息を止める。

 鉄吉が先輩を見た。

 風も無く、虫の声もせず、あたりはとても静かだ。

 何秒間のことだったのだろうが、私にはとても長く感じた。

「すみません」

 鉄吉が凛とした声でそう言った。

 下村先輩の、言葉にならない吐息が空気を揺らした。

 良かった。

 何でそう思ったのかわからない。

 でも私は、そのとき、はっきりとそう思ったことを自覚した。

「どうして? 私のこと、嫌い?」

「いえ。でも他に好きな子がいます」

 鉄吉はきっぱりと言った。

 衝撃だった。

 鉄吉は好きな人がいると言った。

 それは誰なんだろう。

 私?

 いや、それはない。

 だって、鉄吉は、そんなそぶりを見せたことがない。

 先輩みたいに、私のことを可愛いと褒めてくれたこともない。

「どっかの知らない女子と、親しげに歩いてた」

 塔子の言葉が耳によみがえる。

 私たちが知らなくて、鉄吉が知っている女子に、心当たりがあった。

 それは高木先輩の彼女だ。

 バイト先で、親しくなったと鉄吉は話していた。

 もしかして、そのとき、鉄吉は彼女に恋をしてしまったのではないか?

 そう思ったとき、全てがつながった。

 鉄吉が好きなのは、高木先輩の彼女だ。

 きっと、高木先輩には勝てないと思った鉄吉は、彼女の恋を応援することにしたのだろう。

 留学中の彼女が傷つかないように、鉄吉は高木先輩が浮気をしないか見張っているのだ。

 だから、四条で買い物をしたとき、私と親し気に話した高木先輩に、あんな態度を取ったのに違いない。

 そうしておいて、鉄吉は邪魔者の私に、高木先輩に近づかないよう言ったんだ。

 私のためじゃなかった。

 それなのに、私は自分に都合がいいように考えていた。

 鉄吉が特別な感情を私に抱いていると、無意識にでも期待していたんだ。

 高木先輩しか目に入っていなかったくせに。

 恥ずかしさと同時に、むなしさが胸に広がっていく。

 ふいに目頭が熱くなった。

 こんなことで泣くなんて、私はどうかしている。

 二人に気がつかれないよう、そっと後戻りをする。

 渡り廊下にたどりつき、上がろうとしてスリッパの泥汚れが目に入った。

 薄汚れたスリッパが情けない今の自分みたいに思えて、私は持っていたタオルで力いっぱい泥をぬぐった。


 部屋に戻る気分になれず、靴に履き替えて、玄関をそっと出る。

 さきほどまで空を覆っていた雲が晴れたせいか、すっきりとした月明かりがあたりを青白く照らしだしていた。

 玄関のすぐわきにあるベンチに腰を下ろして、私は頭を抱えた。

 私、どうしちゃったんだろ?

 幽霊と出会ってから、外見上はだいぶ変わったはずだ。

 だけど、内面は、初恋真っ最中の恋愛超初心者なわけで。

 先輩が好きなのに、なんとも思っていないはずの鉄吉のことまで気にしている。

 そんな自分の気持ちがわからない。

 この気持ちは、なんていうんだろう。幽霊なら、教えてくれるだろうか。

 無性に幽霊の声が聞きたくなった。

「うーん、それは強いて言うなら独占欲よね」

「独占欲? 鉄吉に?」

「うん。つまり、のりちゃんは、鉄吉くんのことを、にくからず思っているわけだ」

「そんなことあるわけ……って、幽霊さん!」

 私は思わず立ち上がっていた。

「来てくれたんですね!」

 幽霊はふわりと浮かびながら……寝そべっていた。

「ちょっ、なんで空中で寝てるわけ?」

 感動の再会もどこへやら、幽霊はさも眠そうに、あくびをした。

「のりちゃん、来るなって言ってたわりには嬉しそうじゃない」

「幽霊さんに言いたい事がいろいろあるんですよ。っていうか、どうして、こんなに遅かったんですか? 幽霊さん、なんだかんだ言いつつ、すぐ出てくるんじゃないかって思ってたのに」

「ああ、それ、それ。聞いてよ、もう」

 幽霊はそのへんのおばちゃんみたいに、右手をパタパタと振った。

「あんたが行っちゃってから、すぐ追いかけようと思ったのね。でも、再放送の連ドラの時間……」

「連ドラ?」

 ぬっ、やっぱり遊んでたのか?

 幽霊は慌てたみたいに、ぴょこんと座りなおした。

「あ、いや、ちょっと用事があってさ。まあ、後からついていけばいいわ、って思ったの。そしたら、どうよ。遠すぎて、ついていけないわけ」

「どうしてですか? いつもはすぐ出てくるじゃないですか。四条に買出しに行ったときだって、幽霊さん、いきなり出てきたし」

「でしょ? だから私も、あんたのところに飛んでいけって念じれば、すぐ出て行けると思ってました。でも、有効範囲があるみたいなのよね。つまり限界を越えて離れちゃえば、憑いてる人間のところに、ぽんと出ることができない」

「じゃ、どうやって来たんですか?」

「そこは努力と根性よ。少しずつ、あんたの後を追う事ができたから、京都から、滋賀県まで、ちょっとずつ来たのよ。幽霊は疲れを感じないと思ってたけど、さすがに応えたわ」

「幽霊って意外と不便ですね」

 死んだら空間的な制限はなくなると思っていたが、そうではなかったようだ。

 幽霊がそんな苦労をしてまで来てくれたと思うと、ちょっと嬉しくなってしまう。

「これでも遠慮してるのよ。サークルの合宿についていくなんて、子離れできてない保護者みたいだしさ。呼ばれない限りは出てこないつもりだったんだけど、あんたったら、早速、あたしのこと、呼んだでしょ?」

「うん。まあ、二度ほど……」

 幽霊がぷっと吹き出す。

「まあ、あんたの場合、初心者マークで高速道路走ってるみたいなことになってるから、しょうがないとこもあるけどさ。そろそろ免許皆伝になってほしいな」

「迷惑ですか?」

「そういうことじゃないわ。けど、あたしも幽霊なわけだしさ、いつまでも一緒にいられるわけないから」

「え? そうなんですか?」

「そうだよ」

 幽霊はなんでもないことのように言ったが、私は動揺した。

 私は幽霊のことを、大事な友人だと思っているのに、なんだか別れが近いような、不吉なことを言うじゃないか。

 思考が読めたはずなのに、幽霊はそれには触れず、私に何があったかとたずねた。

 高木先輩のこと、鉄吉の好きな子の話を、ずらずらと思いつくまま述べた。

「ほうほう。まず高木くんね。これは鉄吉くんの見立てが正しいんじゃないかな。たぶん、高木君はあんたを都合のいい女として、二股かける気ね」

「ふ、二股?」

「この合宿で、なんかしかけてくるかもよ? 彼女が帰ってくるまでに、羽を伸ばしたいのなら、ぐずぐずしてる暇はないもんね」

「そんな……。そんなことになったら、どうすればいいのか……」

「あんたがいいんなら、応じればいいんじゃない? 恋のいろはを教えてくれるかもよ」

 恋のいろはとは、また古い。

「でも、高木先輩のことはあきらめろって……」

「のりちゃんは、どっぷり初恋に浸かってるでしょ? あたしの忠告も、鉄吉くんの心配も、のりちゃんには届かない。現実を見ろたって、まだまだ難しいみたいね。と、くれば、手っ取り早く、無理やり現実を見るのも一つの手よ。幻滅すればあきらめられるだろうし。いろいろ試して、それでも高木先輩がいいなら、外国から帰って来た彼女と戦いなさい」

「でも、幽霊さん、この前、ふさわしい相手を見ろとか、気安く応じるなとか言ってましたよね?」

 抗議すると、幽霊はあごの下を、ぽりぽりと掻いた。

「うん。愛され女子の法則からすると、高木先輩の申し出に乗るのは、やっちゃいけないことね。だけど、あんたは、男というものを知らなさ過ぎる。大怪我をする前に、高木くんで練習するのも悪くない」

 練習相手とは、めちゃくちゃ失礼な発言だ。

「ところで、鉄吉くんの想い人が、高木くんの彼女ってのは本当なの?」

「きっとそうですよ。だから、ずっと高木先輩に突っかかってるんです」

 私は先ほど思いついた仮説を、幽霊に語った。

 先輩が付き合うほどの人だ。きっと美人で人格的にも申し分ないのだろう。

 そんな女性と偶然、バイトで出会った鉄吉は、高木先輩の彼女とも知らず、ひと目ぼれした。そして、事実を知った後、黙って彼女のために、先輩が道を踏み外さないよう見張ってるに違いない。

「そうかなあ?」

 幽霊はなおも首をかしげる。

「まあ、それはおいといて。のりちゃんの推理が正しくても、そうでなくても、あんたの気持ちの中には、鉄吉くんへの独占欲が芽生えてる。これは間違いないわ。それがやきもちにまで育っていくのだとしたら、のりちゃんの中に鉄吉くんへの気持ちがあるってことになるわね」

「ん? どういうこと?」

「のりちゃんが、鉄吉くんのことを好きだと感じてるってことよ」

 私は、すごい勢いで、首を横にふった。

「ない。ないからっ。そんなことはっ!」

「しーっ。声が大きい」

 あわてて口を押える。

「鉄吉くんへの気持ちがなんなのか、それはそのうちわかるでしょう。まずは高木くんとのことを決着させなきゃ。というわけで、最終日の肝試しは、高木くんといってらっしゃい」

「え? 行ってもいいんですか?」

 一度はあきらめた肝試しに、先輩と行けることは嬉しい。

 でも、鉄吉が肝試しに反対したのは、幽霊がいるからだ。

「鉄吉の言う幽霊が、本当に出てきたらどうしたらいいんですか?」

 幽霊は腕を組んだ。

「そうねえ。その女の幽霊、やっかいよね。実はあたし、こっから一歩も建物の中に入れないのよね。たぶん、この建物は一度、お祓いみたいなことをされてると思うの。あたしは悪霊じゃないのに、その力が作用するなんて失礼よね。でも、これだけ強力な力なら、建物の中にいるっていう幽霊も、身動き取れないんじゃないかしら」

「ということは、部屋の中の幽霊は弱ってるってことですか?」

「ううーん。本人を見てみないことにはなんとも。だけど、鉄吉くんの見立てでは、一般人には害を及ぼさないって言ってたんでしょ? だったら、あんただって、大丈夫よ。部屋の中の幽霊を怒らすようなことをしなければ、ね」

「私が霊媒体質でも?」

「何もしなければ、向こうも仕掛けてこないわ。そんな凶悪な気配もしないし。ま、大丈夫でしょ」

 幽霊の提案は、危険な香いっぱいだ。

 だけど、今のもんもんとした気持ちを断ち切るために、やってみる必要があるかも知れない。

 ええい、うじうじ考えていても仕方がない。

「わかった。やってみます」

 私は思いきって頷いた。


 合宿二日目の朝早く、私はみんなを起こさないよう、そっと部屋を抜け出した。

 昨日のパート練習で納得がいかなかった箇所を、こっそり練習するためだ。

 遅くまで幽霊と話していたから、ちょっぴり眠い。

 風呂場がある別館の二階には、大、小二つの宴会場があり、合宿の間はいつ練習してもいいよう、夜通し開放してある。

 本館と別館をつなぐ渡り廊下を通ると、東の空が朝焼けで真っ赤に染まっていた。今日は雨が降るかも知れない。

 あくびをしながら、別館の一階廊下にさしかかると、男性の歌声が響いてきた。

 まだ四時すぎなのに、こんな時間から熱心なことだ。

 ま、自分も人のことは言えないけど。

 綺麗な高音だった。

 テノールのパートを歌っているらしい。

 声は小さいほうの宴会場から聞こえてくる。

 ドアをそっと開き、覗いてみた。

 譜面台を前に、歌っている鉄吉が見えた。

 鉄吉の声をソロできちんと聴いたのは、初めてだった。

 合わせて合唱するときでも、各パートのみが歌うときでも、鉄吉はいつも、ひっそりと誰かの影に隠れるようにして歌っている。

 初めて聴くその歌声は、素人の私でも、はっとするほど美しい。

 つい身を乗り出した拍子に、扉がきしみながら開いてしまった。

 歌が止んだ。

 鉄吉と目が合う。

「あ、おはよう、鉄吉。朝早くからご苦労様です」

 覗き見をしたバツの悪さに、とってつけたような挨拶をしてしまった。

「何か用か?」

 ぶっきらぼうに聞く鉄吉は、心なしか恥ずかしそうだ。

「歌、うまいんだね。どっかで習ってたの?」

「……近所の声楽の先生んちで」

「え? そうなの?」

 声楽とは意外だった。

 筋肉馬鹿、もとい筋肉マニアの鉄吉なら、芸術的なことよりもスポーツを好んでやっているようなイメージだ。

 しかも実家は神社だとか言っていた。

 神社と声楽は結びつかない気がする。

 実はお父さんが声楽マニアとか?

「俺が声楽を習ってたら変か?」

「わわっ。人が考えていることを読まないでよ。びっくりしたー」

「読んだわけじゃない。みんなそういう反応をするからな」

 そりゃ、そうだろう。鉄吉のキャラに声楽は似合わない。

 と、いう本音はさすがに言えない。

「悪気があるわけじゃないと思うよ。声楽を習うって、スイミングを習う、みたいに一般的じゃないし」

「フォローしなくてもいい。別に傷つかない」

 鉄吉はぽんと楽譜を閉じた。一瞬見えた楽譜には、びっしりと書き込みがある。

「歌、よっぽど好きなんだね。そこまで楽譜に書き込むなんて」 

「これは必要だからやったことだ。俺は好きだというより、歌ってないと、辛かったから、歌を続けてきただけだ」

 鉄吉がぽつりとそう言った。

 意味深な言葉に、ついつい好奇心が沸いてきてしまう。

「それはどういうことなの?」

 鉄吉は迷う表情を見せた。

「言いかけたんだから、教えてよ。気になっちゃうじゃない」

 そう言うと、鉄吉はしぶしぶ言葉を続けた。

「この世には存在しない、いろんなものが見えることが辛かったんだ」

「それは幽霊たちってこと?」

 鉄吉は小さく頷いた。

「見る力をコントロールできなかった幼い頃は、のべつまくなし、いろんなものが見えた。それが現実に存在するのか、そうでないのかもわからず、俺は混乱した。死んだ子と友達になってしまうことも、日常茶飯事だ。小学校に上がる頃には、用事があるとき以外は滅多に外に出なくなった。でも、ある日、近所の叔母さんの歌声が聞こえてくると、その間だけは見えなくなることに気がついた。自分が歌っても同じだ。その間は奴らを見ないで済む」

「そんなことが……」

 まだ小さかった鉄吉にとって、意図せずに幽霊が見える日常はどのくらい恐ろしいものだったのだろう。

 もう大人ともいえる年齢になっても、私は幽霊が怖いと思っているのに。

「力をコントロールできるようになった今でも、歌うとラクになる。その間だけは、何も気にしないで済むから」

 鉄吉は、たんたんとそう言った。 

「でも、鉄吉の歌はいいよ。聞く人に感動を与えられるものだと思う。始めた理由がなんであれ、そこまで上手になったのは、やっぱり鉄吉が、歌うことを好きだと思ってるからじゃない?」

 楽しいと、好きだと思って歌えるのなら、そのほういい。

 辛さから逃げるために、歌を歌うのはあまり幸せではないような気がする。

「そんな深刻な顔しなくてもいい。もう慣れた。それに、身体を鍛えた今は、少々のモノに出くわしても、あっちの世界に引きずられることもない。だから、怖がってもいない」

 鉄吉がふっと笑う。

 ドキリとした。

 鉄吉って、こんなふうに優しく笑うんだ。

 思えば、私は高木先輩以外の男の人の顔を、ちゃんと意識して見たことがなかった。

 ずっと、先輩以外の男の人は、男だと認識していなかったんだ。

 よく考えれば、鉄吉の顔だって、しっかり見たのは初めてだった。

 切れ長な目に、鼻筋が通った顔は、塔子が言ったように全体が整っている印象だ。先輩のように派手さはないが、その分、よく言えば、誠実なかっこよさがあるような気がする。

 ふと、心にちくりと痛みがあった。

 鉄吉は、高木先輩の彼女に、どんな顔をして接しているのだろう。

 高木先輩のことを好きな彼女。

 その彼女を大切に思いながら、こんな優しい笑顔を向けているのだろうか。

 彼女をそっと支えるために、私を先輩に近づけないようにまでして。

 でも、それで人の恋路を邪魔していいってことにはならないはずだ。

 私には私の都合がある。

 なんだか無性に腹が立った。

「鉄吉、明日の肝試しに、高木先輩と行くことに決めたから」

 気がつけば、私は唐突に宣言していた。

「お前……。あきらめるって約束しただろ?」

「そうだけど、でも、あきらめられないよ」

「二○二号室の幽霊にとりつかれたら、どうする気だ?」

「怒らせないようにする。大人しく、肝試しをしてさっさと帰るから」

 鉄吉は、唖然とした表情を浮かべた。

「そんな出たとこ勝負で……」

 鉄吉の言葉を最後まで聞かないまま、私は部屋を飛び出した。

 渡り廊下まで来て気がつく。

 私、練習してないじゃん。

 今更戻るのも気まずいし、大ホールで練習するにしても、声が鉄吉に聞こえてしまって、やっぱり気まずい。

 しばらく迷った末、私は部屋に帰って、二度寝することに決めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る