Chapter 2

 まず最初にソファの話から始めなければならない。

 野田正樹の実家にはソファが無かったのだった。それに野田自身はじめて気が付いたのが、確か中学くらいの頃に読んだ村上春樹の小説かなにかで、ソファに異常な執着心を見せる主人公が出てきて、その主人公はその家のよしあしや住んでいる人間の人となりを判断する際には、その家に置いてあるソファが良い物であるかどうかで決まる、とまで豪語していたのを読んでからであって、野田の家にはコタツと座椅子と座布団があり、リビングには食卓用のテーブルがあっても、ソファはないのだった。しかしお隣さんの家にはちゃんとソファがあるし、ないのは単にウチが狭苦しくって古いからに違いない、と思い、まあそういった理由で、自分もいつか大きくなって仕事をするようになって、やがて結婚なんかもしたりして、自分の家を持つようになったら、そのときはソファのある家に住もう、とまだ少年ながら野田は密かに誓ったのだった。

 で、大学を卒業し、先輩の桃谷さんから「一緒に共同で一つの部屋を借りないか」という話を持ちかけられた時には、野田はそれは名案だと思い、そうして一番最初に返した言葉が、

「ソファの置ける部屋がある所なら、どこだって喜んで」

 というものだった。ソファへの執念や憧憬は、いまだ潰えてなかったというわけだ。

 ただ、自分が結婚したり家庭を持ったりするかどうかについては、その時点ではもう願望というものもなかったし、衣食住その他に関する理想というのも、まずソファのある生活があり、そこからさらに飯がちゃんと食えるならそれで、というどこか浮世離れした希望しか持っていなかったので、学生時代と比べて特に大きな変化があったかと言えばそうでもなかった。以前からちょこちょこと小金をためこんでいたのもあって、財政面でそれほど困るということもなかったし、それにソファに寝転がって休日にのんびりとカウチポテトにいそしむことができただけでも、野田的にはけっこうな満足だったのである。



 で、そのソファに今は、福島が眠っているのだった。

 目覚めるともう朝になっていたので、布団から出て起き上がり、ゆっくりと伸びをしながら部屋を出てリビングまでやってくると、ちょうど壁際にくっついているソファに眠っている福島が目に入って、それでやっと昨日のことを思い出したのだ。こいつはこれから一体どうするんだ、というか、俺がどうにかするべきなのだろうか絶対いやだ、とも思いながら、部屋のカーテンを音を立てて開けると、窓の外はひさしぶりのまっさらな晴天で、ぽかぽかとした暖かい日差しが床のフローリングに差し込んでくるので、あぁ、こういうのを実際に小春日和と呼んだりするんだよな、と思いながら、お湯を沸かしに今度はキッチンまで行った。さっきまで、いま見たばかりの夢の内容を覚えていたような気がしたのだが、いつの間にか忘れてしまっていた。

 ヤカンを火にかけてから、眠い目をこすりつつ今度は洗面所へ向かい、顔を洗ってしまうと小便も済ませ、それも終わると玄関に行って、ポストに突っ込んである新聞を取ってきて、戻ってくると福島はまだ寝ており、時刻はもう7時すぎになっていた。畜生いつもよりもやや遅れぎみじゃないか、あのままソファで眠っていられればこんなことには、あれから悶々として、しばらく眠れなかったんだからな……、とぶつぶつと文句を言いながら、持っていた新聞をテーブルに放り、それからキッチンに戻ると食パンと皿とジャムとマーガリンを持って帰ってきて、それをいろいそと塗りつつトースターにかけ、その間に着替えようとすると、ヤカンが音を立てて鳴ったので火を止めにいき、Yシャツに腕を通しながら器用にお茶を入れていたところで、ようやくソファの上の福島がもそもそと体を動かし、のっそりと上体を起こして、ぼんやりと、その辺りの中空を見つめたのだった。

「お。やっと起きたか?」と野田が言った。

「……、あー、」声が喉に張り付いているように、福島はごほんと咳をひとつした。「……さっきから。水道の音がしたから」

 ふうん、と思いながら、野田はテーブルの上に広げた新聞に目を通しつつ、手元のお茶を静かにすすった。お前もなんか飲む?と聞くと、あぁ、うん、と福島がうなずくので、野田が立ち上がって棚からもう一つカップを出そうとすると、一方の福島は再びタオルケットの中にもぐり込み、ソファに横たわってしまった。

「おい、飲み物は? いいの?」

「……頭いたい」

「お前、一体どこで何してきたんだよ?」

「のんできた」

「そりゃ見れば分かるけどさ」

「いやね?」と、頭からタオルケットの中にくるまりながら福島は言うのだった。どうやら日の光が目に痛むらしい。「実はさ、友達とひさびさに飲むことになってさ、盛り上がっちゃって、会うのホントに久しぶりだったし、楽しくてさあ、こう、何軒かはしごしてったのね、そしたらその、一緒に飲んでた女の子が……、あれ? あー、違うな、そうじゃなくて、一緒に飲んでたのは男だったんだけど、そう、さっきまで見てた夢に出てきたのがその女の子で、ええと」

「どの子」

「あー、だから、そのちょっと前にコンパで一緒になった女の子でさ、そうそう、それが、ちょー可っ愛くてさ……!」と言って、福島はタオルケットから顔を出して、野田に嬉々として語り始めるわけだが、「そう、話もなんか妙に合うし。それで、あれっ?これもしかしてイケるんじゃね、とか思って、ケータイの番号とメアドも交換してさ、あー、別に、その子だけじゃなくて、全員と交換はしてたんだけど、ってああ、やばい、頭いたい。あー、ちくしょー、好きだぁ! ちくしょー……」

 福島は話している途中でなぜか悶絶し始め、半ば呆れつつも、この男の話に脈絡がないのもすぐに惚れっぽくなるのもいつものことで、野田の脇ではトースターが元気な音で鳴ったので、そこからパンを重ねて皿に取リつつ、

「あのさ、お前寝てるのはいいんだけど、俺、これから仕事だから。出てくんなら早めに出て行ってくんない」

「え、マジで? ダメだよぉ俺……」弱ったような声を出す福島。「超ムリ。寝てるよ。待ってる」

「待ってるって誰を」

「おまえ帰ってくるまで」

「……いや、無いからさ、そういうの」

「だいじょぶ、だいじょぶ、オレ、電話にも呼び鈴にも勝手に出たりしないしさぁ。……あー、出た方がいいの? そういうのって。出ないほうがいい? まいいや、でもさほら、別にオレだってお前帰ってきたらちゃんと帰るしさ、それにむやみに外に出てったりもしないよー。でも、今はムリ、ちょう頭痛くて」

 野田は椅子に座ると、ジャムの瓶をあけ、それをスプーンでパンに塗ってから、

「いや、あのさ、俺以外にもここに同居してる人いるからさ。今日その人が帰ってくるし」

「はぁ!?」

 野田の言葉に、ソファから福島が急に顔を上げ、

「誰!? いつから!? 女!?」

「……男だよ」

「なーんだ」

 落胆するように肩を落として、再びソファの中に戻ったので、だからお前はいったい何様なんだよさっきから、と思いつつも、ため息をつきながら食パンをかじると、あらためて横目で福島をチラ見し、そのタオルケットの中から首だけ出してソファに寝転がっている姿は、どことなく無防備でほほえましく、なんとなくボディラインが見えている辺りも微妙に艶めかしいようにも見え、そうした所も昔から変わってないよな、とも野田は思い、

「いや、つーかさ、前にお前が引っ越し祝いとか言ってここに遊びに来たときに説明したろ。ほら、あのなんつったっけ、同い年くらいのあいつとお前が一緒に来たときにさ。この部屋を二人でシェアして使ってるんだって」

「あー。シェアってそういうことね……」

 意味分かってなかったのかよ、と思わず心の中で突っ込んだのだが、そのすぐ後に「んなん覚えてるわけねーだろ」と返事がきて、はいはい、そうですか、そうですよね、と適当に相槌を打ち、野田は、もう勝手にしてくれと思いつつ静かにため息をついたのだった。

「じゃ、もういいから寝てろ。合鍵はテーブルの上に置いとくからさ、出かける時はちゃんと鍵閉めてから行けよ。あとそれから、誰が来ても絶対にドア開けないように。分かった?」

「はーい」

 本当に分かったのかよ、と思いながら、残りの朝食を口の中に無理やり収め、途中だった着替えを終わらせてスーツを羽織ると、最後の支度を済ませて野田は足早に家を出た。駅まで軽く歩き、着いた頃にはいつもより一本後の通勤快速が来たので、それに乗って、詰め込みの満員電車の中でその例の同居相手である桃谷さんにメールで連絡を入れた。

 桃谷さんは、彼が働く会社の本社のある京都に現在出張中の身で、ちょうど今日に帰ってくる約束なのだった。今現在はまだこちらで野田と一緒に共同で居を構えているのだが、最近は向こうで仕事をすることも多くなって、長いこと家を空けることもしばしばだったので、うーん、近々あっちにちゃんとしたとこ借りようかなぁ、と半ば真剣に桃谷さんもぼやいていたくらいだった。

 実は桃谷さんも、野田や福島に負けず劣らずの大兵肥満で、この3人がひとつの家に集まるとなると、さぞかし暑苦しくなることだろうな……、と思わず苦笑してしまうのだが、いやしかし、福島に早いとこ出ていけと言ってしまった手前、そんなに長く滞在されても困るんだよ、とそこで思い直し、しかしその一方で、久しぶりに思いがけない知り合いと出会えたことには少なからず嬉しかったのもあり、ただ、まあ、それを福島におおっぴらに言うのだけは不本意なのだが……。と、ここまで考えて、結局それはどっちでもいいということなんだろうかと野田はぼんやりと思い、しかしそのすぐ後でまた、さっきまでちょっとだけ期待していた自分を恥じるのだった。

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