エピローグ「こなこなポテチ」
(ここは……どこだ……)
初めに覚えたのは、背中に張り付いた、固く冷たい石の感触だった。
ゆっくりと目を開けると、陽の光を失いかけたブルーグレーの空があった。
いまだ意識を厚く覆っている濃霧を振り払って、のそりと上半身を起こした。
思った通り、そこには見慣れた光景があった。
これは、間違いなくヤマ高の屋上だ。
俺は制服を着て、コンクリートの床で大の字に寝そべっていたのだ。
ふらつく足を叱咤して立ち上がると、軽い立ちくらみが起こった。
スマホをポケットから取り出すと、時刻は午後6時。
祠堂との戦いから、12時間以上経っているらしい。
どうやら、俺は今日も普段通りに学校に行って、何故かこの屋上で居眠りをして、この時間になってしまった……多分、「そういう状況設定」になっているのだろう。
薄暮に包まれた周囲の風景をぐるりと見渡した。自分を取り巻く世界に対して、「感覚を開放」して見た。
前のように「世界の情報」なるものは一切感じられなかった。
どうやら「俺の能力」は、綺麗さっぱり消えたらしい……
それは、正しく「函館スタンダードが消滅したこと」を意味するのだ。
しかし、俺の中には「冴子がいる世界」が消滅したあの時に、身体に刻み込んだ彼女の体温が、微かに残っていた。
それを求めて、我ともなく自分の両手を見つめた。冴子の手を握ったはずの、身体を抱きしめたはずの両手を。
当然のことだが、そこに冴子はいない。誰よりも心が強くて、皮肉屋で……それでいて、限りなく俺に優しかった冴子は、今ではいないのだ。
何気なく、フェンスの傍まで近づいていくと、あの日、昼休みに冴子と共に見た時と、寸分たがわぬ風景がそこにあった。
遠方に広がる、函館の港町。なだらかな弧を描く、蒼い水平線。
その全てが、美しかった……
前と一つも変わっていないはずなのに、視界に映る何もかもが、心の奥底にまで、熱く染み入って来る。
俺は、馬鹿だった。こんなに、素晴らしく尊い物に……本当に大切なものに、気が付いていなかったなんて……
今だったら、素直に思える……
食いてえ……
そぼろご飯食いてえ……
盛り蕎麦食いてえ……
メロン食いてえ……
函館スペシャル……食いてえよ……
あいつの……隣で……
俺は、両手を握り締めたまま、硬い屋上の床に突っ伏した。
「冴子おおおおおおおおおおお!!!!!!!」
結局、俺は何も出来なかった……
そんな、忸怩たる思いで、心が張り裂けそうだった。
紗枝の時と同じように、目の前で、かけがえの無い存在が消えて行くのを、なすすべも無く見ていくしかなかったのだ。
そして情けない事に、函館山の展望台で冴子が流した涙の意味にも、俺はようやく気がついた。
あいつは、あの時……既に自分の最後を覚悟していたのだ。
最後にこんな綺麗な物を見れたと……思い出を作ることが出来たと……それで泣いていたのだ。
そんなことに、今頃気がついている俺は、何て愚かだったんだろう。
こんな自分に、今出来ることが、何かあるだろうか……
そうなのだ……涙もろい俺は、こんな時にこそ泣かなくちゃいけない……
こんなことぐらいしか、あいつにしてやれることは無いのだから。
あいつが、この世界で生きていたことを覚えている人間は、俺ひとりしかいないじゃないか。
だったら俺以外に、誰があいつのために悲しんでやれるっていうんだ……
一人ぼっちで、この世界から消えていった冴子のために、俺は涙が枯れんばかりに泣いた。
☆ ☆
「蕎麦処 玄助」に帰った頃には、すっかり暗くなっていた。
俺の家の二階からは、冴子が住んでいた「あの離れ」は当然のように無くなっていた。俺がいつものように、がらりと店の扉を開けて「帰ったぜ」と言うと、店の奥からいつものように「おう」と親父の声が帰ってきた。
全ては、元の通りに戻ったのだ……俺は、駄目押しのように、そう痛感させられた。
階段を昇りきると、これまたいつものように自分の部屋に入った。
バンプラが飾ってある二つの陳列棚は、以前のようにくっつけて置かれていた。その向こうは何も無い只の壁だ。あいつが住んでいた部屋の扉は、やはり跡形も無く消えている。
逆に、アクリルケースの中には、無くなっていた俺の選抜作品が並んでいた。合計五つ。「あいつ」が使ってしまった「青の三竜」以外は、無事に戻ってきたのだ。
心の中に、ぽっかりと、巨大な穴が開いているようだった。
「あいつ」がいなくなって……
「あいつ」……「あいつ」……って?
そういえば、名前はなんて言ったっけ……
か……? 加藤……? それとも、香取だっけ?
サナエ……それともサキコ……?
忘れかけてる……
そうか……「あいつ」は言っていた。「すぐに忘れる」って。「忘れた人の事では悲しめない」って……なるほど、こういうことだったのか……
それでいい……確かに、それが楽だ……
悲しいことなんて、一つも残さず、綺麗すっぱり忘れてしまったほうがいいんだ……
ふと、コタツの上に目をやると、見慣れぬノートが置いてあった。
何だ、これは……そんな物を買った覚えは俺には無いが……
手に取って、中身を開いて見ると……
ん……? これは……?
何やら、意味不明の文章が書いてあるが……
「初めにモーリ・ソーバがあった」
「モーリ・ソーバは光を生んだ。闇も生んだ」
「そして、モーリ・ソーバはカーケ・ソーバを生んだ」
「続いて、モーリ・ソーバはカーケ・ソーバとの間に子を設けた」
「オローシ・ソーバ、ナメーコ・ソーバ、カーキ・アーゲ・ソーバなどを……」
「やがて、世界は多くの『ソーバ』すなわち神々で埋め尽くされた」
「さらに、モーリ・ソーバはウードン族との戦争に勝利した」
「パースタ族やソメーン族、そして最強の敵、邪神ラメーンをも打ち破った」
「そして世界は、偉大なる絶対神、モーリ・ソーバによって支配されることになった」
「称えよモーリ・ソーバ!」
「偉大なるモーリ・ソーバ!」
「モーリ・ソーバを信じるものは救われる!」
……
……
そんな、訳の判らないことが延々と書かれてある……
なんだこりゃ……どういう冗談だ? それとも新手の電波宗教か?
しかし、気になる……この文章には妙に心惹かれるものがある……
何故だ……だんだん俺は、この文章の内容を信じたくなった……
そうだ……俺はこの文章を信じる……!
信じてやる! 全身全霊で信じてやるっ!
俺は畳にひざまずき、両腕を空に掲げ、絶叫した!
「称えよ、モーリ・ソーバ!」
「崇めよ、モーリ・ソーバ!」
「モーリ・ソーバは偉大なりイイイ!!!永遠なりイイイイイイ!!!!」
ゴンッ!!
突然、脊髄に電流のような痛みが走った。
何かが頭上から落ちてきて、俺の頭頂部に当たったらしい。
な……何だ? 思わず俺が上を見あげると……
何と、そこには「パンツ」があった。紛れも無くオレンジ色のパンツだ!
いや、正確には「縄ばしご」を降りてくる、女性のスカートの中身が見えたのだ。
……ていうか、「縄ばしご」だって? 天井から? これが頭に当たったってことか?
俺は、自分の目で見ている物を、まるで理解できなかった。同時に、それは妙な「既視感」の有る驚愕だった。
天井に、「あるはずの無い正方形の扉」が出現していて。そこから人間が降りて来ているのだ。
文字通り、口を大開きにしたまんまの俺の眼前で、一人の人物が、スタリと縄ばしごから畳へ降り立った。
「つくづく、あなたって『極めて好色』なのね……お尻に視線が釘付けだったじゃない」
優しげな苦笑を浮かべて、「そいつ」は目の前に立っている。
俺は、何度となく、繰り返し、これでもかと、我が目を疑った。
しかし、「それ」は現実だった。この俺が「それ」を見間違えるはずもない。
こいつは……
「冴……子……?」
俺は、当たり前のようにその名前を思い出し、口にしていた。
「冴子……なのか……なんで……?」
ヤマ高の制服を着たそいつは、正しく「加納冴子」だった!
「一応、私だって手を打っておいたのよ。うまく行くかどうかは判らなかったけどね。祠堂を倒した後も、家一個分の領域に私一人が存在できるだけの、一時的なスタンダードを設計しておいたの。新興宗教『モーリ・ソーバ教』の教主に私がなったのよ」
混乱する頭脳を何とか整理し、俺は冴子が言っていることを理解してみる……
「つまり……それじゃあ、このノートは『教典』なのかよ。このソーバがうんぬん……っていう馬鹿文章が?」
「そうよ。あなたが、『信者第一号』になってくれたおかげで、『スタンダードの支配領域がこの世界と繋がって』、私はここに来れたのよ」
すると、たった今、俺の家の屋根の上に、冴子の住む離れが出現したって事か。馬鹿げた話だ……あまりにも馬鹿馬鹿しいけど……
嬉しい……
それ以外に、何があるって言うんだ……
「ありがとう……冴子……戻ってきてくれて、本当に良かった……」
「私こそありがとうと言わせて。私の存在を忘れないでいてくれて……私がここに生きることを望んでくれて……『絶対神モーリ・ソーバ』を信じてくれた、あなたのおかげだわ……」
相変わらず、俺が知っている彼女そのままに、冴子の話しぶりは淡々としている。自分の生死がかかっていた話なのに、まるで他人事のような口ぶりだ。つくづく凄い奴だ。
俺の方は、思いもかけぬ展開で、再び涙腺が崩壊してしまった。枯れ果てたと思っていた涙が、再び、後から後から流れてくる。
ただし、今度はさっきまでの涙とは違っている。喜びの、そして冴子への感謝の涙だ。
「全くあなたって……そんなに、泣くこと無いじゃない」
感極まった俺は、心の底から、冴子の身体を抱きしめたいと思ったが、寸での所でそれを踏みとどまった。今の俺にそんな資格があるのだろうか、という迷いが自分の中にあったのだ。
「冴子という構成要素」が、今の世界で、「俺にとって」なんなのか、女友達なのか、幼馴染なのか、はたまた恋人なのか……
それがはっきりするまでは、悲しいことだけれど、「それ」は越権行為なのだ。
結局俺は、遠慮がちに冴子の右手を取った。それを両手で包み込み、握り締めるのが精一杯だった。
「じゃあ、これからもよろしくね。『宗司君』……」
涙で滲む俺の視界の中で、冴子もまた、目に涙を溢れさせていた。
なんだ、お前だって結構涙もろいくせに……そう言おうとしたがやめておいた。
「で……冴子……お前は、これからどうするんだ?」
「まだ『サエコ・スタンダード』がカバーできている領域は、この家の内部までなのよ。だから、まずは宗司君の家族の方に『信者』になってもらおうと思うわ。それから、信者を少し増やしていけば、すぐに函館市全体を覆うくらいの緩やかなスタンダードに成長すると思うわ」
「なるほど……『モーリ・ソーバ教』の布教か。まずは親父だな。親父も、お前がこの世界にいてくれることを望んでくれるだろうから、『入信』してくれるだろうよ」
そうだ……全てはそれからだ……
冴子がこの世界に住めるような状態を作ってからでいい。
冴子にとって、俺がどういう存在かが確定するのは、その後の俺次第なのだ。
これからは、一日一日を丁寧に生きていこう……
そんな、俺にしては殊勝なことを、柄にも無く思ってみた。
屋根のある家に住めることに、毎日食事が出来ることに、大切な人が、当たり前のように傍にいてくれることに、感謝して生きていかないといけない……今回の戦いを通じて、こんな俺にだって、それ位の事は学習できたのだと信じたい。
そして、出来るだけの努力をして、幸福にならなくちゃいけないのだ。
俺と共に、人生を歩むことが出来なかった紗枝のためにも……
だったら、まずは目の前の冴子に、今すぐしてやれることは何だろうか……そんなことを思った。
コタツの上に、食べかけのポテチの袋が置いてあるのを見つけ、手に取った。固焼きによる食感が絶妙な「ミスターじゃがたら」コンソメ味だ。
「そうだな……とりあえず、戻って来られたお祝いに、これあげるよ。最後のコナコナまで食べていいぜ……」
「ありがとう。本当に涙が出るほど嬉しいわ。それ、小さい頃からの夢だったのよ」
俺の手から袋を受け取ると、冴子は優しげな、それでいて僅かに皮肉の混じった笑みを浮かべながら、「ミスターじゃがたら」を一枚口に放り込んだ。
函館スタンダード 完
ペンタ・ブラッド2 ~函館スタンダード~ SEEMA @fw190v18
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