第7話
予想だにしなかった詩織の行動に唖然としたのは太郎だった。そこらじゅうで太郎たちを取り囲んでいる魔物(おそらく元は人間)たちは理性を失っているようで詩織の取った攻撃的な行動に微塵も怯える素振りを見せない。
寧ろそれを開戦の狼煙として詩織目掛けて駆け出した。奇声を上げ、まるで自身たちを鼓舞するように、詩織を威嚇するようにして、腕をだらりとぶら下げて、歪に走り寄ってくる。一体、また一体、と波を形作って押し寄せてくるやつらを詩織はぎっと睨んで迎撃する。
徒手空拳。詩織は武器になるものを持ち合わせていない。が、詩織の体自体が武器であった。太郎の知らないところで詩織は武術を会得しているようで、それは先の攻撃で明らかになった。迫ってくる敵を正拳突きで吹き飛ばし、さらに別方向から迫る敵の頭蓋を正確に回し蹴りで振り抜く。
時折短く息を吐いて攻撃に勢いをつけているようだった。
呆気に取られて詩織の熾烈な戦いぶりを眺めていた太郎であったが、すごい、とかかっこいいとかきれいとか、そんな感想を心の中で抱いているうちに、いやいや自分は何をしているのかと反省して頭を振った。立ち上がらなければ。こんなところで尻もちをついている場合じゃない。ぼうっと眺めている場合じゃない。非力でも、無力ではない。少しぐらいは、戦えるはずだ。
「主人公がただただぼうっとしているってのは、僕のもつ
自分にそう言い聞かせる。何ができるかなんてやっぱりわからない。今の状況は誰が見たって明確なまでのピンチだが、それで突然力が解放されるようなこともないらしい。
「何がゼウスの魂の欠片だよ。ちくしょう、こうなったらやけってやつだ!」
詩織の後方から、背後を取ってがんじがらめにしようと迫る敵一体に駆け出した。思い切り駆けていき、助走をつけて右手を弓のように引き絞る。体を絞って解き放つ。
「オラァ!!」
声を出したほうが力が入るとどこかで聞いたようなことがあった。だから叫んだ。叫んで、右手を突き出す。乱暴で、我流な右ストレートは世間的にはきっとへたくそと言われる程度のものだろう。でも、その時、叫んでしまったから、詩織に気が向いていたそれは太郎の方を振り向いた。そして目が合った。あ、と太郎の息が止まる。それの顔は人だった。確かに化け物染みた目をしている。赤色に光る妖しい目なんて見たことがない。けれども、目鼻立ちも、身体的特徴も、人間以外の何者でもない。
(こいつ、やっぱり人間だ……!)
太郎の振り出した拳が鈍る。罪悪感が生まれた。殴っていいのか。それでいいのか。偽善ともとれる感情が太郎の右拳の勢いを殺していく。詩織を少しでも助けたいとか、詩織にいいところを見せたいとか、そんな気持ちで立ち上がったのに、簡単にそれを上回った罪悪感が太郎の意識を飲んでいく。それがいけなかった。勢いの消えた太郎の拳は魔物の頬に届く前に魔物に掴まれた。
魔物は平然と標的を変え、人並み外れた腕力で太郎を持ち上げるとそのまま地面へと叩きつけた。体はしなってコンクリートに叩きつけられた。掴まれたせいで右肩が外れた。脇腹から嫌な音がした。腰も足も激痛で声が出ない。口の中で血の味がする。鉄の飴でも延々と舐めさせられてるようだ。呼吸は浅く、死の感覚が近づいている。心臓が壊れたように高鳴った。魔物となり果てた人間は、目の前で吐血して倒れたままの太郎に何か思うこともないらしい。もう一度、太郎の外れた腕を掴む手に力がこもる。ずうっと引き摺られるように持ち上げられる。まずい、まずいまずいまずい。まだ死んでから一日と経っていない。それなのにもう死ぬのか。そんなの嫌だ。
持ち上がるとき、霞んだ目でそいつの目を見た。空虚な眼をしていた。
いたずらに殺されるでもなく。憎悪に塗れて殺されるでもなく。ただただ何事もなく”殺される”。
ちくしょうと奥歯を噛みしめた。
詩織が何かを叫んだようだ。気付いてくれたらしい。
詩織に再会できたのに死ぬのなんて嫌だ。
詩織のことを助けたかった。けれどそれには力不足過ぎた。
主人公になれそうなのに死ぬのなんて嫌だ。
神を殺せなんて無理難題をこなそうと思ってしまったのは浅はかだった。
妙な世界になって冒険できそうなのに死ぬのなんて嫌だ。
それでもやっぱり、太郎には力なんてない。
嫌だ嫌だ嫌だ。ヒーローになりたい。主人公になりたい。英雄になりたい。
少しぐらい、良い思いがしたい。我欲に塗れた思考が太郎の頭を埋め尽くしていく。
「僕だって、詩織姉ちゃんを守りたい!!」
欲はどこまでいけども欲だ。願いはきっと汚らしいものだ。それでも太郎は望んだ。何者にもなれず、何者からも必要とされない自分は地下鉄に引かれて死んだ。それから縁あって
太郎は痛みを堪えて拳を握った。
それは、魔法でも異能でもなかった。
それは、言うなれば”根性”。
生憎魔物は太郎の右手しか掴んでいない。左手はがら空きだ。体中叩きつけられて軋むし痛むが、左半身は比較的軽傷だ。と言っても十分重傷であるが。それでもまだ戦える。やれる。やってみせる。太郎の瞳に闘志が宿る。勝手に出てきた涙のせいで視界はぼやけていい迷惑だが、それでも太郎は拳を握る。魔物の体を両足で挟んでロックした。これで敵は逃げられない。さっきと同じ要領で体を捩る。
敵はもとは人間だ。だから申し訳ないと思う。自分からこんな化け物になったわけでもないだろう。だから申し訳ないと思う。今こうやって太郎を痛めつけているのも本意ではないだろう。だから申し訳ないと思う。申し訳ないと思うことは多々あるが、それでも今は、こうしなければ死んでしまうから——
「ごめんなさい、何度でも謝る。ごめんなさい!!」
痛みに耐えれずしっかり言えたとは思えないが、それでも太郎の謝罪はきっと耳には届いたはずだ。それを理解できなかったとしても。
捻った上体から突き出した左ストレートはへなちょこなのは変わりないが、さっきと違って迷いはない。勢いも死んでいない。今出せる全力で、顔面を撃ち抜いた。
ガツンと頬骨に太郎の左拳がぶち当たる。骨と骨が当たった感触があった。痛撃だ。勢い任せに振り抜いた左手もじんじんと痛む。若干痺れて一瞬で握力が無くなった。威力は十分だったようで、敵は掴んでいた手を離してその場に倒れこんだ。
「っ痛う……!」
手を離され、相手も倒れたおかげで太郎もその場に倒れこんだ。拳を抑えて、小さく呻いた。険しい顔をした。けれども痛みは消えることはない。わずかな時間で体中がぼろぼろだ。駆けてきた詩織が倒れこんだ太郎を抱きしめる。
「大丈夫!? ごめんね! 私が目を離しちゃったから! 時間もかけすぎちゃったから!」
まるで保護者だ。苦笑いして、太郎が詩織を制した。
「ごめん、体中痛いから触られるとやばい」
はっとした顔をして、詩織が即座に離れた。
「ていうか、まだ敵もいるだろうから僕のことは気にしないで」
「それはもう全滅させたから」
「…………はい?」
「それよりタロウが心配だよ! どこが痛むの? 腕、背中、足?——ああ、口から血も出てるじゃない!」詩織が袖口で太郎の口元に流れていた血をふき取った。
「……待ってて、治癒魔法かけるから! でも得意じゃないからなあ……頑張るね!」
「待って、待って待って」
「なに、どうしたの?」
「もう、敵は全滅したの?」
「うん、とにかく治癒するね。”
そんなことよりも、と詩織が太郎に膝枕をして治癒魔法をかけていく。得意ではないと言っていたとおり、痛みの和らぎ方は遅々としてこそばゆい。そもそも治癒魔法がどんなものかはわからないから普通はこんなものなのかもしれない。詩織の膝枕のおかげで頭が温かくて柔らかかったから精神的には十分癒された。
しかしそんなことよりも、詩織が魔法を扱っていることに驚いたし、当の主人公であるはずの太郎がすったもんだをしている間に詩織がゆうに三桁以上いたであろう敵連中を全滅させていたことが衝撃的過ぎて太郎の思考が追い付かない。ぱっと見ただけでも数百はいたはずだ。ぞろぞろと寄ってくる姿はゾンビ映画さながらでぞっとしたくらいだったのに。
自分は一体倒すのにやっとで体もこんなに痛めつけられたというのに、詩織は見たところ、特に怪我もしていない。ついさっきここに辿り着いたときと何ら変わった様子はない。息があがっているのは太郎が心配で心配で仕方ないから、というのと不得意な治癒魔法をかけるのに集中しているから。そして太郎の告白ともとれる宣言を聞いたからだった。
(もしかして詩織姉ちゃんってめちゃくちゃ強いんじゃねえの)
そんな風に考える。あの飛び膝蹴りから頭部を持ち上げて後方の敵に目掛けて放り投げる様は圧巻だった。あまりにも流動的で華麗な攻撃に見とれたほどだった。
それに引き換え、自分はどうだ。敵の顔を見た瞬間に情が湧いて簡単に殺されかけた。なんてこった。
ちらと辺りを見ると、そこらじゅうに太郎と同じように倒れた魔物があった。しかし起き上がる様子はない。まだ、安全らしい。けれども不安は募った。
魔塔ギャラルホルン。そこに立ち入る前の段階で自分はこんなにぼろぼろになってしまった。生まれて初めて人を殴るという行為に葛藤して相手に遠慮してしまったからということもあるが、それでも今こうやってボロボロになっているのは太郎の力不足が原因に相違ない。
ゲームで言うならレベルが足りていない状態だ。かといって、経験値がたまってレベルが上がるようなものでもないだろう。それでも経験は積むべきだろう。とはいえ、魔塔ギャラルホルンを攻略するために戦いの経験を積むとしてもどうしたらいいのか皆目見当もつかない。詩織がいれば何とかなる——そう思うが、それでも太郎だって戦いたい。詩織にばかり迷惑をかけるのはごめんだ。
ならばここは一度退散して、体勢を整えてもう一度挑戦するというのはどうだろう。もう少し、鍛錬を重ねて、もう一度ここに挑戦する。戦いの方法はわからない。わからないことばかりというのもよくない。兵法というものは昔から存在するし、武術だって色々なものがある。太郎は色々なものを知らなすぎる。新たな世界になって現れた魔法も知らない。おそらくこの戦いは魔法を駆使していくべきだろう。きっと脅威になる。武器になる。知識を手に入れ、経験を積む。まずはそこから始めるべきだった。後悔先に立たず。しかしまだやり直すチャンスは大いにあるはずだ。
こんなことを詩織に言うのは格好が悪いけれども、言わなくてはならない。いくら不甲斐なくともそれが最善だと思うから。
と、その時。見上げた夜空から巨石がソラマチ全体を取り囲むように降り注いだ。新手の攻撃かと太郎は痛む体で身構え、詩織は太郎を支えるように臨戦態勢になったが、その巨石は太郎達とは見当違いなところへと落ちていく。
「攻撃、ではないみたいだね」
巨石群が落ち切って、揺れも収まったころ、太郎が詩織に言った。
「うん、罠かも。でも、罠でもないかも……?」詩織が小首を傾げる。
「僕、こういうのゲームで見たことあるんだけどさ」
太郎が最悪だと顔で言いながら詩織にもたれる。立っている余裕はまだない。詩織は嬉しそうに太郎を支えながら、それから顔を真面目にして、「どういうものなの?」と訊ねた。
「”結界”みたいなものなんじゃないかな。外と
太郎の顔が曇る。ちくしょう、と心の中で吐いた。後退できる道は閉ざされた。思いついた案は提案する間もなく強制的に却下せざるを得なくなった。どうしろというのだ。
やるしかない——のはわかっている。分かりきっている。けれども今の自分に力はない。詩織に頼ればいい——のもわかっている。分かりきっている。先の戦いを見ればそれは明らかだ。彼女に頼めば、きっと二つ返事で承諾してくれるだろうし、あれだけの戦闘能力を持っているのだ。ある程度の敵ならば問題なく解決してくれるだろう。でも、と思ってしまう。太郎に芽生えたプライドが邪魔をする。手に入ったのかもしれない力の存在が太郎に戦えという。どうできるのかも定かではないのに、戦えという。業だ——理性で抑えようにも獣のように叫ぶのは業だ。
あまり考えすぎるのもよくない。そう割り切って、太郎は立ち上がった。治療してくれた詩織に「ありがとう」とほほ笑んで、手を差し出す。
「どういたしまして」とその手を掴んで詩織は立ちあがった。踏ん張らないと倒れてしまいそうだったが、それくらいが今の自分にはちょうどいいと太郎は思った。今は踏ん張りどころだ。ここで踏ん張らなくてはどうしようもない。きっとここは
何度目かの決意に自分でも馬鹿だなと思いつつ、詩織を見る。
「行こう」
詩織は笑顔でうなずいた。
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