第4話


 誰にともなく呟いた太郎の嘆息を詩織が聞かなかったふりをして、二人は家路についた。道すがら、太郎があたりをきょろきょろとせわしなく見渡していたが、特筆すべき変化は見られない。学校までの道のりは変わりない。舗装された道路があって、小高くなった丘の上に立つ校舎まで続いている。その両端に広がる住宅街は一見ただの一軒家であるし、マンション、アパートであった。駅前のコンビニも変わりなく、スーツ姿の大人が足早に駆け込んでいく。ガラスの向こうでレジに立つ制服姿の青年はいつも通りけだるげだ。

 ただ。

 ただしかし。やはりあれだけ設備の様変わりした高校の校舎だけは、太郎の眼からみてもずいぶんと変貌を遂げていた。文武両道を掲げていただけあって、もともと校舎は東棟・西棟の二つがあり、校庭(屋外運動場)だって運動部が総出で使えるほどだったし、武道館、体育館、と各運動部のための設備の充足具合は日本でも屈指のものだった。それだというのに、校舎から出て見た景色は最早学校の域を超えたものだった。さも西洋の城のように豪奢になった第一校舎(東棟)は見るからに堅牢なつくりになっていて、文字通り城と呼んでも相違ない。第一校舎の正面にあった屋外運動場は四方を十メートルばかりのフェンスで囲われており、見方を変えれば刑務所のようにも思える。そこで放課後の部活動に汗を流している生徒たちの動きを見ると、空を飛んでいるようにも見えたし、何か球体を飛ばしているのも見えた。


 屋内体育館は一目では変わった様子は見受けられないが、中に入って見ればまたとんでもない変化がなされているのかもしれない。

 以前の世界にあったスポーツのすべてがなくなったとは思えないが、新たに登場したスポーツがあるのは見て明らかだった。

 魔法という概念に対しての様々な想像イメージがあの校舎を造ったのだろう。というか国立だし、国が建てたわけだし、となると日本という国自体がだいぶ西洋風になっているのだろうか、と物思いにふける。太郎は変わってしまった世界について肌で感じようとしていた。

 していたのだが、学校の敷地を出て、通学路を歩いていても、特に何も変わった様子はなく拍子抜けだった。

「意外と、魔法があっても前の普通のままなんだろうか」

 駅のホームで電車を待ちながらそんなことをつぶやいた。

 電子マネーで電車に乗れることも変わっていない。

 ホームで電車を待つ人々も、別段変わった様子はない。スマホをもって、新聞をもって、腕時計を見て時間を確認して、談笑をして、各々に待っている。またしても拍子抜けだ。異世界になったというから、魔法があるというから、どれほどの変貌を遂げ、世界はどれほど危険なものになっているのだろうと不安を覚えていたけれども、それは杞憂だった。


 詩織もいたことも大きい。彼女は太郎のことを覚えていてくれた。あの謎の男のいうことが全て正しいわけではなかったのだ。ともすれば、まだ自分を覚えてくれている人だって存在しているに違いない。これから帰る我が家、そこに住まう両親ともなれば特に。彼らがあって自分がいるのだ。覚えていないわけがない。

 詩織がタロウの袖を引っ張った。詩織を見ると、伏し目ぎみに、

「今日は、家に来ない?」と言った。

 恥じらいを含んだように聞こえた。

 おいおい、これはまさか、あまりにも早すぎないではないでしょうかと太郎の心臓が強く脈打ち始めた。数年ぶりに再会してお互いに燃え上がるには申し分のない燃料は炉心に投下されている。それに、学校での詩織のあの告白。まっすぐで、自然たる告白。彼女は太郎に好意を向けている。しかしどうしたらいい。答えていいものか。数年は会っていなかったのだ。お互いに成長して、お互いに変わった部分だって多くあるに違いない。詩織を見れば、成長している。すらりと伸びた背は一六〇センチは超えているだろう。人並に背の伸びた太郎の鼻先に詩織の頭頂部はある。そこから見下ろしていけば、豊かになった胸もあった。制服を膨張させて、そこにあるぞ、と主張している。喉が自然と鳴った。え、これは、あの、と一人心の中で言葉が右往左往する。同時に太郎の両目も泳いだ。膝上で止まったスカートの中からは陶磁器のようにきめ細やかな足が伸びて、腰から足裏までのその曲線美は一目で素晴らしいものだとわかる。胸が痛いほどに高鳴った。しかし、しかしだと太郎は目を固く瞑り、「今日は、家に帰るよ」と答えた。


 答えて、馬鹿野郎と自分を罵った。ヘタレめ、と続けた。それでも、まだ早い。何が早いかはわからない。でも、まだその時ではない。何がどの時なのかもわからないが、今日は家に帰って、それで明日また会おう。そうしよう。

 太郎の考えを確固たるものにするように、地下鉄がホームに滑り込んできた。無音だった。ブレーキの音はない。それで太郎は冷静になれた。これは魔法か。はたまた近未来的な科学の成長か。いずれにしても、これは以前とは違う。また一つ、変わったものを見つけることができた。機械的な音を立てて開いたドアから車内に入り、向こうの閉じたドアのほうに向かう。壁にもたれて、詩織と向き合った。詩織はまだ目を伏せている。気まずいことこの上ない。そりゃそうだ、乙女の提案を無碍にしてしまったのだ。太郎は目をあちらこちらにむけては、頬を掻いた。空気を濁すように、

「詩織姉ちゃんは、どこまで乗るの?」

 と訊ねた。

「タロウと同じ青葉一丁目までだよ」

「そうなんだ。奇遇だね」

「うん」


 …………。

 ……………………。

 気まずい! 会話が続かない! 地下鉄は静かで、周りの人々の会話が多少の緩衝材にはなったが、二人の間の空気を取り持つことはなかった。

 学校がある青葉ヶ丘駅から青葉一丁目までは五駅。時間にしておよそ一〇分ほど。今一駅目を通過した。二駅目まではおよそ二分。いつもならあっという間に思えていたのに、時間が間延びしているように思えてならない。どうしよう。どうしよう。どうしよう。

 太郎が居たたまれず、車内をぐるりと見渡す。中吊り広告もある。荷物置きの壁にも広告がある。滋養強壮にはこの薬、とあった。見たことのないものだ。中吊り広告には今週末に発売される週刊誌の記事の見出しがあって、『基礎四大魔素、ついに人工的に生成可能か』と書いてあった。魔法っぽい。けれども見出しだけでは何もわからない。視線をもとに戻して、詩織を見る。

 気まずいけれども、やはり可愛らしい。今は伏し目がちだが、それもはかなげで守りたいと思える。凛として、強い印象を持ったから今のしおらしい様子がなおのことそう思わせているのかもしれない。

 あと三駅。


 あー、と声もなく口を開いて、太郎は頭に手をやった。手持無沙汰で何かしら動かしていないと消えてしまいそうだった。しかし、そのあとの言葉が続かない。鼻から息を吸い込んで、胸に押し込む。どうしよう。

 あと二駅。

 乗客の乗降があった。時刻は帰宅ラッシュに噛み合ったらしく、思いのほか乗客が多い。ぐいぐいと押されてしまう。ふと、太郎は詩織の前に立って、壁になった。がしがしと鞄が腰に当たる。金具が痛い。そんな鞄持ち込むな、と言いたくなる。言いがかりこの上ないから口には出さない。

「ごめん、苦しくない?」

 詩織の顔の横に手を伸ばして、ドアに手をあて、つっかえ棒にした。小さく詩織を気遣う。詩織は太郎の顔を見上げた。目が合う。数分振りに目が合って、息が止まった。詩織は、

「ありがとう」と言ってまた目を伏せた。けれども耳が紅潮していた。太郎も目をそらして、頬が熱くなるのを感じた。

 あと一駅。また乗客率が増す。確実に一〇〇パーセントを超えているに違いない。二人の距離がさらに近づいて、密着した。太郎の胸下部に柔らかい感触がある。やべえ、と思った。落ち着け、落ち着け太郎。


「ごめん」とつぶやく。「ううん、ありがとね」と詩織が言った。

 二人の距離は物理的に近づいた。が、先ほどまでとはまた毛色の違う気まずさがある。あと一駅。あと一駅だ。ものの二分。もしかするともっと早い。密着しているから太郎の心臓の爆音が聞こえているかもしれないと思うとなおのこと頬が熱くなる。

 太郎の知らない地下鉄は静かに地を滑るように走る。だから揺れるということはない。が、乗客の多さで身動きが取れない。ただただそのままその場に立ち続ける。それが余計に太郎の神経を胸下部に集中させる。男だから仕方ない。仕方ないが、今は仕方なくない。ありがたいが、ありがたくて仕方ないが、今は気まずさをどうにかするためにもこの雑念は邪魔だった。静かに深呼吸をする。詩織の耳はまだ赤い。ようやく、青葉一丁目に到着するアナウンスが流れた。安堵した。天を仰いで耐えた自分に心の中でガッツポーズをした。情けなくも思った。

 ドアが開いて、ぞろぞろと乗客が降りていく。が、その人数は少なく、目の前には今も人の壁がある。詩織の手を取って、「すみません、降ります」と声をかけながら人の間を縫っていく。ようやく降りて、一息ついた。それから、握っていた手の感触を意識して、ばっと手を離した。

「ご、ごめん!」

「謝りどおしだね」詩織が苦笑いした。


「いや、その、だって、迷惑だったかなあと思って」

「タロウのすることに迷惑なんて、私は思わないよ」

 詩織が笑顔で言う。心臓がいくつあっても足りないと太郎は思った。落ち着いて、駅を出たとき、詩織が立ち止まった。隣で止まって、太郎が「どうしたの?」と聞いた。

「やっぱり、家に来ない?」

 またしても、またしてもそう言われた。覚悟を決めるべきか。何の覚悟かはよくわからないけれど、彼女の家に行くということは、友達の少ない(いないとは言いたくない)太郎にとっては敷居ハードルの高い行動だ。ましてや同性ではなく、異性の家だ。

「急に行ったら、詩織姉ちゃんの家族もびっくりするだろうしさ!」

 そう言って、頭を掻いた。実際、急に男を連れ帰ってきたら家族はびっくりするに相違ない。もし娘想いの父親がいるならばなお危険だ。少し背筋に悪寒を感じて、太郎は何度か首を縦に振った。

 少しの間詩織は思案して、「じゃあ、タロウの家までついていっていい?」と言った。

 へ、と太郎が間抜けな声を出した。

「見送らせて」と言われた。

 それくらいならいいか、と太郎は承諾した。


 駅から家まで見慣れた道を歩く。歩幅を詩織に合わせて、いつもよりゆっくりと。駅から家まで徒歩一〇分と比較的近いところに山田家はある。道すがら、二人の間に言葉はなかった。お互いに何を話そうか考えて、慮っていたからというのもある。何を話そうかと一語めを口にする前に自宅についた。変化は見あたらない。少し安心した。

 玄関の前で太郎が、

「じゃあ、ここで」と手を挙げた。

「また詩織姉ちゃんに会えて嬉しかった」

「私も、タロウに会えて嬉しかったよ」

 静寂。

「じゃあ、またね」

 そう言って太郎が鍵を取り出そうと制服のポケットを手探りしたがない。落としてしまったらしい。太郎が仕方なしにインターホンを鳴らす。

 家の中には明かりが灯っていて、家族のうちだれかはいるらしい。おそらく夕食時だから母親である郁美はいるだろう。早く出てこないかな、とドアから離れて待つ。解錠される音がして、太郎は「ただいま」と声を上げた。

 しかし、ドアが開いて、中から出てきた郁美は太郎をじっと見て、「どちら様でしょうか?」と訝し気に訊ねてきたのだった。


 想定外の反応に太郎は硬直した。何言ってんだ。

「なんの冗談?」

 太郎の苦笑いを郁美は困ったように見る。

「家を間違えてませんか? 夜も遅くなるから早く帰らないと親御さんも心配しちゃうよ」

 諭すように郁美は言う。何言ってんだ。

「いや、え?」

「もしかして、ここら辺に最近越してきたのかしら? 似たような家が多いからね。住所は分かる?」

 郁美が言う。その顔はよく知っている母の顔だ。けれども、冗談じみてもいないし、本当に太郎のことを知らずに心配しているようだった。

「あの、母さん?」

 家の中から「どーしたのー」と間の抜けた子供の声がした。

 郁美が一度家の中を振り返って、「ちょっとお客さん。お皿洗えるー?」と声の主に返す。

 太郎は不思議に思った。一人っ子のはずだ。妹も弟もいないはずだ。いないはずだ。自分だけのはずだ。他には子供はいないはずだ。ずっと、育てられたはずだ。リビングにはゲーム機がいくつかあって、それは一日三時間までなら許容されて、たまに立つキッチンは郁美の願いで広めの間取りになっていて、ダイニングキッチンになっているから椅子に座って、そこから郁美が料理しているのを見ていて、トイレは洗浄機付きで、両親の部屋はそれぞれ一階にあって、父親の書斎にはよくわからない小難しい本が多くあって読むとめまいがしそうで、でも本のにおいが充満した部屋は居心地がよくて、母親の部屋は仕事場にもなっていて、そこで翻訳の仕事をしていて、自分にも部屋があって、小学生のころからそこで過ごすようになって、野球用具やバスケットボールやらいろんなものがクローゼットにしまわれていたはずだ。


 とてとてと走ってきた子供を見て、言葉が詰まった。男の子だ。

「次郎、お皿は?」

「あらったー」とブイサインを見せて、「だれ?」と郁美に尋ねた。

「迷子みたいなの」

「お兄ちゃんまいごなの? オレが家までつれていく?」

「いいからお部屋行って宿題やりなさい。先生に算数の宿題出されてたでしょ」

「あとでやる」「いまやりなさい」「あとで」「いま」

 そんな二人のやり取りの後ろから見慣れた父——和郎がやってきた。顎に薄く髭を蓄えて、銀縁の眼鏡をかけている。小さいころから見てきた顔だ。

「どうしたんだ」

 あの低い、歳の割に威厳のある声で郁美に尋ねる。郁美は次郎に言ったことを繰り返した。

「そうか。春とはいえ、夜はまだ少し寒い。君の両親から連絡が来るまでうちに上がって待っていたらどうだい?」

 脳天をこれでもかと鈍器でぶん殴られたような感覚だった。頭が上がらない。どこかで父親なら、と期待していた。母親が忘れていても父親なら、父親が忘れていても母親なら、と。ところが実際はどうだ。どちらも覚えてはいない。というより、その家に、山田太郎という人間がいた痕跡はない。もうだめだ。


 無造作に突っ込んだポケットにスマホを見つけて、強く掴んで取り出した。それから、上ずった声で、

「あ、すみません、親から連絡が来ました! ごめんなさい、間違えて迷惑かけました! あ、あの、すみませんほんと! 失礼しました!」

 と畳みかけるように言って、勢いよく頭を下げて、そのまま顔を上げずに来た道を駆けだした。

 どういうことだ。あの家は自分の家だった。間違えようがない。一五年はそこで過ごしたのだ。間違いようがない。異世界になったと言っても大まかに町は変わっていなかった。家屋の変化も特になかった。入学した学校は変わっていたけれど、立地は変わっていなかった。それに詩織は自分のことを覚えてくれていた。だから自分の家族は、両親は——覚えてくれていると思っていたのに。それが当たり前だと思っていたのに。家は確かにそこにあった。そこにあって、何も変わっていなかった。なのに、家族は変わっていた。見知った顔なのに、見飽きるほど見てきた顔なのに、他人だった。

 太郎はひた走って、駅までたどり着いた。辿り着いて、どこに行けばいいのかわからなくて、途方に暮れた。駅前のベンチに座って頭を抱える。傍から見たら変人の類だろう。何をそこまで悩んでいるのだろうと思われてもおかしくない。けれどもそこまで悩むほどのことが起きたのだ。親に知らぬ顔をされるなんて思ってもみなかった。そしてそれが、こんなにも心を傷つけるものだとも知らなかった。


 たしかにここは異世界だ。詩織に会って、舞い上がっていたけれど、ここは孤独な世界だ。今はもう近くに詩織はいない。どうしたらいいのだ。お金もなければ、家もない。もしかしたら、家族もないのだから自分は本当は存在していないのかもしれない。

 ——僕は、山田太郎なのか?

 ——僕は本当に存在しているのか?

 前途多難。起承転結の起。起こり、踏み出した足はあっけなく止まった。

 なんと弱い。弱すぎる。頭も足りな過ぎた。思考した気でしていなかった。

 これからどうしたらいい。どうしたら、先に進めるのだ。駅まで戻って、頭の片隅にある神を殺せという謎の男からの使命に、それより前に自分が死にそうだと毒を吐いた。そもそも一般人で中の下にある自分がそんなことをするなんて到底無理な話だったのだ。主人公になれると言われたって、それで心躍って駆け出したって、ほれみろどうした、今の自分は駅のベンチでグロッキーに額を膝につけている。学校で、これからどうしたらいいのだろう、とつぶやいてからまだ時間はそう経っていない。というのにとんでもない問題が起きてしまった。


 自分を産んで育ててくれた人は他人になっていた。間違いなく孤独だ。あっという間に謎の男の言ったことが伏線にもならずに回収されていく。わずかな時間だった。わずかな時間だったからこそ、さらにつらい。傷が深い。そんなわけないと楽観的に考えていたのが間違いだった。そしてそれが心に盾を構えさせなかった。

 剣とか魔法とか、物理的な暴力的な痛みが伴うのではなく、精神的な痛み。異世界同調を果たした世界で初めて受けた傷は親だった人からの心無い言葉。他人行儀な心遣い。求めていた言葉とはまるで違う言葉で、太郎の心は切り裂かれていた。

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