第5話

 四条通りは人、人、人でごった返していた。

 邪魔にならないように、歩道のガードレールに、できるだけ身を寄せる。

「高木」

 人ごみから、ぬっと峰川先輩が顔を出した。

「三回の先輩らは、花ちゃんと三人で、菓子買ってくるってさ。俺は実夏ちゃんとパーティーグッズ買いに行くわ。お前らは、酒係な。集合は十二時に、大丸で。なんかあったらスマホに連絡ってことで」

 いつの間に、そういう段取りになっていたのか、ちゃっかりと峰川先輩が実夏をエスコートして去っていく。

 残されたのは私と高木先輩と、そしてしかめっ面の鉄吉。

 何だか微妙なトリオだ。

「酒か。重いの任されたな」

 高木先輩がふーっとため息をついた。

「鉄吉の筋肉を期待してのことですかね」

 気まずい雰囲気を打ち消したくて、あははと笑ってみる。

 鉄吉はというと、私の頭上を凝視していた。

 はっとして、上を向くと、幽霊がふわふわと浮いているじゃないか。

 ――幽霊さん! 待っててって言ったじゃないですか!

「待った。三分は待った。ランプ点滅、限界だわ」

 ウルトラなんとかの親戚ですか、あなたは。

「まったく、あんたって子は……」

 ――待って! 今は駄目なの。幽霊さんを睨んでる人、いるでしょ? あの人、幽霊さんが見えてるんです。しかもお祓いとかする人と知り合いなんだって。下手すると、消されちゃいますよ?

「うそっ。あたし、見えてるの?」

 さすがの幽霊も驚いたようだ。あたふたしながら、さっと消えてしまった。

「鉄吉、どうした? 怖い顔して」

 高木先輩が、怪訝そうに聞く。

「俺は見た」

 鉄吉が宙を睨んだまま、ぼそっと呟く。

 やっぱり幽霊が見えてたのね。

 私はぶるりと震えた。やっぱり鉄吉の霊感は本物だ。

 だが、どうしたことか、それを聞いた高木先輩の顔つきが険しくなった。

「見た? 見たっていうのは、のりちゃんと俺が話してたとこか? それで、俺を睨み付けてるってわけか?」

 あっと思った。

 先輩は私の横に立っている。そして、私より背が高い。

 ちょうど、幽霊が浮かんでいる高さくらいに。

 鉄吉が睨んでいるのは、私の頭上の幽霊だったけど、先輩にしてみれば、その視線が自分に向けられたように見えたのだろう。

 まさか幽霊のことを言ってるだなんて、思う人はいない。

 幽霊はもう姿を消しているというのに、鉄吉はまだこちらを見ている。

 早く目を逸らしてくれなくちゃ、本当に誤解されちゃう。

 やきもきしている私をよそに、何を考えているのか、鉄吉は答えずにじっとしていた。

 高木先輩の眉がぴくりと動いた。

「何の権利があって、そんな非難するような目で俺を見るんだ」

「…………」

 鉄吉はなおも答えない。

 道行く人が険悪な私たちの雰囲気に気がついているのか、ちらちらと視線をよこす。

「俺はなにもやましいことはしてないぞ」

 高木先輩の声に怒気が混ざる。

「せ、先輩。鉄吉は何も……」

 黙っていられなくて、声を発したそのとき、鉄吉が高木先輩に向かって一歩進んだ。

「俺なら、彼女がいるのに、他の子に思わせぶりな態度をとったりはしません」

「な、なにを!」

 高木先輩の顔がかっと赤くなった。

「鉄吉!」

 私も顔が熱くなる。

 本当に見られていたんだ、バスの中の出来事を。

 会話も聞かれてたのかも知れない。

 鉄吉がくるりと向きを変える。

 その瞬間、目が合った。

 鉄吉の切れ長の瞳には、冷たくさげすんだような光があった。

 どきりとする。

 こんな鉄吉の目は見たことがない。

「お前、後輩のくせに、生意気な奴だな。知ってるか。サークル内でも浮いてるんだぞ」

 高木先輩が怒りもあらわに言うと、鉄吉は振り返り、申し訳程度に頭を下げた。

「失礼しました。酒、早く買いに行きましょう」

 そのまま、すたすたと歩き出してしまう。

「すみません。高木先輩に嫌な思いをさせてしまって……」

 鉄吉に代わって、先輩に謝る。

 何か言わないと、泣き出してしまいそうだった。

「のりちゃんはちっとも悪くないよ。鉄吉が悪い。あいつ、本当に変わってるな。合唱の技術はあるけど、困ったもんだって、みんな言ってるよ。これ以上、和を乱すようなら、サークルをやめてもらうことも考えなきゃな」

 高木先輩は相当怒っているようだ。

 普段、優しい先輩が、そんなことを言うなんて、信じられなかったけど、鉄吉のとった行動は、確かにひどかったと思う。

「本当にすみません」

「いや、のりちゃんは気にしないで。おっ、もうこんな時間だ。買出し、さっさと終わらせないと、集合時間に間に合わないな。さ、行こう」

 わざとらしく、時計を見た先輩が歩き出す。

 その背中までの距離が、少し遠い。

 彼女がいるんだもの。

 単なる後輩の女子と歩くときに、彼女に誤解されないようにするのは当たり前だ。

 さっき、バスの中で少し期待をしてしまった自分が惨めに思えて、私はそっと手の甲で涙をぬぐった。

「泣いたわね」

「うわっ」

 突然、目の前に幽霊に出てこられて、私はたたらを踏んだ。

 ――幽霊さん、待っててって言ったでしょ。これ言うの、三度目ですからねっ!

「知ってる。でも、あたしが見えるって人は、今、そばにいないでしょ。そんでもって、あたしは出てきたかったもん」

 ――そうやって、幽霊さんが自分勝手に出てくるから、ややこしいことになったんです!

「いやねえ、八つ当たりしないでよ」

 ――八つ当たりなんかじゃないですよ。幽霊さんが出てこなければ、鉄吉だって、険悪な表情を浮かべて黙りこくったりしなかったもの。そしたら、高木先輩が誤解して、鉄吉を問い詰めることもなかっただろうし、鉄吉だって、バスの中での出来事について、先輩に失礼なことを言わなかったはずです!

 幽霊に向かって、心の中で、叫ぶように言う。

 幽霊が静かに首を横に振った。

「百歩譲ったとしてよ、あたしが出てきたことが、今回のあんたたちの言い合いの発端になったとする。でも、あたしが出てこなくたって、鉄吉とかいうあの男子が、高木くんとあんたのことを見てたことには変わりがない。そして、それを不満に思ってたことにもね。つまり、鉄吉くんの不満はいつか爆発していたはず。早いか、遅いかの違いだったってわけ」

 反論されて、言葉にぐっと詰まった。

 そう言われれば、そうかも知れない。

 鉄吉にはごまかすチャンスがあった。

 適当なことを言って、先輩の誤解を解けばよかったんだ。

 それなのに、誤解を利用して、先輩を怒らせた。

 もし幽霊が出てこなかったとしても、あのタイミングで、鉄吉は先輩にバスの中で見たことについて、言っていたかも知れない。

「しっかし、鉄吉くんもきっぱり言ったわね。あたし、こっそり拍手したわ。高木くんには彼女がいるんでしょ。なのに、あんたを口説いてた。これは非難されるべきことよ」

 ――く、口説くって、別に先輩はそんなこと、思って言ってないですよ。

「うーん、あんたってば、何でそんなに鈍感なのよ」

 幽霊は両手をひろげて、やれやれといったポーズをした。

「いいこと? あんたは前と違って、可愛い女の子として、まわりに認知されてきてるの。そうなってきたら、高木くんはあんたが他の男に奪われるのが惜しくなったのよ。だから、ちょっかいを出してる。前にあんたに聞かれた、あの出来事まで利用してね。まったく、ずる賢いったりゃ、ありゃしない」

 ――そうなんですか?

 にわかには信じがたいことだ。

「そうよ。それくらい、あんたが可愛くなったってことは喜ばしいけどね。女の子は、見た目がよくなると、男から恋愛対象として見られるようになる機会が多くなる。悲しいけど、それが現実よ。あんたはもう、立派に恋愛対象として見られるレベルなんだから、喜ぶのと同時に警戒もしなさい」

 そういわれても、私は先輩が好きなのだ。

 どうやって警戒するというのだろう。

 そう思ったら、思考を読んだ幽霊が、呆れたように言った。

「彼女から高木くんを奪う自信があるのなら、彼の誘いに乗ってみればいいけど、奪ったものは、いずれ、誰かに奪われるわよ。自信がなければ、高木くんから迫られても、絶対落ちないことね」


 結局、お酒を買い終わり、みんなと合流するまで、鉄吉と高木先輩の間には、見えない糸が張り詰めたかのような緊張感が漂っていた。

 幽霊はというと、言いたい放題言った後、ふっと姿を消してしまっている。

 いいなあ。

 私も姿を消したいよ。

 どっと疲れながら、集合場所の大丸にたどり着く。

「どうした、お前ら、不機嫌な顔して? 酒、落として、割ったとか?」

 私たちの妙なムードにいち早く気づいた峰川先輩が、声をかけてくる。

「別になんでもない。酒の重さにうんざりしてただけだよ」

 高木先輩が右手に持った袋を、上げて見せた。

「そういうお前は上機嫌だな、峰川」

「恨みがましく言うなよ。これからお待ちかねのランチだぜ。楽しく行こう、楽しく」

 これからランチの予定だが、私はバイトに行かなければならないと伝えてある。もちろん、ランチに割けるお金がないからだ。

 残念に思っていたが、今日ばかりは天の助けだ。

 これ以上、先輩と鉄吉の関係にヒヤヒヤするのは辛すぎる。

「店、どこにすっか、聞いてくるわ」

 嬉しそうに峰川先輩が去っていった。

 残された三人の間には、やっぱりなんともいえない空気が漂って居心地が悪い。

 雰囲気を変えたくて、口を開いた。

「先輩、今日はありがとうございました」

「こちらこそ。妙なところをみせちゃって、ごめん」

 照れたように先輩が笑ってくれて、ほっとした。

 端正な顔がほころぶと、少年のように可愛く見えるから不思議だ。

 いつもの先輩の表情に、心底、安堵する。

 つと、先輩が鉄吉に目をやった。

「鉄吉、悪かったな。大人げなかった」

 おおー。さすが先輩だ。自分から否を認めて、謝るだなんて。

 ちょっと感激してしまう。

「……いえ。こちらこそ」

 鉄吉がぼそりと返す。

 こらこら、それを言うなら、こちらこそすみません、とかじゃないの?

 鉄吉の失礼さに、こっちが冷や汗をかいてしまう。

「のりちゃんはこれからバイトだろ?」

「そうなんです。どうしてもシフト、代わってもらえなくて」

 さすがに食費がキツイとは恥ずかしくていえない。

「そっか。残念だな」

 先輩が残念だと言ってくれる。

 社交辞令でも嬉しい。

「で、鉄吉もバイトなんだって?」

 高木先輩に問われて、鉄吉が頷いた。

 なんだ。

 鉄吉もランチに行かないんだ。

 ふと気がつくと、鉄吉の額には汗が浮き、シャツの首周りにも汗染みができている。

 両手に下げた袋は随分と重そうだ。。

 私はといえば、お酒の小瓶が一本入った袋を、ひとつ持つのみ。

 しまった。重い荷物を鉄吉がたくさん持ってくれてたことにも気がつかないほど、てんぱってしまっていたようだ。

「いったん、大学のほう、戻るんだろ? 悪いけど、ついでにこれ、持って帰ってくれる?」

 高木先輩が、鉄吉に袋を差し出した。

 鉄吉はもう両手にいっぱい荷物を持っているのに、先輩ってば気がつかないのかな?

 断るかと思いきや、鉄吉は表情を変えずに答えた。

「わかりました」

「そうか? 悪いな」

 これ以上、鉄吉が荷物を持つのは酷な気がして、私は咄嗟に手を出していた。

「私が持ちます。ずっとこれしか持ってなかったし、いったん大学のほうに戻るので」

「でも、重いよ?」

「大丈夫です。こう見えても、私、力持ちなんですよ」

 強引に受け取った袋は、見た目よりもずっと重かった。

 重そうに見えないように、ぐっと力を込める。

「それでは、お先に失礼します」

「のりちゃん、またね。合宿、楽しいから期待してて」

 高木先輩に手をふられ、他のみんなにも挨拶をして、私は歩き出した。

 鉄吉も挨拶を済ませて、私の後ろからやってくる。

 バス停から大学までの道のりが同じだから、当然、一緒に帰ることになる。

 夏の京都の蒸し暑さは、半端ではなく、私はすぐに汗だくになった。

 バス停が遠いよー。腕が重いよー。

 とぼとぼと歩いていると、ふいに腕が軽くなった。

「無理するな。俺が持つ」

 追いついてきた鉄吉が、私の持っていた荷物を取り上げたのだ。

「鉄吉こそ、荷物、いっぱい持ってるじゃない」

 慌てて取り替えそうとしたのだが、鉄吉はがっちりと袋をつかんでいる。

「俺は筋肉を鍛える。そして重い荷物は役立つ」

 でも。

 そういう鉄吉の腕はぷるぷるしているし、手のひらのあたりに食い込んだ持ち手も、とても痛そうだ。

「ちょっと休もう」

 提案すると、やっぱり限界だったのだろう。

 鉄吉はすたすたと路地裏に向かい、建物の影で素直に荷物を降ろした。

 なるほど、ここなら通行の邪魔にならない。

 鉄吉が無言で両手をこすり合わせている。

「ちょっと見せて」

 強引に手をとり、手のひらを見てみると、持ち手のあとが、くっきりと赤い線になっていた。

 こんなになるまで、黙って荷物持ちをしていたなんて、申し訳なかったな。

「痛かったでしょ」

「別に」

 どこまでも意地っ張りな奴だ。

 ときおり風がさっと吹き抜け、一瞬暑さをやわらげてくれる。

 京都特有の町家の中を吹き抜けてきたのか、風はどこか懐かしい匂いがした。

「あいつ、やめたほうがいい」

 唐突に、低い声で鉄吉が呟いた。

「あいつって?」

 下を向いていた鉄吉が、顔を上げた。

 見たこともないような、真面目な表情に気おされる。

「高木先輩のことだ」

 鉄吉の口からその名が出てきたことに、どきりとしてしまう。

「やだなあ。やめるも何も、始まってもないよ」

「あいつは始めたがってる。でも真剣じゃない」

 鉄吉が静かに言う。

「な、なんでそんなことがわかるの? 先輩に失礼だよ」

 驚きとともに、怒りが湧いた。

 鉄吉に、先輩の何がわかるというのだろう。

「見てればわかる」

「でも、それは鉄吉が思ってるだけかも知れないでしょ」

「なら、こういえばいいか? 俺はお前の涙をみたくない。あいつには近づくな」

 かっと顔が熱くなった。

 どういうつもりでそんなことを言うのだろう。

 保護者か何かのつもりなんだろうか。

 何と言えばいいかわからず、私はただ口をぱくぱくさせた。

「合宿で、あいつはお前に何か言ってくるかも知れない。二人きりになるのは避けたほうがいい」

 そんなこと、あるはずない。

 鉄吉は何か勘違いをしているか、もしくは何か理由があって、先輩のことを悪く思いたがっているんだ。

「大きなお世話よ。そんなの、鉄吉の思い過ごしだわ。先輩にはちゃんと彼女がいるの。私のことなんか、なんとも思ってない」

 強い口調で言うと、鉄吉はそうかな、と呟いたきり、黙ってしまった。

 まったく、幽霊も鉄吉も、どうしてそんなに高木先輩について、心配するんだろう。

 確かに高校時代から、私は先輩が好きだったし、今だって、ときめいている自覚がある。

 だけど、先輩は、私のことに気づいていても、優しい言葉をかけてくれることはなかった。

 それが、ようやく、その他大勢の一人として気に止めてくれるようになっただけなのに、一足飛びに考えすぎだ。

 ぷんぷんしながら、足元の袋を二つ持つ。

「さ、バス停に行こ。バイトに遅れちゃ、まずいでしょ」

 そう言うと、鉄吉は逆らわずに、黙って残りの袋を持って歩き出した。


 家に帰りついたとたん、一気に疲れが出て、鍵を開けることもできず、私は玄関のドアにもたれかかった。

 ハードな買い出しの後に、真面目にバイトを頑張った後は、さすがにもうヘトヘトだ。

 しばらくそのまま目をつぶっていると、室内から鼻歌らしきものが聞こえてきた。

 どこかで聞いたことがあるメロディだと思ったら、これは最近、話題になっている映画の主題歌じゃないか。

 うちにはテレビはないし、パソコンもない。あるのは中古で買ったCDラジカセだけで、これはラジオが壊れている。

 がちゃりと鍵を開けると、鼻歌が止んだ。

「お帰り」

 上機嫌で出てきた幽霊に、私は開口一番、言った。

「映画、見てきたんですか?」

「うっ」

 幽霊がぎくりとしたように見えた。

「私が大変なときに、映画、見てたんですね」

「だって、あんたが出てくるなって言ったじゃない。ただ待ってるのは暇だったんだもん」

 幽霊が言い訳がましく言う。

「そういえば、最近、いないことが多いけど、さては、何やら楽しんでるるってわけですか」

「た、楽しいことばかりしてるわけじゃないのよ。あたしはなにぶん、幽霊として新人だからね。情報収集をしてるの。あとさ、死んじゃった頃の日本しか知らないと、あんたと感覚ずれちゃうじゃん? 携帯、あ、今の主流はスマホだっけ。そういうのとか、勉強して知ったんだよ。努力してんの」

「ふーん。努力ねえ」

「どうしたのよ。なんかいつもよりつっかかってくるわね」

「幽霊さんが消えた後も、なんだかんだと大変だったんです」

 私は鉄吉に言われたことを話した。

 幽霊は腕を組んで、ふむふむと聞いている。

「ね、鉄吉ってば、何か妄想してるんですよ」

「なーるほど」

 幽霊が大きく頷いた。

「鉄吉くん、良くわかってんじゃん」

「って、幽霊さん、私に同意じゃなくて、そっちですか?」

「あったりまえでしょ。良かったわね、あんたを守る、素敵なナイトができて」

「ナイト!?」

「いや、ナイトっていうより、武士っていうほうが鉄吉くんの雰囲気かしら」

「もうどっちでもいいですよ。ナイトでも武士でも」

 面倒になって、私はカーペットに倒れこんだ。

「あんたは高木くんに恋してる。それは自分でもわかってるでしょ」

「はい。高校生のとき、一目見ただけで、先輩のこと、好きって思ってしまった気持ちは、今も変わらないですから」

 あのとき、身体の中を電気が通り抜けたような衝撃とともに、先輩以外の周囲の景色の色が消えて、私の目は先輩に釘付けになった。

 もうまもなく三年、いまだに私は先輩を思い続けている。

「はい。ここで一つ、残念なお知らせです」

 しみじみと自分の恋について思いをはせていると、幽霊が寝転んだままの私の目のまえに、指を一本つきだしてきた。

「恋とは脳の風邪である」

「へ? それってどういうことですか?」

「いいこと? 恋をするということは、脳の中で脳内麻薬といわれるドーパミンがいっぱい出てる状態なのよ。そうなると、あばたもえくぼで、相手の欠点が見えなくなっちゃう。だから、恋している時期に、そのお相手をけなされると、どうしてそんなこと言うの、と忠告してくれた相手を恨む。どう、心当たりない?」

「……ない、と思います」

 自信を持って答えたかったのに、声が小さくなってしまった。

 考えてみると、ちょっと心当たりがある、といえなくもない。

「あんたは恋して何年?」

 嫌な予感がした。

「もう少しで三年くらいですが」

「そうか。三年目だったか。実は三年目は、恋が冷める危険性、大なのです」

「な、なんで?」

「ドーパミンが大量に出てる状態は体がしんどいんだって。だから、三年が限度。それで多くのカップルが三年で別れるってデータがあるの」

 なんでそんなことを知ってるんだろう、この人は。

「私は違います。ドーパミンのせいで、先輩が好きなわけじゃない」

「うん。まあ、あくまでも学説だからね。あんたに当てはまるかは知らない」

 幽霊があっさり言う。

「もう。おどかさないでくださいよ」

「でも、愛され女子になるためには、覚えておいたほうがいいことなのよ。恋をしたら、その人しか見えなくなって、その人のためなら全てをささげてもいいと思うことがある。でも、そのとき、一歩ひいて、ドーパミンのせいかも、って思えれば、少しは冷静になれるかも知れない。恋は素敵だけど、自分の身を滅ぼすような恋をしては駄目。愛され女子は、自分にふさわしい相手を見る目をもたなくちゃ」

「理屈はわかりますが、相手が好きなときは、そんなふうに冷静に見れないんじゃないですか? だから間違えちゃう人が多いんだと思いますよ」

「そうね。それはそうだと思う。だったら場数かも知れないわね。いっぱい恋して、引き返せる程度のところまでは間違ってみる。そうすれば、本当の恋にたどり着けるのかも」

「……随分、面倒に思えるんですけど」

「大事なものは、面倒なものの中にあるのよ、きっと」

 最後のほうは、諭すように優しく言う。

 面倒なものの中にある大事なものを、私は見つけることができるだろうか。

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