第2話Re:Start(2)
——◇——◇——◇——◇——
「よう、目が覚めたか?」
青年が瞼をわずかに開けると、横から軽い言葉をかけられた。しっかりと瞼を開けて、双眸で辺りを見渡す。白い部屋のようだった。しかし、あまりにも白くて、境目がどこかわからない。ここは部屋、ではないかもしれない。壁の継ぎ目がわからず、どんな形をとっているのか定かでない。空間、と呼ぶべきか。そこに青年は横たわっていて、その横に、深紅のスーツを着た西洋人のような整った顔立ちの男が立っていた。何かにもたれかかっているようだが、そこに壁があるようには思えず、まるで、無重力なのかと疑ってしまうような光景だ。深紅のスーツは現代でよく見るようなもので、ダブルブレストをきっちりと着こなしている。細身に見えるが、意外と逞しいのかもしれない。
「あ、あなたは」
「死神ではねえな」へ、と笑う。それから続けて、
「天使でもねえ」と言った。
困惑しながらも青年は立ち上がろうと床に手をついた。床に目をやって、この床もどこまで続いているのか疑問に思った。そもそも床なんてあるのだろうか。三六〇度、どこを見ても真っ白でシミの一つもない、穢れのない空間。あまりにも真っ白すぎて、自分がどこにいるのかわからなくなってしまいそうだ。
「————!?」
そう思った時だった。立ち上がろうと全体重を預けた右腕が急に空を切った。底が抜けたように青年の体が落下していく。目を見開いて驚きを表すが、何もできずにそのまま落ち続けていく。
「おいおい、お前今、床がないんじゃねえか、とか思ったんだろ」
ため息をつきながらスーツの男がふわりと飛んで青年の手を掴んだ。男の足は確実に床に乗っている。そこに立っている。というのに掴まれている青年のほうはと言えば、掴んでもらっている手から下をだらりとぶら下げて、男の目前には穴でも開いているかのようだ。男に言われたことに似たようなことを考えていた青年は静かにうなずいた。すると男は再びため息をついて、青年を引っ張り上げながら、
「ここは何もない空間だ。けれども”何もない”がある空間だ。とどのつまりはあると思えばある。ないと思えばない。そんな曖昧な空間だ。床があると思えばある。ないと思えば——」
そこまで言った男と一緒に長い落とし穴にはまったように落下していく。
「床はなくなる。それだけだ。あると思え、お前の足元に床は続いている。そう思え」
ぶんぶんと青年は首を縦に振った。すると、ふわりと無重力空間にいるように軽やかに着地が出来た。
「しかしまあ、ここに初めて来たやつにいきなりそんな風に考えろというのも酷な話ではあるよな。でも仕方ない。ここしかなかったんだ。上の連中の眼をかいくぐり、主人公を作り出す場所なんつうのは」
「しゅ、主人公?」
「ああ、そうだ。主人公だ。この物語の第一人者」
「え、えと、僕が?」
「ああ、文字通り、言葉通りの主人公だ」
「どういうこと? ていうか、僕は死んだんじゃな——」
青年の体が割けるように痛んだ。フラッシュバック。都内地下鉄の煌々としたライトが近づいてくる。あれだけまぶしいのは小学生の頃のグラウンドのナイター照明以外に知らなかった。幻視する。腕がちぎれ、足がちぎれ、胴は圧迫に耐え切れずに中から腸をまき散らした。血を失って虚ろになっていく目は飛んでいく体の破片を見ていた。無惨にも、無慈悲にも、そこで事切れた——はずだった。
内臓が反転するようにうねって、青年は嘔吐した。ただただ胃液ばかりが吐き出てくる。色のない体液を吐き続ける。男は三度めのため息をついて、青年の背中をさすってやった。
「落ち着けよ。お前はまだ死んじゃいねえ。俺が生かしている。にしても、主人公がこんなに弱っちい奴とはなあ。あのババア嘘ついてたら承知しねえぞ」
少しずつ落ち着きを取り戻して、青年は一度頭を下げた。それを見て男は背中をさする手を止めた。
「僕は、まだ、生きているんですか?」
「ああ、死んだことを取り消したからな」
「取り消した……?」
「散り散りになった体の破片の一片残らずこの空間に移してもとに戻した。今の段階ではお前の言う現実——お前の生きている世界にお前は存在していない。だからあそこでお前が死ぬという事象もなくなった。そりゃそうだ。死すべき対象がいないんだから、何も起こらない」
至極当然のことをした、とでも言わんばかりに男は平然と話した。
「え、と。待ってください。それじゃまるで、僕が死ななきゃいけなかったみたいな言い方ですよ?」
「酷な話だが、お前はあそこで死ななきゃならなかった」
「なんでですか!」青年が思わず声を荒げた。
「そう叫ぶな。叫ばずとも聞こえる」
「す、すみません」
「この空間は限られた神か死人じゃないと来ることが出来ない。生きた人間には立ち入ることはおろか認識することすらできない——生と死の狭間の末端にある空間だ。死後に三途の川やらレテの川を見たらば最後、ここには立ち入れない。それほど微かで曖昧な空間なんだ。お前があの時、後ろから何者かによってホーム下の線路に突き落とされ、地下鉄に引かれるのは運命づけられていた。逃れようのない話だ」
「じゃ、じゃあ僕はあそこで死ぬように決められていたってことですか」
「ああ、そう言っている」
「誰に!?」
「神にだ」
「わけがわからない……なんで僕が……」
「俺だって知るかよ。俺はババアの言いつけを守っただけだ。そうでもして運命に張り付けなければここに連れてくることはできなかった。それよりだ。お前は主人公として、この空間から現実世界に戻る。戻ったとき、世界は一変している。天変地異が起きている。何も世界中が廃墟と化しているわけじゃあない。荒野が広がっているわけじゃあない。その目に映る景色は以前お前が見ていた景色と遜色はないかもしれない。ただ、お前が知っている現実から少し幻想に偏っているだけだ。だが、それは確実にお前の知らない世界で、異世界と言ってもいい。お前の知る者は誰一人としていない。仮に相手がお前を知っていても、お前が相手を知っていても、それは以前お前が知っていたものではない。間違いなく孤独がある。それでも、お前は自らを成長させ、神を殺せ。お前は主人公だ。たった今から、全世界唯一の神殺しだ」
「話が急すぎて意味が分からないです! 僕が主人公って、だからなんなんです! 神殺しってなんなんです! それに、僕を殺したのはあなたたちなんでしょう! なんであなたたちに手を貸さなきゃいけないんですか!」
「理解力まで乏しいときたか。ババアも耄碌してやがるのか?」
男は深くため息をついた。
「地上から忽然として姿を消した神々は上の階層から高みの見物を決め込んでいるが、最近は暇を持て余した幾神かがお前の世界にちょっかいをかけだした。さっきも話したが、異世界との同調だ。お前の世界——現実世界において人間が今なお行っている科学的成長というのはあまりにも素晴らしい。素晴らしいが、神々にとってはあまり喜ばしいことではない。畏怖、敬意、信仰が失われていく。昔はそこら中に神がいた。そこら中に信仰があったからだ。何があってもそれは神の御業だった。しかし、ヒトが成長していくにつれてその考えは徐々に失われつつある。とくに、科学のせいでな。科学というのは神と相性が悪い。人間を作り出した神は、人間の作り出した
「え、っと。あの、すみません。思いのほか話が壮大すぎて頭がついていきません」
「聞き流せ。理解しろとは言わねえ。それにすぐに神を殺せとも言わねえ。とかく、俺たちだけでは戦いようがない。だから馬鹿な幾神連中の浅はかな考えを逆手に取った。異世界と同調を果たし、現実世界には大昔に消え失せたはずの魔法が蘇ることだろう。それを利用することにした。おそらくではあるが、科学と魔法は相容れないことはないはずだ。どこがどう変調を来たすのか、それはわからない。わからないが、わからないからこそ、そこに賭ける。その賭けのひとつがお前だ。とある女神が千里眼を使って今を見た。神に対抗しうるような才能を持つやつを探すためにな。それで見つけたのがお前なんだよ」
「でも僕はそんな才能を知りませんよ!」
「俺だって知らねえよ。神殺しなんつうのは常識的に考えても罰当たりだ」
男の背景の白い空間が、一瞬歪んだように見えた。黒い何かが一瞬だけ、混じったように見えた。ちらりと後ろを見て、男は苦い顔をして舌打ちをした。
「時間がないようだな」
「時間がないって」
「黙って聞け」男が鋭利に切り捨てる。
「お前の心臓には『ゼウスの魂の欠片』を埋め込んだ。馬鹿な神と戦うのに神頼りとは情けない話だが、仕方ない。その能力がどう作用するのかはわからねえ。だが、これだけは覚えておけ、お前は主人公だ。誰でもない。ほかの何者でもなく、お前が主人公だ。お前が、この物語に終止符を打て」
男はまっすぐに青年の眼を見据えた。射抜かれたように、青年はじっと男の眼を見返す。正義をろくに知らないが、おそらく正義とは彼のようなまっすぐな眼のようなものなのだろう。
青年は今言われたことを心の中で反芻した。主人公——自分が、あれだけ望んだ主人公になれる。小躍りでもしてしまいそうだ。でも、世界の危機だというような話だった。それを自分なんかが解決できるのだろうか。主人公として、男の言う神と戦えるのだろうか。それは、そのときになってみないとわからない。そう投げやりにして、けれどもその時がくるまで主人公として生きると覚悟を決めて、息を飲みこんで、青年はうなずいた。時間がないと言われて尻を叩かれたからそう決めてしまったのかもしれないが、それでも、あのまま死んでしまうよりは、主人公になって何か仕出かすほうがましなのは間違いない。
かすかに男は微笑んで、目を閉じた。
「行け。そのうちまた会おう。お前の世界を守って生きろ」
横を見ると、扉があった。扉があると男が思ったのだろう。男が扉のドアノブに手をかけて、止まった。
「それと、お前をこちらに巻き込んでしまってすまなかった。勝手に殺したことも、すまなかった」
「……でも、そのおかげで、僕は主人公になれるんでしょ?」
「……ああ」
「だったら、むしろ、ありがとう、かな。いや、死んだのはきつかったけどね!」
「お前は……よくわからねえやつだな」
「僕自身がよくわかってないからね」
実際、この状況だっていまだによく飲み込めてはいない。けれども主人公になれると聞いて心が躍ったのも事実だ。
不思議そうな顔をして、そのあとに男はまた微笑んだ。しかし、白い空間は徐々に黒が侵食してきている。
「さあ、行け。お前の世界に」真剣な眼で男が言う。黒は青年の眼にも映っている。
青年は扉の前に立った。その扉の向こうに広がる世界は、まぎれもなく現実だろう。踏み出した足が止まる。つい今覚悟をきめたばかりだというのに鈍る。青年が劣等感を抱いていた現実。その
「行くよ。僕の世界に」
青年は扉の向こうへ足を踏み出した。現実だけれど現実でない——異世界だけれど異世界でない——自分の世界へ。
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