第5話


「タロウ」

 背後から遠慮して呼ばれた。今にも零れ落ちそうな涙を学ランの袖で強引に拭って、顔を上げずに息を整えた。

「タロウ……」

「いやあ、ちょっとびっくりしちゃったよ! 可能性としてはある話だったよね! ここ異世界だし、変わりない同じ地球のように見えるけれど、どこかが違うんだもんね! これだったら詩織姉ちゃんの誘いに乗って詩織姉ちゃんの家に行ったほうがよかったかなあ!」

 なるべく、明るく努めて言った。けれども詩織には余計痛々しく見えた。

 異世界、と言って、詩織が理解できるかもわからなかったけれども、今の太郎にそんな気遣いをする余裕はなかった。今にも崩れて消えてしまいそうな自分を留めるために、無理して無駄な言葉を紡いだ。

「それにしてもなるほどなあ、次郎かあ。あの子は僕の弟になったりとかする世界があったってことなのかなあ。ていうかあの人の言っていることもよくわからなかったんだけど、異世界って異なる世界ってだけで、別に魔法があったりとかするようなファンタジーな世界だけじゃないのかもしれないよね! いやあ、先入観っていけないなあ!」


 あはは、と笑ってみるが、自分でも驚くほど渇いていた。

 あはは、と笑ってみるが、自分でも驚くほど笑えなかった。

 あはは、と笑ってみるが、自分でも驚くほど声にならなかった。

 あはは、と笑ってみるが、自分でも驚くほど涙があふれてきた。

 あはは、と笑ったはずが、どうしてか、嗚咽が代わりに出てきた。

「僕は、僕はどこに行けばいいの。家もなかった、家族もいなかった、神を殺せだの主人公だの、そんなこと言われても、わけわかんない。わけわかんないよ。なんで? もっと、主人公って恵まれてるんじゃないの。もっとさ、なんか、家族がすげえとか、知り合いがとんでもないとか、すさまじい才能を秘めてて、とかさ。もっと、もっとさ。なんで、僕は、こんなに、弱いの。これじゃあ、何も変わってない。主人公になったって、僕は、僕のままで、それどころか、少しだけでもあったはずの、当たり前のものさえ無くなった。僕は、僕は……」

 嗚咽交じりにそう言った。新しく始まったはずの世界で主人公となったはずなのに、チュートリアルに入る前に転んでしまった。武器だとか、魔法だとか、そういうある種夢のような経験値を獲得する前に大きな痛手を受けてしまった。


 ベンチでうずくまった太郎の前に詩織は立った。悲痛な面持ちで太郎を見て、詩織は膝を曲げて太郎を抱きしめた。

「泣いていいよ。もっと泣いていいんだよ」

 抱きしめて太郎の耳元で優しく囁いた。

「私がタロウの泣き顔を隠しているから、大丈夫だよ」

 帰宅ラッシュの時刻を過ぎたからとは言え、駅前にはまだ人はいる。閑静な住宅街でもないから、人の往来はあった。それでも、太郎は泣いた。そんなこと、気にも留められなかった。

「母さんが、母さんじゃなかった! 覚えててくれると思ったのに、母さんは覚えてくれていなかった! 父さんも僕のこと見ても何もわからなかった! 君の両親から、って僕の両親は父さんと母さんなのに! 次郎って誰だよ、僕は太郎だ……!」

 詩織にしがみつくように腕を回して、離さないように、その支えがなくならないようにきつくつなぎとめた。詩織は嫌な顔一つせずに太郎をただただ抱きしめる。その姿は姉と弟のようにも見えたし、母と息子のようにも見えた。

 ひとしきり泣いて、落ち着きを取り戻してきたころ、ようやく太郎に年相応の理性が戻ってきた。この体勢はまずい。顔が胸に埋もれていて、それどころか離さないように抱きしめている。そしてこの場所はまずい。駅前という人の往来のある、人の目がある場所でバカップルよろしく抱き合っているというのは、恥ずかしいことこの上ない。それに何より、もう高校生だというのに女の子の前でびいびいと泣きじゃくってしまった。一瞬で太郎の顔が茹蛸よりも赤くなった。頬が燃えているように熱く感じる。


「ご、ごめん、詩織姉ちゃん。もう、もう大丈夫」

 小さく言ったが、

「だめ、もう少し」

 と今度は詩織が太郎を抱きしめて離そうとしない。

「涙とか鼻水とか涎とかで汚くなったと思うし」

「それはタロウが私の前で泣いた記念だからいいの」

 どういう記念だよ。小学生のころに国語の教科書で読んだ詩のようなことを言われた。

 しかたなしに太郎はそのまま詩織に抱き着いていた。こうしていると落ち着くのも事実だった。他の誰もが太郎のことを忘れていても、詩織だけは忘れていない。その詩織のことを、感じていられるとどこからか元気が湧いてきた。子供のような考えだけれども、今はそれでもいい。

「タロウの全部が私は好きだから、いいの。これは記念に取っておかなくちゃ」

「それはやめて。洗濯して」

 さすがにかぴかぴになった制服を大切に保管されているのは、なんというか、よくない。ましてやそれが太郎の鼻水やら涙やら涎なんて考えるだけでぞっとする。


 詩織が、ふふっと笑って、ゆっくりと太郎に回していた腕を放していった。

「もう大丈夫?」

 街灯から少し外れたベンチ。その前で詩織が太郎にそう尋ねる。太郎は赤い目を細めてうなずいた。

「ほんとうにごめんね。タロウが心配だったから家にまっすぐ連れていきたかったの。でも、子供じゃないんだから、そんな簡単にうちに来るわけなかったんだよね」

「……詩織姉ちゃんは、分かってたんだ?」

 伏し目がちに詩織は小さくうなずいた。

「タロウに傷ついてほしくなかったから」

 太郎が鼻から息を長く吐き出した。

「タロウ、怒ってる?」

「なんで?」

「だって、嘘ついたようなものでしょ」

「どこが? 心配してくれたんでしょ? 詩織姉ちゃんは僕が傷つかないように気遣ってくれたんでしょ? それに、嘘はついてないじゃん。詩織姉ちゃんは、僕に詩織姉ちゃんの家に行こうって、言ってただけで。それに、きっと詩織姉ちゃんの家に行っても行かなくても、いつかはこうなったんだ。早いうちに僕の家族はもういない、って分かっただけでも良かったのかもしれない。もっと後でわかったら、こんな風に泣くだけじゃ済まなかったかもしれないし」


 太郎は泣いた後だから少し咽ながら言った。それから深呼吸して、

「あと、慰めてくれたしさ」

 頬を赤くしてつぶやいた。気恥ずかしい。どうもこういうのは苦手だ。素直に言えども、まっすぐに詩織の眼を見ることが出来ない。

「だから、その。ありがと」

 詩織は目を見開いて、それから屈託のない笑顔で太郎のことを見ていた。

「どういたしまして」

 詩織がそう言って太郎の手を掴んだ。

「じゃあ帰ろう? 私たちの家に」

「いやでも悪いよ、急に詩織姉ちゃんの家に押しかけるなんて」

 立ち上がった太郎はその場で立ち止まる。

「言ったでしょ、”私たち”の家って。もうタロウの部屋もあるんだから」

「へ?」

「ずっと待ってたんだよ。タロウがここに戻ってくるの」

「ずっと、って、せいぜい一、二時間だよ?」

「ずっとはずっと。ずっとなの」

 よくわからない。それほど待ち遠しかったということだろうか。


「とにかく帰ろう。帰って、おいしいごはん食べよう? 私料理すごく上手なんだから」

 なし崩しに太郎は詩織に手を引かれて駅前から歩き出した。目の前を歩く詩織は上機嫌で、幸せそうだ。だったら、それでもいいかもしれないと太郎は思った。ついさっき、自分には家族がいないとわかった。けれど、詩織がいる。覚えていてくれた詩織がいる。だったら、それでもいい。一人じゃない。孤独じゃない。あの空間で謎の男が言っていたことは一つ間違っていた。いい方向に誤っていた。

 駅前の商店街には夕食時を過ぎたとはいえ、まだ二〇時あたりだからか、店も閉まっておらず、客と思しき人たちも多くいた。家族連れだったり、仕事帰りの人だったり、様々いたが、一見今までと差異はないように思える。しかし、たまに、あれ、この人は人間か? と思ってしまうような姿をした者がいた。獣耳があったり、尻尾があったり、それどころか覆面のように顔が人ではない。

「え、獣人?」

 思わず声が出た。前を行く詩織が振り返って、

「日本はほかの国と比較的差別も少なくて生活しやすいんだって。だから結構いるんだよ。身体能力とか、普通の人に比べてすごく高いからいろんな仕事で重宝されてる、ってお父様がこないだ話してたよ」


 と説明をしてくれた。どうやら獣人は一般的らしい。とすると、この世界はどうやら異世界と同調をした結果、歴史的な背景はずいぶんと改変されていると考えたほうがいいのかもしれない。

「すげえ」

 太郎が口を開けて彼らを見ていた。まるでゲームや漫画の世界の住人だ。

「私も初めて見たときはびっくりしたけれど、最近はもう見慣れたかな」

 あっけからんと言われた。

「実はだいぶ変わってるんだ。気付いてないだけで」

 自分に言い聞かせるように太郎はつぶやいた。

 帰路の途中。静かになった歩道を歩きながら太郎は詩織に尋ねた。

「ねえ詩織姉ちゃん」

「なに?」詩織が太郎を見上げる。まつげが長い。そして濃い。はっきりとしている目元は化粧要らずに思える。

「詩織姉ちゃんは、僕のこと、どこまで知ってるの」

 ずっと疑問だった。学校で目覚めたとき、目の前に詩織がいたのはたまたまかもしれないと思っていた。けれども、自分の両親が太郎のことを覚えていなかった——もしくはそこに太郎の存在がなかった——ことを知っていて、それを回避しようとしていた。それにさっきの言葉。——ずっと待っていたというのは、どこか引っかかるものがある。もしかしたら、詩織は太郎の置かれている状況をある程度は理解できているのではないかと思ったのだ。


 詩織は足を止めずにうーん、と唸った。

「タロウが私の主人公で、この世界が元の世界とは変わってしまったことくらいかな」

「じゃあ、変わった、ってことは分かるんだ」

「うん。でも、それだけ。タロウがこれからどうしたらいいのかは私にもわからない」

「そっか……」

「ごめんね」

「別に謝ることじゃないよ」

 そう、それは詩織が謝ることではないし、そもそも謝ることではないのだ。むしろ、感謝したい。なぜかはわからないけれども、詩織は太郎と同じように世界が改変されたことに気づいている。そのことが分かっただけでもまた幾分か太郎の心持は改善された。仮に詩織がその変化に気づいていなかったとしても、それでも、太郎のことを覚えてくれていた。それだけで充分だったのだから。

 詩織が少し駆け出して、太郎から二、三歩ほどのところで振り返った。太郎が小首を傾げて詩織を見る。詩織は決意を込めた眼差しで太郎を見た。


「私、タロウのこと支えるからね。どんなにタロウがつらい思いをしても、ずっとそばにいるから。だからタロウは心配しなくていいよ。タロウのことを、私がずっと守るから」

 心臓を矢で貫かれたような衝撃だった。でも、守るというのはちょっと、体が悪い。太郎は気弱でネガティヴな男であるが、それでもやっぱり男なのだ。

「むしろ、僕が詩織姉ちゃんを守るようになるよ。主人公なんでしょ、僕。だったら、強くなってヒロインのことは守ってみせなくちゃ」

 太郎が胸を張った。

「そうそう、その調子!」

 ふふ、と詩織が笑って、また太郎の手を取る。そのまま駆け出して、数分。ぐらりと揺れが来た。地震のようだ。地鳴りが辺りに木霊する。ばきばきと街路樹の根が折れたような音がした。とっさに詩織をかばうように抱いて、その場にしゃがみ込む。これほど大きな地震を経験したことがないが、下手に動くのは危険だろう。けれども、足元のアスファルトもきしみを上げて、亀裂が生じ始めていた。

「なれば第一の関門、開始と行こう。その手で、そのヒロインとやらを守ってみせるがいい」


 太郎の耳元で声がした。

「魔法都市——東京。魔塔ギャラルホルン——ここに誕生だ。めでたいな、主人公」声がぐるりと太郎の周りをまわる。

「ようやくその能力ちからを発揮できるかもしれんぞ」

 地を這うような笑い声が太郎を撫でていく。大蛇のように地を這う声は揺れとともに地下を直進し、遠く向こう、青く光る塔——東京スカイツリーまでたどり着いた。突然変異を引き起こすそれは、一様にスカイツリーを変貌させ、赤と黒の巨大な螺旋城を作り上げる。

魔笛ふえが鳴る。神殺しの魔笛が鳴る。神々の黄昏に——この世の永久おわりに——万雷の喝采を——万炎の喝采を——万氷の喝采を——万象の喝采を——さあ、さあ、さあ! 今、ようやく始まる。この世界で生きる総ての生命にユグドラシルは一つとあって、二つとない。どの世界が生きる、どの世界が潰える、どの世界が、先にゆく」

 巨大なスピーカーを経由したように声が響いた。しかしそれはどうも太郎と詩織にしか聞こえていないようで、周りで騒動が起きる気配はない。それどころか地震があったことすらわかっていないように、世間は何の変哲もなく日常を過ごしている。遠く、少し小高くなった太郎達のいる道路。そこから眼下を見ても車の往来は変哲なくあり、遜色なくビル群は明かりをつけたままだ。住宅だってそう。太郎たちの周りの家々で何か騒ぎ立てる様子はない。


 どうなっている。詩織と目を合わせる。詩織も疑問に思っているらしい。

「今の、聞こえた?」

「もちろん。でも私たち以外は聞こえていないみたいだね」

 太郎は頷いた。地殻変動でも起きたような——なるほどと太郎は思った。

「これが異世界同調なんだ」

 太郎が誰ともなくつぶやいた。

「もしかして詩織姉ちゃんが前に世界が変わった感覚があったときも、こんな感じだった?」

 詩織は頷いた。

「ほかの誰もがわからない。気付いたら世界は変わっている。世界は変わっているのに、自分も変わっているのに、それが当たり前に思っている。そういうことなんだ」

「どうしたらいいんだろう」

 詩織の問いかけに太郎は押し黙った。

「偉い人に掛け合おうにもそもそもそんなの無理だろうし。ていうか、そっか。僕が主人公か。主人公がお偉い人に掛け合って、それで万事解決なんて話、聞いたことないや。そんな英雄譚、詩織姉ちゃんは知ってる?」


 詩織は苦笑いして首を横に振った。

「だよね」と太郎は頭をかいた。

「ごめんね、私はそんなお話知らないかな」

「となると、何が何でもあのスカイツリーに行って、あれをどうにかしなくちゃいけないんだ」

 太郎が小さくうなった。

 とはいっても、太郎の能力はなんだろうか。太郎はまだこの世界に戻ってきたばかりで、自身の能力がどんなものかもわかっていない。それどころか、些細なことで傷ついてしまうような繊細な年頃だ。ついさっきだって、それでめそめそと泣いてしまったのだから。

「ゲームとかで言えば、僕は今レベルゼロでしょ? つまり戦闘能力は皆無——でもないか。経験値をためるために多少は戦えるはずだ。でも、戦えるのかな」

「やってみなきゃわからない、ってやつだね」

 太郎は詩織を見てうなずいた。

「さっき守るって言ったばっかりだしね。強くなる、って言ったばかりだ。やってみなきゃ」

 そうだ、と太郎は自分に言って聞かせる。変わる好機だ。ここからおめおめと退散して、どこかでのんべんだらりと過ごす主人公はほかの誰かに任せればいい。


 ただ——。

「悪いんだけど、詩織姉ちゃんについてきてもらってもいいかな」

 一人は怖い。女の子を戦地に連れて行くなんて恰好の悪いことこの上ないが、それでも怖いものは怖い。

「何言ってるの。太郎がだめって言っても着いていくつもりだったんだけどな」

 心強い。その言葉が太郎の背を押してくれる。

「ありがと」

 詩織が微笑む。心強い。体に力がみなぎってくる。どんなふうにそれを発散すればいいのか、とか、そんなことはわからないけれど、どうにかできる気がした。知らないから、と言われればそこまでのこの自信を無くさないように、太郎は踏み出した。

「行こう」

 太郎が詩織に手を差し出す。詩織が太郎の手を掴む。そして二人は目に見えて異常性の塊となった東京スカイツリー——魔塔ギャラルホルンへ駆け出した。


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