Chapter 3

 帰ってくると、部屋の内からカレーの匂いが漂ってきたので、うおぉ、と思いながら奥へ「ただいまーっす」と声をかけると、おかえりー、と何やら懐かしいぽやぽやした声が返ってきて、リビングへ入ってくると、その台所にはエプロン姿の桃谷先輩がいて、右手の甲でずり下がった丸いメガネを上げながら、「今日はカレーだよー」と言って笑ったのだった。桃谷さんの背後から覗き込んでみると、確かに鍋の中では出来上がったばかりのカレーが煮込まれていて、野田は「桃谷さんいいっすよ! 今日おつかれでしょうから俺が……」と言うのだが、桃谷さんは、いいよいいよ、ぼく帰ってきたのは昼前だったし、とうれしそうに微笑みながら、使った調理器具のあとかたづけをしていて、すると野田は、久しぶりに会ったその後ろ姿に急に愛しいと感じて、桃谷さんのその大きな背中になにげなく手を回すと、そのままぎゅっと抱きしめて、

「桃谷さん、おかえんなさーい……」

 としみじみ言った。桃谷さんは「な、なんだなんだなんだー」と言って困ったように笑い、

「危ない、危ないよー。今おかたづけ中ー」

 と野田の腕を外そうとするのだが、何ぶん片手がふさがっているので上手くいかず、野田も、まぁ、まぁいいじゃないですか、となだめるように言いながら、

「いやぁ、でも久しぶりだなー。あれですよ、桃谷さん出かける前には、毎日のように儀式的にやってたから、なんか禁断症状っていうか」

「な、なんだそりゃー。なぁに、野田くん寂しかった?」

「寂しかったっすよお」そう言って野田は桃谷さんの腰の辺りにふざけて手を回し、「そりゃもう、ぼくが一番好きなのは桃谷さんの背中ですから」

「と、とにかくー、ほら、福島くんも上がってくるからさ」

 そう言ったのを聞いて、野田は一瞬ぎくりとして、思わず腕を放してしまい、そのすきに桃谷さんはくるりと回って腕をほどいてしまうと、野田のほうに向かい合った。野田が、おそるおそる「……あいつ、まだいるんですか?」と聞くと、

「うん、いるよ? いまシャワー浴びてるけど」

「なんで帰さなかったんですか」

「えっ、駄目だったの?」

「いやあ駄目ってことはないですけど……」

 そう言っている間に浴室の方からは扉の開く音がして、桃谷さんは振り返ると、「あ、タオルと着るものは、そっちに置いといたから、適当に着替えてねー」と呼びかけ、そうすると「はーい」と福島の返事が返ってきた。

 野田はなにか言おうとしたのだが、当の桃谷さんきょとんとしながら相変わらずにこにこと嬉しそうな表情を浮かべているのを見て、とうとうやる気をなくし、やっぱりこの人には勝てない、と思いながら、リビングへ服を着替えに戻っていった。

 ジャケットを脱いでハンガーにかけ、ベルトを外してズボンを脱いで、と野田がやっている間にリビングに現れた福島は、ラフなTシャツにハーパンといういでたちで、上気した顔で「いやー、すみません、着るもんどころか下着まで出してもらっちゃって」とキッチンにいる桃谷さんに言い、なっ、なんだそれ!? どういうプレイ!?と思わず心の中で叫んだのだったが、それはおくびにも出さないようにしつつ、朝と同じように深いため息をついて、服をまとめながら、

「お前、なんでまだ居んだよ?」

 と尋ねると、福島は、

「だってもうこんな時間じゃーん。したら桃谷さんが、今日も泊まってったら?って奨めるからさ、それならじゃあお言葉に甘えてって感じで」

「や、お前……」

「ぼくは別に構わないよー」と、桃谷さんがこちらを振り向いて口をはさみ、「福島くん楽しい子だし。それに、ぼくも仕事が一段落したから、またちょっとだけ暇になるしね。野田くんはどう思うかなぁとも思ったんだけど」

「……」

 もう、もはや何も言うまい、と半ば諦観するようにして、仕方なしに福島と入れ違うようにして風呂場へと向かい、シャツを脱ぎながらふと気になって、ちらりと洗濯カゴの中に目をやると、福島の脱いだあとの服や下着が無造作に入っていて、こ、これはやばい、人としてアレゲなことをやってしまいそうだ、と思いながら、冷静さを取りもどすようにして廊下に顔を出すと、「おいお前、そういや、頭痛いのはもう治ったの?」とリビングに向かって呼びかけた。すると、福島からは「あー、お茶飲んで飯くってソファで寝ながらテレビ見てたら治った」と適当に答えられ、そうかよ、と虚空に突っ込みながら、浴室に足を踏み入れ、蛇口をひねってシャワーを浴びはじめながら、物思いにふけりつつ小さくため息をついた。

 福島は昔からこういう奴で、なんでもいい加減なくせに、どこか憎めないところがあって、それでその辺りが危なっかしくてつい面倒を見てしまうような奴だったのだが、いや、まあ俺があいつを憎めないのは、単純にある種の形容しがたい感情を、あいつに抱いているせいでもあるのだろうか、と野田はしみじみと思いながら、そろそろ切りたくなってきた髪をかき上げ、シャワーの蛇口をひねって止めた。



 風呂から上がり、野田が適当に着替え終わったところで、ソファのそばの四角いちゃぶ台を3人で囲み、というか、ソファを何故か福島が占領して、家主であるはずの桃谷さんと野田の二人が座布団に座っている、というのもなかなかに解せないところではあったのだが、まぁ、いつも家に二人揃っているときはわざわざ一人だけソファに腰かけるのも何だかおこがましいというか、不自然な気がするし、かといって二人で並んで座る、というのもどことなく仲が良すぎるような感じがして、結局ふたりカーペットの上に座りながら食べていたりするので、まぁそこまで気になる程のことでもない、といえばないのだった。

 桃谷さんは律儀にいただきます、と両手を合わせ、野田もそれを見ると小さく礼をしたのだが、その前に隣の福島はもうカレーに手をつけ始めていて、ご飯とカレーを混ぜながら食べている様子を見つつ、野田は「おい、どうでもいいけど、ソファにこぼすなよ、それ二十万もしたんだから」と言うと、福島は心底驚いた様子で「はぁっ!? お前、バカじゃないの!?」という一言で野田のポリシーを一蹴したのだった。

 だいたいさ、野田は昔っから全体的に中途半端なんだよね、と福島は食べながら続け、こんなソファなんて買っちゃってさ、いかにも俺は上流知識階級ですみたいな、大衆とは違います、インテリですみたいな顔しやがって、とまで悪態をつくので、ちょ、おい、と野田が言おうとすると、横から桃谷さんが、「そいえばさ、福島くんさっき、野田君とは小学校のときから一緒だったって言ってたけど、今は何してるの?」と福島に尋ね、あぁ、俺のいない間に色々話していたのかと思う横で、福島は、あー、最近は友達の家とか転々としながら生活してますね。ちょこちょことアルバイトやって、日々の足しにしたりして……あっ、そうだ、前AV出たんですよAV。友達がそういうのやってて、ありゃ結構な金になりましたよ、と言って、二人をぎょっとさせた。

「……あ、やだなぁ! そんなビックリしないでくださいよ、別に好きで出たわけじゃないんですから」と福島はいい、しかしその次の瞬間には、「あーでも、自分の出てるAV!ってのもなかなかに貴重っすよ、一度はやってみたいっていうか」とまるであべこべなことを言い、どっちなんだよ、と思いながらも、福島がその大きな手で、女の体を抱いていたりする情景を反射的に思い浮かべたりして、高校のころ、福島とクラスが一緒で、席もちょうど隣だったとき、それはちょうど、梅雨が明けてようやく太陽がはげしく輝きはじめ、かんかん照りの外から来る日差しに、思わず目を細めてしまうような時期だったのだが、逆光の、誰もいなくて電気の消えた教室の中にいると、まるで、これはまた使い古された表現であるが、まるで海の底にいるかのような気分になったもので、その中で、まだ若かりし頃、窓の日差しを背にして陰になりながら、机の上に腰掛けて笑っている、半袖の夏服姿の福島のことを思い出して、そして自室の布団の中で毎夜妄想にふけりながら考えた、さまざまなシチュエーションでの福島との性交の数々とやらも、野田は思い出したりし、それらがやがてダブりはじめ、野田自身が、福島からいたずらっぽく胸やら腹やらを愛撫され、抱きしめられている姿を、一瞬頭に思い描いてしまったりして、その瞬間はっとわれに返ったのだったが、気が付くと二人の話はいつの間にか、AVの内容やらギャラやらの話から、そのバイトを持ちかけてくれた友人の話へと移っていた。

 で、その友人とは、前に野田が福島を入居祝いで招待したときにも一緒に来ていた鶴橋とかいう名前の男で、そいつは福島の高校で一緒だった一つ下の部活の後輩で、野田自身とは面識はなかったのだが、その流れで話は、野田と福島が、小中高と同じ学校に一緒に通っていたころにまで遡っていったのだった。

「そういえば、中学の頃お前エロかったよなー」と福島が言ったので、端からカレーを切り崩すように食べていた野田は危うく口の中のものを吹き出しそうになり、いつの話だよっ、と思わず叫び返したのだったが、福島は、「ほら、横からちんことか触ってきたりさー、むやみに抱きついてきたりしたじゃん」と言って笑い、桃谷さんはあはは、と困ったように微笑んで、野田は、いや、あれはその、何ぶんオナニーとか覚えたてのころであったしと思い、っつーか今更こんなところでそんな話をむし返すな、と反論したことはしたのだが、桃谷さんはなにやら意味ありげにうなずきながら自己完結しているようだったし、いや、まぁ桃谷さんと大学で知り合ったきっかけもまた実はそうしたセクハラ繋がりで、野田が酒の席でどさくさにまぎれて抱きついたりしても、一人笑って許してくれたのが桃谷さんで、それ以来ずっと関係が続いていて、今に至ったりしているのもあって、まぁ何というか、自業自得ではあったのだが、ていうか、お前の話をしろ!お前の話を!と言いながら、野田はカレーの残りをかっ込んだ。

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