キミとセカイが乗った天秤
久環紫久
プロローグ 始まりの引き金
第1話Re:Start(1)
昔。僕がまだランドセルを背負っていたころ。
僕はプロ野球選手を夢見ていた。
その当時見ていた戦隊ヒーローや仮面ライダーと同じように、テレビの向こうでバットとグローブとボールを使って戦う彼らは僕にとってヒーローだった。仮面ライダーごっこもやったし、戦隊ヒーローにもなった。そしてそれ以上に野球をやった。小学校でやっていた、有名な選手を輩出しているわけでもないただの弱小少年野球チームで毎日泥だらけになって、日が暮れてもグラウンドに設置された目潰しのごとく輝くライトを太陽の代わりにして、ナイターだーとかなんとか言って、とにかく毎日素振りもしたしボールも投げた。それが楽しかったのだ。強豪チームからすれば物足りない練習量であったろうけれど、その成果もあって気付けばレギュラーになれたし、試合で活躍出来た。あのテレビの向こうで歓声を受ける、憧れのスーパースターのように。たまにはホームランも打てたし、矢とまでは行かずとも、多少はまっすぐな返球でアウトを取ることもあった。そのたび、保護者会の大人たちが、気持ちいいくらいに歓声を上げてくれた。ほめてくれた。それが、嬉しかった。
けれども、隣町で活動しているリトルリーグチームにテレビにも出るような有名な野球少年がいて、そいつは将来を有望されてるらしかった。――今になればわかるけれど、そいつは確かに今もテレビに引っ張りだこで同じ高校生には見えないほど大人びている――そんなやつがいるんだ、となんとなく思っていただけだったけれど、実際にこの目でその少年を見たとき、自信が削がれた。抉られた。身長はまだ小学生のくせに一七〇センチを超えているようで、体格なんて自分に比べたら子供と大人だった。プレイを見てみれば、それこそ矢のような送球をするし、打てばほとんどの当たりがホームラン級。走ってもものすごく速かった。
それでなんだか野球が楽しくなくなった。あのころの僕は本気でプロ野球選手になれると思っていた。毎日素振りをして、毎日ボールを壁に投げ続け、毎日口の中で血の味がするほど走りこんだ。けれどもそいつを見たときにああ、これは僕には無理なんだ、と悟った。わずかに小学生であったけれど、力量の差は、瞭然だった。
それからサッカーをしたり、バスケットボールに手を出したり、はたまたバレエやピアノ、なんて親の勧めもあっていろんなものに手を出したけれど、どこに行っても上には上がいて、僕はせいぜい中の下だった。それならまだいいほうなのかもしれない。
中学に入って、勉強はそこまでしなくともいい成績をとっていたのだけれど、ある日、数学で躓いた。何で躓いたのか今でも覚えている。二次関数だ。まだ高校生になりたてで今なおその数式を使うのだから覚えていて当然だけれど。
覚えようとせずとも、理解しようとせずとも理解できていた感覚が、その瞬間に消えた。疑問が尽きなくなった。周りより大人びた性格をしていると——おこがましいが自負していた理由の一つとして、理解力があるからだと、勝手に分析していた。そう思い込んでいた。でも本当はそうじゃなかった。”たまたま”——今まではたまたまできていただけだった。躓いた瞬間に今までなんでもできていたはずなのに、そこで僕は何もできないような錯覚を覚えた。勉強については復習すれば、予習すれば、まだどうにかなる問題だったからそれはどうにかした。
けれども、今までずっと引っかからずにやってこれたのに、少しずつつま先がひっかかるようになった。ひどいときは転んだ。その感覚が気持ち悪くて逃げたいと思うようになった。でも何からどう逃げたらいいのかわからなくてなんとなく過ごすようになった。
それでも進学校に進んでほしいという両親の願望通りにどうにか進学した。しかし今、入学して間もないというのに、勉強についていけなくなってきている自分がいて、周りにはその自分がついていけない勉強を平気でやってのける人ばかりがたくさんいた。
そこでふと理解した。僕はきっと主人公じゃない。この人生は多分、僕のものじゃない。僕はきっと誰かの物語に出てくるエキストラの一人なんだろう。漫画でもアニメでもゲームでも小説でも映画でもドラマでもどこかしらに出てくる村人Aとか通行人Bとかそんなもの。ほかの誰かの人生を彩る背景の一部。
――そう思ったとき、自分の中にあったエネルギーの根源みたいなものが壊れた気がした。自分は別に特別でもなんでもないと思うようになった。
それは恐らく、大人になった、ということなのかもしれないが、そういった、自分で自分の限界のような、力量不足を理解しうるそのことが酷く情けないように思えたし、何よりこんな人生はつまらないと、前を向けなくなった。
だからこそ、僕は主人公になりたかった。なりたくて仕方なかった。僕にしかできないことがほしかった。世界を救うなんてそんな大それたことじゃなくたっていい。何かひとつだけ、ほかのだれにも誇れるような、何かをもって、自分に自信がほしかった。そんな子供じみた願いを心の奥底にしまい込んで、でも、いつかそうなる日がくることをわずかに待ち望んで、今日もまた英単語帳を開いていたのだ。
今こうやって駅のホームからいたずらに突き落とされて――きっとその人は故意に僕の背中を押したのだとは思わなかったけれど――僕を突き落とした犯人の顔もわからず、すぐ横、視界の端にはまぶしいライトが近づいてきているこの状況で、どうしたらいいのかわからなかった。
僕は死のうとなんて思っていなかった。単純に死ぬのが怖かったからだ。死にたくないというわけではない。ここで終わってしまうなら、それはそれで仕方ない、と割り切って考えることだってできる。でも、やっぱり、死ぬのは怖い。この後、僕はどうなってしまうんだろう。痛いんだろうか。苦しいんだろうか。誰かは、悲しんでくれるんだろうか。それと、生きていたら少し、楽しい一日がある日訪れることもあったんじゃないだろうかと思ったりする。それこそ主人公になれるような。たった一日でも、それだけでもいいから。
でも今、死にここまで近づいた今、そんな考えはまるで無駄だろうから考えるのをやめてそっと目を閉じた。
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