第一章 魔法都市東京
第3話「目覚め、そして再会」
「タロウ? タロウ?」
何度か名前を呼ばれて意識が覚醒した。机に突っ伏して寝ていたらしい。机に寝ていたということはここは学校か自室だろうが、自室に入ってくる女性は母親である
窓の外から橙色の夕日が入って教室を照らしている。おそらく放課後なのだろう。いつから眠っていたのか定かではないが、教室には太郎と、声の主の女性以外はいない。しんと静まり返った教室は寂しいようにも思えた。
いずれにしても元より友人の少ない(いないとは言わない)山田太郎の名を呼ぶ人物は限られてくる。そのわずかな声の違いがわからないほど鈍くはない。だが、この凛とした声には聞き覚えがあると言い切れなかった。誰だろう、と顔を上げると、太郎の顔をのぞき込もうと近づいてきた美少女の顔が目の前にあった。美女になりかけている、成長途中の顔。大きな目、凛とした眉、すらりと通った鼻筋、少し厚みのある唇、黒くつややかな髪は後頭部で一つに結われていて、小首を傾げるようになった姿勢のためか、太郎の眼前に垂れている。どれほど高級な墨汁であれこれほどまでに光沢のある気品は出せないだろう。太郎は頷く。間違いない、美少女だ。
しかし依然として太郎の名を呼んだ彼女の素性はわからないし、そもそもここがどこなのかもわからなかった。ぼうっとしている太郎の顔をのぞき込む謎の美少女は心配そうに眉を下げて、「寝ぼけているの?」と訊ねてきた。自分に覚えはないけれども、相手はどうやら太郎と既知の仲であるようだから、名前を知らないというのは失礼だろう。名前はまず置いておいて、「ああ、うん、そんなとこです」と返した。
「なんだか他人行儀だね」
少しむすっとして謎の美少女は腕を組んだ。
「私とタロウの仲なのに、どうしてそんなに他人行儀なのかな? 私何かしたかな?」
表情がぐるぐると変わる。他人行儀なのは仕方ないだろう、と内心で思いつつも、既知の仲とは言え、もっと親しい仲のようだ。
「いや、その、ごめん。ちょっと寝ぼけて頭が回らなかった」
太郎は頭を掻いて目をそらす。あまりにも美少女で見つめていられないというのも一因であったが。それにしても、こんな美少女と以前から知り合いだった記憶はない。クラスに数名、可愛いな、と勝手に思うほどの少女たちはいたが、その中に目の前の美少女はいない。大人びているからもしかすると学年が違うのかもしれない。となるとなおのことだ。入学してまだわずかに一か月。その間に先輩たちと仲良くなった記憶もない。もしかして、クラスメイトの誰かの姉だろうか。親し気に話しかけてくれるクラスメイトの中に姉を持つ者がいただろうか。そんな話はされていないから否定はし切れないが、仮にそうだとしてもこうやって話しかけてくるまで知っている者はやはりいない。
誰だ——?
「もう。ずっと眠っているから心配したんだからね。もう起きないんじゃないかと思うくらい」
「そんなバカな」
思わず鼻で笑ってしまった。
「馬鹿な話じゃないよ! タロウはそういうところが鈍い!」
憤慨して美少女は鼻を鳴らした。予想外の反応に太郎は目を丸くした。そんなに、心配されることだったのだろうか。
「ごめん、気をつけるよ」
苦笑いをして太郎はそう答えた。今だ美少女は納得のいかない表情をしている。数少ない会話であるが、その中で目の前の美少女との関係性は思いのほか親しいものであることはわかった。なら、なおのこと、名前を知らない事実を知られるのはまずい。どうしたものか、と思案する。
「……やっぱり何かあったの?」
美少女がもう一度太郎の顔をのぞき込んでくる。少しのけぞって、太郎は「なんで?」と声を上ずらせた。
「だって、眉間にしわが寄ってるよ? そんなに深刻な何かがあったの?」
「いや、別に? 寝すぎてちょっと頭が痛いかなあ」
我ながらそれなりの言い訳を思い付いたものだと思った。
「じゃあ私が飲み物買ってきてあげる! ちょっと待っててね」
美少女が一目散に教室を後にした。脱兎のごとく、教室から彼女の姿がなくなった。遠慮する暇も与えてもらえなかった。しかし、これは好機か。この間にそそくさと家に帰ってしまえば——頭を振る。それはできない。自分のためにわざわざあれほど急いで飲み物を買いに行ってくれたのに、それを無碍にして帰るなんてできっこない。では、思い出す。一生懸命に思い出す。あの美少女が誰なのか。とにかく思い出す。思い出せと念じる。高校に入学してからの一か月を思い返す。…………だめだ。いない。記憶にない。そもそもあれほどの美少女、一目見たら嫌でも覚えてしまうような(あくまで言葉の綾、嫌なわけがない)容姿をしている。というか、どうしてそれほどの美少女が太郎ごときにここまでしてくれるというのだ。何か弱みを握っているのか? それとも——それとも——それとも——なるべく考えないようにしていたが——あまりに都合がいい——あまりに虫の良い話だと我ながら思って思考の外に置いていたが、もしかして太郎はあの謎の美少女と付き合って——
「お待たせ!」
「早っ!! つうか多っ!! つうか早っ!!」
謎の美少女は腕にペットボトルを十数本抱えて戻ってきた。そんなに近くに自販機があったのだろうか。まだ一分経ったかそこらだというのに、あっという間に戻ってきてしまった。というか一分そこらで十数本も買えるのか? それにしても、馬鹿なことを考えていたせいで結局名前は思い出せていない。まずい、けれど、これほど気をつかわせてしまっているのは申し訳ないし、反面嬉しくてしかたない。以前はそんな存在がいなかったから。少し目頭が熱くなってきた。まずい、泣くのはまずい。また妙な心配の種を増やすわけにはいかない。
「とにかく水分補給したほうがいいと思って、ポカリとお茶ばかりだけど、ジュースがよかった?」
太郎は首を横に振った。
「ううん、嬉しいよ。ありがと」
美少女が頬を赤らめて、太郎の机にペットボトルを置く手がはたと止まった。それからものすごい速度でダンダンと置いていき、机上はペットボトルで埋まりきった。
「た、タロウが元気になってくれたら私も嬉しいから!」
「そ、そう」
これは、やはり恐らく——否、絶対的に付き合っているのでは? 馬鹿な考えと思っていたがそんなこともないのでは? これはこれはまさしく思春期真っ只中の心境ど真ん中であこがれ続けた恋人というやつなのでは! 太郎の顔も赤くなっていく。恋人ってどんなものだ? わからない。憧れたからと言ってそれを知ろうとしたことはなかった。手でも繋いで一緒に帰るとか、自転車の後ろに乗せて帰るとか、夕暮れの河川敷で二人、落ちていく夕日を眺めるとか、そういうことをする仲ということでいいのだろうか?
いや待て、冷静になれ太郎。そんな関係にある人のことを忘れてしまうなんてどうかしているぞ。と。そこであの謎の男の言っていたことを思い出す。
『その目に映る景色は以前お前が見ていた景色と遜色はないかもしれない。ただ、お前が知っている現実から少し幻想に偏っているだけだ。だが、それは確実にお前の知らない世界で、異世界と言ってもいい』
この教室は、まさしくそうだ。でかでかとあるモニターを以前の教室で見たことはない。辺りを見ても、以前と変わりないように思えるのは、ここが恐らく高校で、この部屋は教室として使われているのだろう、という仮定のもとである。机だって、椅子だって、まったくの別物なのに。制服を着ているから、そう思うだけで。
『お前の知る者は誰一人としていない。仮に相手がお前を知っていても、お前が相手を知っていても、それは以前お前が知っていたものではない』
忘れていた。一瞬で舞い上がっていた心が一瞬で冷静になった。目の前の美少女を太郎は知らない。彼女は一方的に太郎を知りえている。それがどうしてなのかはわからないが、きっと、異世界と同調したことによって新たに誰か知り合いが増えたということなのかもしれない。可能性の話であって、確実なものではないが、太郎はそう思うほかなかった。
『間違いなく孤独がある』
間違いない孤独だ。以前の太郎を知る者は誰もいない。目の前の美少女は太郎を心配そうに見つめている。その目に映る太郎は、今いる太郎だ。急ごしらえのようにできた知り合い。昔からの関係はない。確かに孤独だ。でも、前もそうだったじゃないか。仲良くしていた小学生のころの同級生たちは、新たな友人を得てそちらにグループを作った。太郎と同じ高校に進学したものはいなかったから高校ではほとんど一人きりだった。たまに話しかけてくる善人然とした同級生たちはまさしく急ごしらえにできた知り合いで、一線をひいてそこから先には入ってこない。とはいえ、誰かの記憶の中に太郎はいたに違いない。忘れられていたとしても、片隅に太郎という存在はいたはずだ。しかしそれはもう、いない。あの地下鉄に引かれて死んだときに、あの時に太郎は消えた。以前の山田太郎はもう、どこにもいない。ここにいるのは生まれ変わった太郎。誰も知る者はいない、両親でさえ、きっと今の太郎しか知らない。過去、悩み、悔やみ、苦しんだ太郎を知らない。なんてことだ。想像しただけで、ひどく苦しい。
ここは元いた世界だろう。けれども謎の男が言う通り、異世界に同調し、変化した世界のようだ。あの空間から扉を開けて辿り着いたのはここだった。と言っても歩いたわけでも意識があったわけでもない。気付いたらここにいた。なぜか自分は眠りこけていて、目覚めるとそこは様変わりした教室だった。
人生に取り扱い説明書などないのはわかっていたし、今までだってそんなものがなくとも生きてきたが、今は説明書がほしかった。どんな世界になっているのか、自分はどういう立場なのか。主人公、と漠然としたニュアンスで言われても、それが何を成すものなのかいまいちわからない。——神を殺すんだったか、と思ってみたが、どうやってそれを成すのかも定かではない。それどころか、今、自分は何をもってここにいるのかもわからないのだから。
様々な不安で心臓がつぶれそうだ。自分のことが分からなくなりそうだ。思春期か、とごまかすように突っ込んでも心は晴れない。結局、何も変わっていない。世界が変わろうと、自分は変わっていない。変わっていないのだからどうしようもない。どうしたらいいのかもわからない。そのまま流されるように過ごしていくのかもしれない。そんな風に、今までと変わらず、そんな風に。
ふと、太郎の頭が撫でられた。下を向いていた顔を上げる。優しく美少女は微笑んで、太郎の頭を撫で続けた。
「大丈夫だよ、タロウ」
耳にやさしく、凛とした声が響いた。鼓膜を揺らし、脳を刺激した。電撃が走る。目が見開かれる。重たく閉じていた記憶の蓋が崩れて開いた。
『大丈夫だよ、タロウ』
その言葉に覚えがあった。幼いころの記憶だ。
幼馴染で、一つ年上だからずっとお姉さんだと強くあろうとしてくれた——守ろうとしてくれた——小学三年生の時、どこか遠くへ引っ越していった——詩織姉ちゃんと太郎は呼んでいた。
「大丈夫だよ、タロウ。私はあなたを覚えているよ」
あの頃のように慈愛に満ちた微笑みで、泣かないでと、頭を撫で続ける。
「詩織——姉ちゃん?」
こくりと美少女は頭を縦に振る。そうだよ、と詩織は頭を撫で続ける。自然と太郎の眼から涙がこぼれた。なんで泣いてんだ、と手で拭う。
「もう、男の子なんだから泣いちゃだめだよ。タロウは私の
詩織は悪戯に笑った。
どうして、どうして、ここに詩織がいるのだろう。詩織は、遠くに行ってしまったのではなかっただろうか。
「どうしてここに詩織姉ちゃんがいるの? ていうか、なんで、覚えているの?」
「それは、私がタロウのことが好きだから。タロウのことを忘れるなんてありえないから」
そう言い切られて、自分の浅ましい不安は杞憂なのかもしれないと思えた。それどころか、自然と平然と突拍子もなく好きだと言われて心臓が跳ねた。が、間髪入れずに詩織はむすりとして、
「でもタロウは私を忘れてたんだよね」と拗ねた。
涙は引っ込んで代わりに汗がにじみ出た。
「ごめん」と勝手に口から出た。
まさかまた会えると思っていなかった。それどころか、あの謎の男が言っていたように相手も自分も知らないということがなかった。それが嬉しかったのに、自分を覚えていてくれた相手を当の本人が忘れていたというのはひどく申し訳のない話だ。
「いいの、冗談だよ。思い出してくれたなら、それだけで嬉しい。お姉ちゃん冥利に尽きるってものです」
あの頃よりも成長した詩織の笑顔は綺麗に思えたけれど、どこかまだあどけなさを感じて、懐かしく思った。それにしても、
「どうして、詩織姉ちゃんがこの学校にいるの?」
というか、
「この学校は、都立第一高校、だよね?」
太郎が詩織の顔を見る。詩織はわずかに目を辺りに巡らせて、少し困ったような顔をした。それから小さく首を振って、
「ここは国立魔法師育成機関——第一高校だよ。そして私がここにいるのはタロウがいるから」
と、優しく答えた。
——魔法。魔法師育成機関。——国立。どうなっている? と思ったところで、謎の男が言っていたことを思い出した。そうだった。以前とは違うのだ。それは太郎だけでなく、そもそもこの世界の在り方が変わってしまったのだ。物分かりがいい悪いは関係なく、理解した。道理で教室も様変わりしているわけだ。こんなに近未来的になって、変わっていないのは制服くらい。ともすれば本来であれば明日行われるはずだった英語の小テストだってなくなってしまっていて、教師陣の顔ぶれも変わっているかもしれない。それどころか、進学校と言われて毎日みっちりと詰め込まれていたカリキュラムも以前とは違っているのだろう。
必要的な一般常識を要するための基本教科はあるかもしれないが、その範囲だってどこまでなのか。魔法を使うために必要な一般常識だってあるかもしれない。何はともあれ、ここでこれから学んでいくことになる。
そしていつかは、神を殺す。
主人公として、それを成す。
不安だ。詩織がいてくれるのは心強いけれども、今の自分は知性を持った赤子だ。ものを言われて、見て、聞いて、感じて理解できることは多いだろうが、この世界がどんなものかまるで知らずわからない。謎の男に少しくらい知恵をつけさせてもらってもよかったな、と思った。思ったところで何も変わりはしないが、自分の置かれている状況をもっとわかりやすく教えてほしかった。
何が神を殺せ、だ。何が主人公だ。まるっきり何も知らないただの消費者じゃないか。でも。主人公はそんなものだろうか。特異的な力を有するとか稀有な存在とは限らない。何も知らずに巻き込まれて行って、渦中の人間になることだってある。今の自分は後者なのだろう。
これは、変わる
だったら、やるしかない。やるしかない、が。
「どうしたら、いいんだろう」
その疑問に収束して、机の上に置かれたペットボトルをひとつ手に取って、蓋を開けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます