第6話


 どれほど走っただろうか。東京スカイツリーは遠い。走って向かうなどという暴挙に出た自分を馬鹿だと思い始めたのは時間にして五分ほど経ったころだった。

「当たり前か、遠いわ!」

 立ち止まって、息も絶え絶えに叫ぶ。全力疾走で坂を下っているのはまだよかった。勾配が味方してロケットダッシュさながらに速度を増してくれたのだから。そこで足がもつれなかったのもよかった。隣で詩織もにこにこと笑顔だったのもよかった。俺たちの戦いはまだこれからだ! と少年漫画のラストのような雰囲気で気分が高揚していたのもよかった。けれどもそれは続かない。持続性はない。そんなラストが太郎に待っているわけもない。坂を下り終えて、行き交う人の間を通って二人で駆けていく様はなんと青春の一ページだったか。道路を渡る際に二車線を走る車をタイミングよく避けて通ったり、途中走る二人を見て闘争心に火が着いた小型犬に追いかけられたのも楽しかった。楽しかったのだが。

「さすがに遠いね」

 困ったように詩織が言って笑った。


 笑うほかない。青葉一丁目は杉並区にある。東京スカイツリーがある場所は墨田区で、徒歩では三時間はかかる距離だ。直線距離で計算しても一七キロはある。マラソン選手でもない太郎はそんな距離を走ったことがなかった。どうやって向かおうかと考えて歩く太郎の隣で詩織は楽しそうにニコニコとしている。語尾に音符でもつきそうだ。鼻歌混じりで、とてもあの異形の塔へ向かっているようにも、危機感も感じられない。

「楽しそうだね」

 太郎が詩織にそういうと、詩織はふふんと笑って、

「小学生のころ二人で迷子になったことを思い出したの」と返した。

 ああ、と太郎が口を緩めた。そんなこともあった。太郎が小学一年生のころ、どうしてもスーパー戦隊のショーが見たくて親に掛け合ったが、両親は忙しく連れていけないと言われたのだ。それで詩織と二人で出かけることにした。親からしてみれば初めてのお使いのような感覚だったのだろう。二人で出かけ、ショーを見て、興奮冷めやらぬままあちこちを冒険するかのように歩いていたら日が暮れて、今のように二人で歩いていたのだ。とにかく世界は広いと思えるほど道が長くて、家にはたどり着けないように思えた。けれども詩織が太郎の隣でにこにことしているからそんな弱音は吐かずに二人で歩いた。歩いて歩いて、途中で駅にぶつかって、そこからは駅員の力で最寄り駅まで電車に乗れたのだ。


「そんなこともあったね」

 そのときも、こんな感じだった。世界は二人に無関心で、数多くいる人々とビルと車と、それらは同じところにあるのに別世界のように思えて、まるで旅をしている感覚だった。

「そのときもどうにかなったから、今回もどうにかなるよ」

 楽観的に詩織が言う。詩織が言うと、太郎には本当にどうにかなると思えた。不思議なものだった。

「とはいえ、さすがに遠いなあ。空でも飛べたら楽なんだけど」

 魔法の世界になったのだ。それくらいの魔法はあったりするだろう。あったりしてくれないと困る。どこか魔法というものが都合のいいものだという都合のいい解釈をしているからそう考える。しかしあったとして、自分がそれを扱えるとは限らない。体感的に自分の中に秘めたる力が巡り巡っている気はしない。

 手を握ったり開いたりしても、別段そこに力が収束する様子はない。足裏に集中しても履きならしたスニーカーの中敷きを靴下越しに踏みしめているだけだ。そもそも、気功の達人だったわけでもない一介の高校生である太郎に気を張り巡らせるなんてそんな技量もあるわけもなし。


 詩織の言葉を聴けばどうにかなるとは思うけれども、思うだけで、この状況を好転させるものがあるわけではなかった。前途多難。これ以上ないほどの詰み。

 遠くに見える東京スカイツリーは太郎たちには異様な光景であるが、周りは変わらず騒ぎ出す様子はない。

「まるでバグみたいだ」

 太郎が東京スカイツリー——魔塔ギャラルホルンを睨むように見据えて言う。

 ノイズが走るように元の東京スカイツリーに戻ってみたり、また黒々赤々とした禍々しい様相になったりと不安定に姿を変えている。膨大な電撃が蛇のようにタワー全体を螺旋に走り回って締め付けているようにも見える。

「と、そんな感想よりそれよりあそこまでどう行くかを考えなきゃだよなあ」

「ねえ、タロウ」ふと、詩織が太郎に声をかけた。

「どうしたの?」後ろから声がかかって振り向いた。

「空を飛びたいの?」

「うん、このまま走っていっても体力的にもつ気がしなくて。タクシーでダンジョンに向かうというのもなんだかこのファンタジーじみた世界観をぶち壊す感じがしてなかなか避けて通りたいし、つうかお金ないし」


 苦笑いを浮かべながら、太郎はそう言って頭をかいた。いまいち世界の危機を感じ取れていないからなんとも言い難いが、それでもあの魔塔はどう見てもこの世界にとっては異物だ。だからあれをどうにかしなくてはいけないのは分かる。わかっているから今向かっている。けれども、危機感を感じているかと言われるとそれは肯定しづらい。あまりにも周りが普通すぎて、その感じ取るべき危機感を薄めている。

 魔法が存在する世界になった、亜人種が存在する世界になった、とはいえ、太郎はまだその魔法や、亜人種がどういう生態をしているのかなどは詳しく知らない。命の危機も感じられていない。ついさっき絶望したのは両親が両親じゃなくなったからで、元いた世界と異なっていたからで、それでもやはり命の危機は感じ取れなかった。だからまだ余裕そうに困ったな、と首を傾げることが出来る。

 呑気に空でも飛べたらなあ、と子供のころに見ていた児童向けアニメの歌を思い出す。秘密道具の一つでもあればこの状況を打破できるのは間違いない。その秘密道具に勝るような魔法が存在するなら猶更だ。

「じゃあ飛んでいく?」

 詩織の言葉は望んでいたものではあったが、想定外でもあった。

 ……。


「……はい?」

 数秒の思考停止から回復したが、思わず頭の上にはてな? と疑問符が浮かぶ。

「私、飛べるよ」

「魔法ってやつ?」

「魔法ってやつ」

「なんで、今まで走ってたの?」

「タロウが楽しそうに走っているから私も一緒にと思って」

 にこり。満面の笑み。幸福感満載のまぶしいほどの笑みだった。なんで最初に言ってくれなかったんだと思いつつも、そういえば昔の詩織もそうだったと思い直した。——あのヒーローショーの帰りだって、一度は駅に向かったのだ。しかし太郎がヒーローショーの興奮が冷めやらぬ状態で楽しくなって探検したいと言い出したから、詩織は電車に乗ることをあえてやめて太郎の案に乗った。結果くたびれるまで歩くことになったが、その時もやはり詩織は今のように、にこにこと笑って太郎と歩いていた。

 そうだった、と太郎は少し笑った。

「飛べるんだね?」

「うん、お姉ちゃんに任せなさい」


 びしっとピースを作って、それから太郎の手を掴んだ。

「ちゃんと握ってて。離しちゃだめだよ?」

 言い終わるか否か、太郎の頷きはダンと地を蹴った詩織に引き上げられた結果頭が上下に動いたようなものだった。情けない声と一緒に息が漏れる。まっすぐに上昇して、そのまま空を滑空していく。原付自転車と同等の速度で空を駆ける。詩織は力持ちらしい。それともこれも魔法の効果なのだろうか。詩織にぶら下がる形で太郎は空を飛んでいた。多少肩が痛むがこれは常日頃から鍛えていなかった自分のせいだ。若干肩が外れかけているようにも思えるが、それでも走るよりはよっぽどいい。

 空から見下ろす街並みはいたって普通。しかし夜景は綺麗なものだった。住宅にも高層ビルにも陽が落ちたから明かりがついている。

「すげえ」

 何度目かの感嘆をもらして、詩織はそんな太郎をいとおしそうに見ていた。

 眼前に迫るようにある魔塔は見るからに歪であるが、近づけども何か危険なことを引き起こしている様子は見受けられない。危機を察知した住人がいる様子もなく、魔塔の近くで引き起こされている渋滞はただの帰宅ラッシュのようだ。これは深夜のテレビでたまに見る風景だ、と太郎はなんとなくそんなことを思った。


 少しずつ速度を増して滑空していく詩織にぶら下がっている太郎だが、その速度に耐えるのがやっとで徐々に頭が痛くなってくる。肩も痛い。風に吹かれて揺れる風鈴のように体がしなっている。ふと下を見て、命の危機をしょうもないところで感じた。これはやべえ、と顔が青ざめる。高度はおおよそオフィスビルの五階相当(大体二〇メートルほどの上空)で、ここで誤って手でも離したものなら確実に人生終了ジ・エンドだ。思わず体がぶるりと震えた。詩織の手を掴む太郎の手に力が入る。「んっ」と詩織が声を出した。しかし風切り音でその声は聞こえない。けれど太郎が強く握ってしまった申し訳なさからなんとなしに詩織の顔を見上げると、詩織は顔を赤らめていた。恥ずかしくなって手を離しかける。離しかけてそんなことをしたら死んでしまうとまた強く握る。なんだかぎこちない。詩織のほうもぎこちなくおもっていたのか、えい、と太郎を引き上げて、抱きしめた。

「ぶえっ」

 太郎を抱きかかえるようにして詩織は飛ぶ。お互いに抱き合うようになった姿勢は太郎にとっては格好が悪いが、詩織からしてみれば楽だったのだろう。うずくまった詩織の胸から少し顔を上げて詩織に「ごめんね」と太郎が謝った。詩織が首を横に振って、


「タロウとこうやって近づけているんだから、お姉ちゃん冥利に尽きるってものだよ」

 とほほ笑んだ。こんな姿を誰かに見られたら太郎は恥ずかしくて顔から焼け死んでしまいそうだが、詩織の方は嬉しくて仕方ないらしい。

 走るよりもよっぽど早く、目的地である魔塔に辿り着いた。

 静かに着地をして、二人は居住まいを直す。一度息を吐いて、呼吸を整えた。

「ありがとう、助かった」

「どういたしまして」

 えへへ、と詩織がはにかんでいた。そこへ、「アガガガガ」と妙な声が聞こえてきた。声の方を振り返る。一変。今までの普通とはまったく趣の変わる光景。東京スカイツリーの足元にはソラマチと名付けられた複合施設がある。そこにも当然客はいた。いたのだが、それらは客ではなくなっている。壊れたロボットのようにガタガタと体を歪に揺らし、ゾンビよろしく足を引きづって、何かを探しているように徘徊していた。その中の一体がばたりと動きを止めた。

「これは一体……」

「人、じゃなさそうだよね」


 小さな声で会話する二人の顔が険しくなる。

「うん、まるで、魔物みたいな」

 怖気付いて後ろに下がった太郎の足音がソラマチに響いた。じゃり、というコンクリートを削るようなかすかな音。けれどもその音は太郎たちの気をつかった小声よりも大きかった。その音を聞いた一体がごきごきと骨を軋ませながら音を立てた太郎の方に振り向き、跳ねた。常軌を逸した人間離れした運動性能、そして人を辞めてしまったような表情で、顎が外れんばかりに開ききった口を太郎の喉元目掛けて突き出してくる。寸でのところで尻もちをついて図らずも回避した。太郎の元立っていたところでガチンと嚙み砕いた音がする。

「え」

 太郎が呆然とを見る。服装こそ今時の恰好ではあるが、目は赤く、瞳孔の開閉などわからない。ただ、確実に

 カチカチと歯を鳴らしながらそれは太郎に飛びかかろうと近づいてくる。その行動が音を立てて、それを聞いたほかのそれらもまた太郎たちに寄ってくる。

「走ってきた方がよかったかな」

 気を紛らわそうと太郎が軽口をたたく。


「うーん、どうだろうねえ」

 呑気に答える詩織は肝が据わっているようだ。それともこの状況をうまく呑み込めていないのだろうか。

 太郎は、さっき詩織を守ると言ったのだ。いつまでも尻もちをついているわけにもいかない。すぐに立ち上がって、映画で見たように構えてみる。左手を顔前に、右手をそのすぐ後ろに。軽くステップを踏むように両足を肩幅ほどに開いて前後に動いてみる。なんとなくこれで戦えるように思えた。敵が近づいてきたら、この右手を思い切り振り抜いて奴の顎を撃ち抜くのだ。

 いいぜいいぜどこからでもかかってこい。気持ちだけは負けないぜ。

 そう思いながらちらと周りを見て、その気持ちは簡単に負けそうになった。

 数がおかしい。二対いくつだ、この状況は。気付けば太郎と詩織の周りを取り囲むようにしているそれらの数はゆうに三桁を超えている。集まり始めたそれらはじりじりと太郎たちに近づいてくる。いつでも襲い掛かる準備は万全で、あとはタイミングの問題のようだ。

「なに、ソラマチってそんなに人気なんですかね」

 引きつった顔で太郎がそう独りごちる。


「そりゃデートスポットだし、家族でも楽しめるだろうし、人気なんじゃないかあ。私もタロウと行きたいなと思っていたもの」

「なるほど」

 ていうか。

「ここのお客さんみんなが敵になっているってことでいいのかな」

「多分。なんかこの辺りの魔法感覚がおかしいことになっているから、そのせいかもね」

 詩織はおそらくだけど、と解説をしてくれた。なるほどともう一度頷いて、太郎は鼻から深く息を吐きだした。

「この人たちを倒して、スカイツリーに行かないといけないわけだ」

「うん、私たちのことを気にせずにいてくれたらいいんだけれど、どうやらそういうわけでもないみたいだし、ほら、さっきタロウのこと襲おうとした人がすごくタロウのことを睨んでいるもの」

「うわ……まじだ」

 それは最早獣の眼光だった。

「もしかしてタロウの知り合い? だったらお姉ちゃんとして私もタロウにお話があるんだけど」

「いやいやこの状況でそういう冗談は笑えないし余裕がありません! つうかこんな危ない人知りません!」


 つんけんとした態度で腕を組み、不服そうな詩織に泣き言のように太郎が叫ぶ。

「ならいいけど……でも、うーん。お姉ちゃん的にはさっきの行動には少しいらっと来たかな」

 詩織が半円を描くように右足を擦らせた。そして構える。

「タロウは私の主人公タロウだから。狙ったことも襲ったことも許すわけにはいかないよ」

 ぐっと腰を低くして、折り曲げた膝のばねを利用して詩織は跳躍した。ついさっき太郎を襲った顔の崩れた女性擬きに瞬時に接近するとその勢いを殺さぬまま顎を右ひざで撃ち抜いた。それから後ろへよろけたその顔を両手でつかむと空中で前転して、視界の前方でじりじりと歩み寄るそれら目掛けて叩きつけた。数体がそれに耐え切れずに後方に吹き飛ぶ。

 複合施設としてにぎやかであるはずの一帯が魔物たちの奇声雑言によって騒がしくなった。

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