第4話 トマト売りの二様さん


 三 トマト売りの二様さん



四月の晴天。空はどこまでも空である。


ラジオゾンデが小型の気球が空高く飛んでいる。空中ラジオを操縦し、我が創音をさえずりと、広場に屯う人々に、創楽シルクを贈ろう。


太陽光を集めるべく、エメラルドブルーに染められたカーディガンを羽織り、

田夫野人デンブヤジンとも思われるか、横縞のジャージパンツに、長靴を履き、街道の先にある河原へ向かった。


秋には、真黄色の金木犀で埋め尽くされるその河原は、もくせい川と呼ばれ、江戸へ 向かう者への休息場か、富士参拝者への巡礼路か。

大勢の人で賑わう事もある。


我が、ナウマンゾウか古代マンモスの化石を掘り出そうものならば、巡礼者は、牡蠣殻を砕き、黄苓、人参、生姜と酒に漬け飲み干すと話し、この河原を下駄で歩けば、一歩一里 、鮎も釣れば、五位鷺も飛び集まると語っていた。


「トマト売りの二様さん」とは、我が河原に立ち思う姿。


水面に漂うは、その底の産業たるものの、得毒と毒液が入り交じり、毒牙を恐れ、赤い果実を食わす者である。


鮎が泳ぎいた時代、幻になる時代、答えは簡単である。

空飛ぶエアーカーを造る事が出来るのであれ、瞬間移動と幻を造る狂った未来へと飛んで行く。

消し去る物は、その毒液である。


創楽シルクの滑走路は、マジックハットの円筒で、コイルフィフティ、ソングへゲモニ-と、飄然と気球を現させ、バルーンの側面には、サ-カス団を描き、回転木馬の低彩色は、橙か薄萩色かと同化効果も現るか。


デジタルオーボエの音色に指揮者であるオポチェニストであれば、オーケストラを呼び、

その屯う人々を動かし音を流すであろう。

我が、ものかはと河原に足を運び、眺め来たのは、「お負け」と喜ぶ者は、その商店か来客か。キャラメルボックスに付いたプラスチックカーを組み立て遊ぶ年少者の笑顔を望むのであれば、

「おまけ」と表すべきである。


その目的と目標の終着点で、誤差が生じ、毒が増えるのだ。


太陽光は、音の波を創り出し、化学スモッグも創り出す。光を遮る雲の姿をこの目にと歩く。

太陽は全ての人々のものであり、そのエネルギーは計り知れない。


ただし世界を一つにしようとすれば、有名ブランドばかりを買いあさり、世界共通硬貨までもが発行されかねないのだ。


トマト売りの二様さん、毒を毒とせず、生生セイセイと良き時代を創る。




    ~おけら杏仁~


旧街道には、古本屋の杏仁古書店と、食堂のおけら屋。と、二軒たいそう古風な店がある。

おけら屋は、一文無しとは言わぬが、外観は老舗を改装した小屋である。

元々は提灯屋で縁日などには和紙の灯りが数多く吊るされ、杏仁古書店に立ち寄った際には、おけら屋で定食という、気ままな流れも我の日常にはあるが、ここ最近は、凍りつく地温と動く度ポキリと鳴る身体の節、眼球に現わる、鶏に悩まされ、自由がきかぬ事もあり。


おけら屋の定食というのは、三つのパターンがあるのだが、その一つとは、十小鉢。

いたってシンプルな肉・魚・菜に果・うどん、そばと食すべき中味に全てがあるという定食である。

その二とは、一品五膳。

日替わり一品に、五種の御数が並ぶ。三つ目は、こうや定食。この定食を注文すると、まず初めにかならず出されるスープがあり、小皿に塩、 酢、ニンニク、唐辛子、と書かれ、自由に使う事が出来る。

その後、日替わり丼が運ばれてくるといった品である。


老夫婦と若夫婦四人にパタパタと働くおけら屋の関係者らしき人物も数多く出入りし、昼時、夜時ともなれば外にまで人が並び、待つ事もあるのは食の豊かさと人生の活力を満たすべく、働き、人も訪れるからなのであろう。


理想であるのは、十小鉢だが、こうや定食のリズムが可笑しいのである。連続的でありつつも、音高の幅があるのだ。

丼の時が長く過ぎる味の周波数とは、

我音ガオンの視界とシグナルが混ざり変化をきたすと。

若夫婦の半音がおけら屋で響く時である。


「はい、スープ-。こちらの小皿から御自由にどうぞ。丼ぶりお待ち下さい。」


「おけら屋さん、今日の日替わり丼って?」


「ハスと鳥ひき肉の天ぷらとうずら、豆腐揚げとー。」


「魚天ー。つみれ揚げも入りますよ。」


「天丼か、いいねぇ。」


我も天丼を食す。具のバランスとボリューム感、まず申し分ない。豆腐揚げを残し飯と半々で平らげ、うずらで〆る。

旨い。

一口目から次の一口への間に満足周波数が流れるのであるが、この店の味は、行く度に我の音食と合うのである。


己の味覚と、推論されている食糧の数値と、必要である摂取量とは、その人、

己自身でなければ、わかるまい。


闇夜の提灯と駆け込むも、あるが、

毎度、毎度と、頂きたいものである。


丸パンをかじり杏仁古書店で購入した『汗は血が』

著者は五郎八茶。


その一説の夫婦のやりとりである。


「誰が夫婦を必要としているのか?聞かせるのか、見せさせるのか?」


「ひっそりのマジックとセレモニー。

はたまたマジックで。」


「イリュウ-ジョンが寺子屋に?」


「お母さぁぁぁん。」


「おばあちゃぁぁん、俺のジャマはしてくれるなよ。」


「フザケンナ、お前戦えよ。」


「いやいや、私はゲージュツ家。戦とう準備はありませぬ。」


「表すと出向いて、

何を求めるのか?!」


「あなたの生きて行く道は何処イヅコー?」


「いらぬと言われればそれまでで。誰が欲しいと走るのか!」


「御用を伺え、おかっぴき。お主の今に何を持つ。」


「明日の飯は、今日の汗。誰も欲しいと呼びません。ならば引き行く姿あり。」


「どちらへ。」


「汗は血が。」


「フフン。意志を曲げよ。決まりは無い。誰が全てを決めるのだ。」


「医者でもあるまいに~!」


「墨入りですね、なんか。」


「かっこつけたく無いですか?単純に。」


「勝ち取るよりも、お願い申し上げます。必要とされる方が嬉しくないですか?」


「クレーンゲームで商品をゲット出来てもそれだけ?」


「パチンコ屋で玉を取っても。」


「的当ての景品を欲しがる人なんて、少ないなぁ。」


おけら屋の夫婦シグナルに当たりもハズレもなどと、思う事など無く、我気ままにと楽に 出向いていたものだった。


杏仁古書店で購入した書籍もブックスタンドには収まりきらず、ノートBOOKと積み重ね、トリス瓶、デュラレックスの小グラス、クラッカ、カーディガンやら、アルバム、CD手帳、なべの蓋、楽曲制作スペースへと移動する間に、

我scamp《ワレスカンプ》コンポストとなり、

好事家風雅の道と入る。


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