第7話「青森りんご」

 ロープウェイの「山麓」駅についた頃には、周囲はすっかり暗くなっていた。

親父から貰った軍資金も、有意義に使い切ってしまった。ならば、帰路につくより他に、俺達にもうすることは無い。

 そのはずなのだ……

 なのに、何故だが「それはまだ出来ない」という意志が唐突に湧き起こって来た。

 俺にはまだ「やらなければならないこと」があるのだ……


「学校に行こう」


 そんなことを独りごちてから、俺は路面電車の駅に向かう道に背を向けると、ヤマ高の方向へ速足で歩いていった。自分でも不思議だったが、冴子の承諾も得ずに、そんなことを始めてしまった。冴子も、俺の珍妙な行動に対し、何の質問もせずに追随してきた。考えてみれば、それもまた奇妙なことだった。

 ヤマ高はここからは目と鼻の先の場所にあるのだ。函館山を中心に、時計回りに歩いていけばいい。護国神社の上側を抜ける道を通ると、すぐにヤマ高の東門に着いた。

 校門を開けようとしたが、当然のように鍵が閉まっていた。深く考えもせずに学校に来てしまったから、こういう事態は想定していなかった。すると、冴子が無言で俺の前に出て、ピンク色のポーチから何か小さな物を取り出すと、その先端を鍵穴に押し当てた。ガシャリという音と共に、あっさりと門が開く。

「お、おい。なんだよ、これ。どういう手品だよ」

「こんなこともあろうかと学校中の『合鍵』を作っておいたのよ」

 そう言って、冴子は鍵穴に差し込んだものを俺に見せた。それは、見た目は何の変哲もない短い鉛筆だった。きっと、これもソリッドなのだろう。敷地内に入ってからも、同じような『合鍵』によって、あっさりと北校舎の裏口の扉を開けることにも成功した。全く何から何まで手際のいい奴だ。

 北校舎の東の端から侵入した俺達は、明かり一つ無い一階廊下を、西に向かって真っ直ぐに歩いていった。

 やがて俺は、目的の場所、廊下の突き当たりにある、「西階段」についた。

 そう、あの「西階段」だ……

 これまで、何故だか頑なに近づくことを拒んできた「この場所」に来ることが、こんな校則違反をしている目的なのだ。

 それは、俺自身が、こうして階段と正面から向かい合って、初めて自覚したことだった。

 心のどこかに、怖れが残っている。やはり、行かない方がいいのではないか……行きたくない……

 しかし、俺は何としてもここを昇らなければならない、「それ」と向かい合わなければならない。

 そんな悲愴な決意も、もう一方でせめぎ合っているのだ。

 ためらいを、やっとのことで打消して、最初の一段に片脚を乗せると、一歩一歩踏みしめながら、死刑台に向かう罪人のように階段を昇っていった。

 一階から二階へ……二階から三階へ……そして、三階から四階へと繋がる踊り場へ……

 俺はそこで立ち止まった。


 ここだ……


 しかし、「ここ」が一体、何だというのだろう……

 何故に、俺はここを恐れていたのだろう……

 しばし、目をつぶり、心の奥底に眠っている「情報」を手探りで探っていく……


 紗枝……


 半年前のあの日。あの時間に刻まれた記憶に、肉体が一瞬接続した。


 「桑城君……私ね。実はイギリスに留学することが決まったの……ごめんね……言って無くて……」


 「あの言葉」を突然俺に告げたのが、この場所だった……そういうことか?


 頭がずきずきと痛み出した……


 「そういうこと」……だったのか……?


 突然、俺の傍に立っていた冴子の声が、頭の中に乱暴に飛び込んで来た。

「宗司君、気をつけて!」

 反射的に目を開くと、眼前に冴子の背中が俺を守るように立ちはだかっていた。冴子の肩越しには、階段を降りた先に続く三階の廊下が見える。墨を流したような闇の奥に、一つの黒い人影が悄然と立っていた。

 目を凝らし、その姿、目鼻立ちを解析してみると……

 スカートをはいた女子だ……うちの制服を着ている……あれは……

 ……黒田真奈美……か?

 その確信に達した直後のことだった。

 全くの不意打ちに、わが目を疑う現象が勃発した。

 俺達と黒田との間の空間に、鈍く赤い光を発する一つの物体が出現した。漆黒の闇の中で、それは、見間違いようも無い輪郭をくっきりと描いていた。

 真珠をあしらった砂時計……

 タケウマの身体を焼き尽くしたソリッド「亜麻色の髪のマグラトオ」だ。

 俺の頭の中に、その時起こっている「現象」が、スローモーションのように、細部までも鮮明に入ってくる。細かい理論は判らないが、あくまでも感覚的に、「情報を理解」できるのだ。

 「亜麻色の髪のマグラトオ」が微細な振動音を発し、「起爆」を開始する。

 赤い光が急速に強まり、巨大な光の球に変化していく。

 俺の全身に、氷のような恐怖が駆け抜けた。

 やべえ! 殺される!

 しかし同時に、冴子が肌身離さず持っていた、「あるソリッド」が起動した。

 服の下に隠れて、外から見ることは出来ない。首から下げた、ネックレスのようなものだ。様々な鉱物や金属があしらわれている。

 それは、俺達の周囲に、ある「壁のようなもの」を出現させた。

 恐ろしく強健な「壁」だ。

 「法学装甲」だって?……これは、そういうものなのか!

 それは、急激に膨張し、黒田が放った砂時計を弾き飛ばした。

 直後に、砂時計は「暴発」し、凄まじい轟音と共に爆風を発生させた。踊り場を、階段を、廊下を、真っ赤な突風が駆け抜ける。

 「法学装甲」で防御した俺達は、何とか無傷で済んだ。しかし、驚くことに、あれだけの爆風が吹き荒れたのに、校舎の方にも損傷が一切無い。

 攻撃を受けても「衝撃を逃がす経路」が、この空間には既に形成されているのだ。「スタンダード」を構築し、「都市を防衛する」というのは、こういうことだったのだ。俺は、ようやくそれを体感し、理解した。 

 まだ、爆風が収まり切らないうちに、冴子は俺の手を握ると、階上へと引っ張るように駆け上がって行った。

「走って、宗司君!」

 訳も判らないまま、俺は冴子について階段を駆け昇ると、すぐに四階のフロアに到着し、そのまま廊下を走っていった。

 気がつくと、冴子は名刺サイズの制御ボードを片手に持っている。親指をさかんに動かし、操作している。これで、さっきの「ネックレスのようなソリッド」を発動させたのか。

「どうすんだよ! あれ……どうすんだよ! あいつ……黒田の奴はどうなった?」

 俺は叫んだ。

 しかし、冴子の解答を得る前に、「目で見ることも無く」俺は状況を理解できてしまった。不思議と、手に取るように「情報が頭の中に入って来る」のだ。

 黒田は、予期せぬ爆風で吹き飛ばされ、下の階の廊下に倒れこんでいる。しかし、奴も一応の防御がされていたので、あちこち痛むようだが、これといった負傷は無い。

 やがて、ゆっくりと黒田は上半身を起こしていった。このままだと、すぐに俺達を追いかけてくるだろう。

 俺達は、「四階で一番東の部屋」の扉に辿り着いた。いつの間にか、冴子は茶色の小さな薬ビンを手に持っていた。それを下に向けると、さっきの校門の鍵を開けた鉛筆が、ポンと出てきた。こういう仕組みになっていたのか。様々なソリッドが、「縮小」されてあのビンの中に収容されているのだ。

 冴子は「合鍵」を使って、またもやあっさりとドアの鍵を開けた。

「前に、学校には確実に強力なソリッドが見つかる『本命の場所』があるって言ったでしょ。それがこの部屋よ。敵に怪しまれるから、ここを探すのは躊躇してたんだけど……」

 説明されなくても、俺はこの高校の生徒なのだから、そこが何の部屋かはすぐに判った。

 理科準備室……

 なるほど、確かにここなら……

 冴子は、急いで室内に入り、照明のスイッチを入れる。室内が明るく照らされると、すぐに保管棚を端から端まで探していった。使えるソリッドというのは、「化学薬品」のようなもの? それとも「鉱物」のサンプルだろうか? しかし、間もなく冴子が手に取ったのは、俺が予想もしていなかった、とある「実験器具」だった。

「あったわ。やっぱり思った通りよ」!」

「え? 何だよ、それって……『上皿天秤』じゃねえか!」

「そうよ。ソリッドネーム『岩窟王』……私が前の世界で一番多用してた、古典的攻撃ソリッド!」

 冴子は、そういいながら、ケースの列を物色している。

「これは駄目……ええと……これも駄目だわ……やっぱりろくな奴がないわ!」

「何だよ、これも使えないのかよ!」

「私がいた世界では、本来の用途としてではなく『岩窟王』というソリッドとして天秤を製造していたのよ。やっぱり、それとは訳が違うわ……でも、これは何とか使える?……」

 何十個も並ぶ上皿天秤の中から、冴子はいくつかのケースを選び出して手に取っている。

「宗司君もこれを持って行って! 黒田さんが来るわ!」

 俺も慌てて、選び出された天秤ばかりのケースを四つ持ち、冴子に続いて準備室を出ようとしたが……

「うわっ!!」

 廊下に出た所で、俺は思わず声を上げた。闇の奥から、ゆらゆらと近づいてくる黒田の姿が、準備室の中からもれる光で浮かび上がっている。気配は感じていたが、こんなに近づいていたとは! 弾けるように、冴子と俺は反対側の東階段へとダッシュした。しかし、それを駆け降りようとした刹那、二人同時にはたと足を止めた。


 下からも「別の誰か」が来る……? こいつも敵か……


 なんてこった!


 すると、逃げる場所は「屋上」しかない!

 踵を返して、今度は階段を駆け昇る。逃げる先は屋上しかない。階段を昇りきった俺は、屋上へ出るドアを体当たりするように開けた。

 真っ暗な屋上へと足を踏み出した途端、全身がまたも「危険信号」を感知した。

肉眼で確認する前に判った。ここにもいるのか!

 前方に目を凝らすと、暗闇の中でぼんやりと立っている人影が見える。今度は成人男性だ。

 次の瞬間、その敵がまたもや「亜麻色の髪のマグラトオ」を俺達の直前の空間に、フワリと出現させた。

「砂時計」は、微細に振動し、既に赤い光が放出されている。

「起爆直前」の状態だ!

 俺の視界の中で、スローモーションのように、砂時計が回転しながら空中を近づいてくる。

 しかし冴子は、今度はさっきの「法学装甲」を起動させようとはしない。

 接触通話で俺は叫んだ。

(おい、どうするんだ! また、あれが来るぞ! あぶねえ!)

(大丈夫よ、見てて!)

 冴子の手から、先ほど手に入れた天秤ばかり「岩窟王」がフワリとリリースされる。

 敵のソリッドが、真紅の光を放って起爆!

 しかし冴子も「岩窟王」を、その手前で同時に起爆させた!

 しかし、こっちは敵の物とは光の色が全く違った。

 これは……膨大なデータで「調整」されているのか? 鮮やかで複雑な「緑色」の光だ!

 鼓膜を引き裂かんばかりに、凄まじい爆音が轟く。

 俺は、生命の危機を覚えた。

 しかし、直後、俺はその場で何事も無く立ち続けていた。

 二つのソリッドの起爆は、殆ど爆風を起こすことも無く、シュルシュルと収束していってしまう。

 美術の授業で習った記憶がある……確か、「赤」と「緑」は「補色」になっているのだ。二つの「補色」の爆光は、互いを中和してしまったのだ!

 冴子の奴、最初の攻撃を受けてから、たったこれだけの時間で、こんな「調整」を完了していたのか! こいつ、天才だ!

 光が収束するに従って、視界も回復する。

 残光に照らされた敵の顔が、驚愕で歪んでいるのがはっきり見えた。

 間髪入れず冴子が放った、二つ目の「岩窟王」が、敵の眼前で起爆寸前になっていたのだ。

 そうか、敵の攻撃の衝撃を吸収すれば、こうやって、こちら側の攻撃を何発も「連続起爆」させられるってことなのだ!

 今度は、ブルーの光を放出し、空気を切り裂くような甲高い音と共に「岩窟王」が起爆する。

 咄嗟に、敵は周囲に強靭な「壁」を形成した! こいつも「法学装甲」を使えるのか?

 これに攻撃は阻まれてしまうのか?

 しかし、冴子の放ったソリッドの起爆は、たった一発で敵の「装甲」を木っ端微塵に打ち砕いた。敵の装甲を形成していた「情報」は、ばらばらに拡散してしまう。

 それを目の当たりにして、敵の表情が一変した。所が、敵も馬鹿では無かった。装甲を、急速に元の構造へと復元しようとしている。

 そこへ、敵に時間の猶予を与えることなく、さらなる「岩窟王」が!

ソリッドのリリースは、あらかじめ「三連発」に「コンビネーション」を組まれていたのだ!

 三発目の「岩窟王」の起爆!

 今度は、地を震わせるほどの重低音。天秤ばかりを中心に、ボール状の「空気の壁」が発生し、爆発的に拡散していく。

 なんだ、これは……

 通称「空気ハンマー」だって?

 同じ「岩窟王」でも、こんな形で「起爆」させることができるのか!

無防備状態だった敵の身体は、ゴムまりのような「見えない壁」の膨張をもろに受けて、空中に吹き飛ばされた。

 固いコンクリートの床で、したたかに身体を打ちつけられながら、男はゴロゴロと転がっていく。

 それっきり、敵は、うつぶせの姿勢のまま、びくともしなくなった。

冴子はすばやく男に駆け寄って行った。しゃがみこんで、身体をさぐると、ポケットから一冊の小冊子を取り出した。

「何だよ、それ」

「祠堂会の『基本教典』よ。これを持っていることが判ったから、こいつからは逃げないで攻撃したの。これを手に入れればこっちの物よ。スタンダードの基本構造をここから解析できるの」

 そう言いながら教典をめくり、とあるページに指をかけると、一気に引き破った。

 それと同時に、男の身体が電気ショックを受けたように、ビクンと震えた。

「何が起こったんだ?」

「教典と、この人との『接続』を切ったのよ。こいつら、半分自分の意志を奪われてたのね。祠堂がプログラムした通りに行動して、場合によっては攻撃もする自動人形よ」

「そうか……この人、見るからにただの函館市民だもんな。あんな『法』を使えるわけねえよな」

「まあ、命に別状は無いようだから良かったわ。空気ハンマーでも、ショックで死ぬことだってあるのよ」

 そこまで言った時、冴子の視線が俺の背後へ流れた。俺も、同時にいくつもの「殺意の存在」を周囲に感じとった。

 前方に目を凝らすと、さらに数人の人影が歩いてくる。そして、後ろを振り返ると、俺たちを追っていた黒田真奈美と見知らぬ男性も屋上へ辿り着いていた。

こいつはやばい、囲まれたのか!

「ど、どうするんだよ! これじゃ、ソリッドがいくつあっても足りねえぞ!」

「こうするのよ!」

 冴子は、今度は「あの薬ビン」つまり、「ソリッドの小型収納庫」から、ポンと一個の果物を取り出した。

 真っ赤な「リンゴ」だった。うちの冷蔵庫から拝借してたのか!

「宗司君、私におんぶして! 早く」

「お……おんぶだと? お、お前に?」

「ここで殺されたいの? 早くして! 私の背中から掴まればいいわ!」

 そこまで言われたら、ぐずぐずしているわけには行かない。俺は慌てて、冴子の背中から首に腕を回した。

「首絞めないでね! それから、胸も触らないでね! しっかり掴まってて! 目が回るから!」

「お、おい何すんだよ! 怖い事言うなよ!」

「だから、こうするの!」

 ボンッという、紙風船を割るような音と共に、冴子の掌の上でリンゴが破裂した。果肉と果汁が周囲に飛び散った。

 同時に、頭の中身をぐるりと引っ掻き回されるような感覚が襲って来た。

なんだ、これは。気持ち悪いぞ!

 いつのまにか、俺達の身体は、屋上のフェンスを越えて、空中に投げ出されていた。遥か眼下に地面が見える。いや、違う! これは「頭上」か?

 上下の感覚がおかしい!

 冴子は、校舎の外壁に対して、垂直にスタリと着地した。

そして、猛スピードで駆け降りる。いや、冴子の足は全く動いていない。

 これは「真横に落下してる」のか?

 地面スレスレにまで近づくと、再び頭がひっくり返る感覚と共に、俺達は地面と水平方向に滑っていく。いや? これも落下してるのか? 何が何だか判らない!

「何だよ~これは! 気持ちわりい~!」

「重力がかかる方向を変更してるの! あらゆる方向へ『落下』することで移動してるのよ」

 そう言いながらも、俺と冴子はグラウンドを「水平に落下」し続けていくが、ソリッドの効力は次第に切れていく。それは俺にもわかる。

 しかし、今度は進行方向に、ある「道具」が、ぽつんとグラウンドに置かれているのが見えた。俺達がそれとすれ違う瞬間、冴子はその「道具」をガッシと掴む。今度は何をする?

「今度も振り回されるわよ! しっかり掴まっててね!」

 その道具とは「ライン引き機」だった。

 二つの車輪がついていて、グラウンドを転がして白線を引く、あの「ライン引き」だ。

 冴子は、器用にバランスを取ってライン引きに両足を乗っけると、取っ手をハンドルのように両手で握り、猛スピードで校門を目指して急加速していった。

「そうか……ライン引き機に入っているのは石灰……これ、前にお前が言っていた」

「そうよ! チョークと同じ『リトル・ハックル』の同等品……『移動用のソリッド』よ。これ、いいわね! かなり効率が高い!」

 なるほど、冴子はこの存在に目をつけて、既に「調整」を済ませていたのだ。

 滅茶苦茶スピードが出る。どんどん加速していく。

 あっというまに、校門を出て、坂を駆け降り、函館公園も抜けた。市電の駅に近づくと、直角にカーブして、レールの方向へ「移動の軸線」を合わせた。

 その瞬間、前方に向かって、さらなる猛加速がかかった。

「す、すげえ! これ、どうなってるんだよ」

「実は、レールにも『調整』を加えておいたのよ。いざという時のために、これに沿って高速移動できるように!」

 とんでもなく、シュールな光景だ。夜の函館の道路の真ん中を、ライン引きに乗った高校生二人が、路面電車のレールに沿って、猛スピードで疾走しているのだから。

 線路前方に、同じ方向へノロノロと進んでいく車両の後ろ姿が見えた。

 どうする? このままじゃ、追突する?……

 ……と思ったら、冴子は巧みにハンドル操作をして、コースをずらし、あっという間に電車を追い抜いてしまった。こいつ、スピード狂でもあるんじゃ……?

 やがて、俺達は「堀河町」に到着し、そこからは直角にターンし、さらに俺の家「蕎麦処 玄助」を目指した。なんとか燃料の石灰がつきる直前、ライン引きは俺の玄関前に急ブレーキをかけて到着した。何事かと驚く蕎麦屋の客達を尻目に、冴子は俺の手を引いて店内を突っ切って家の中に入る。

「て……いうより、何すんだよ冴子! 俺の家に帰って……」

「出来れば、こんな事はしたくなかったけど、仕方ないわ! 今度こそ、絶対に私の手を離さないでね! 覚悟して、宗次君!」

 階段を駆け上り、俺の部屋に飛び込んだ。冴子は部屋の中心部にしゃがみこむ。例の薬ビンを下に向けて、とあるソリッドを取り出す。

 「ステンレス製のフォーク」だった。

 それを手に握り、大きく振り上げてから、床の一点へ狙いをつけて、思い切り拳を叩きつけた。

 フォークが、ぐさりと畳に突き刺さる!

 次の瞬間、ガラスが割れるような衝撃が俺の全身を貫き、視界が真っ白になった。

 そして、一切の感覚が消滅した。

 しかし、情報を感じ取ることは出来る。

 周囲の、いや「世界全ての情報が、砕け散っている」のだ。

 それらは、壊れて消えてしまったわけでは無い。情報と情報の「結合」が全て切断されて、散り散りばらばらになっている。

 世界が攪拌されていた。

 無数の情報のピースが、ミキサーでかき回されたように、空間をグルグルと舞い踊っている。

 一体、どれだけの時間が経ったのだろう。感覚が麻痺しているので、全く判らない。

 しかし、その状態も、ゆっくりと沈静化して行った。

 無秩序に浮遊していた情報たちは、それぞれに、収まるべき場所を見つけ、新たな形に結合されていくのだ。

 俺の胡乱な意識の中でも、それは何とか理解できていた。


 一秒にも、百年にも感じられる時間の流れの中で、徐々に正常な五感が戻って来た。

 身体の芯から底冷えがする……どうやら、やたらと硬く冷たい床に、俺は横たわっているらしいが……


 妙に暗い場所だな。ここは……どこだ……?


 建物の中……なのか?

 めまいに抗いながら、ゆっくりと気だるい上半身を起こした。左手で、冴子の手をまだ握っていることに気がついた。

「どこだよ……ここは」

 いまだ朦朧とした頭を振りながら、俺は隣で床に座っている冴子に話しかけた。

「判らないわ……」

「おい、何言ってんだよ。判らないって、これお前の仕業だろ? 一体何やったんだ?」

「この町のあらゆる『情報』を『再構成』して、あなたとあなたのご家族との『関係を切り離した』のよ。祠堂が構築中の『函館スタンダード』がガチガチに完成していない状態だからこそ出来る荒業なんだけど」

 言っていることの意味が判らなかった。

「関係を切り離した?」

「そうよ。私の存在が、敵に知られてしまったわ。あなたのように、スタンダード形成を阻害する存在がいるだけなら、祠堂もそれほど必死になる必要は無かった。私のような『学者』が、自分と同じ世界から送り込まれているとは、思ってもいなかったのよ。でも、こうなってしまったら、あなたのご家族にも危険が及ぶわ」

「それで、『関係を切り離した』って? じゃあ今、俺の家族はどうなってるんだ?」

「どこにいるのかは判らないけど、今でも家族として住んでいらっしゃるわ。でも、『今の宗司君とは、赤の他人』なのよ」

「はあっ……? 赤の他人だあ? じゃあ、今の俺はこの町で、どういう立場の人間って『設定』になってるんだ?」

「ホームレスの少年ね。苗字を持たない、ただの『宗司』という名前の……」

「マ、マジ? じょ……冗談じゃねえよ! お前、そんな事よく平気で言えるな!」

 俺は立ち上がって、辺りを見渡した。真っ暗でよくは見えないが、周囲にやたらと物が多いことは判る。人が住んでいるという雰囲気では無い。大きな引き戸があり、その傍に照明のスイッチがあった。オンにすると、すぐに蛍光灯がチカチカとついて、部屋の内部が明らかになった。

 これは……物置か? 何やら、学校の備品のようなものが沢山積んである。一体、これはどこにある何の建物なのだ。

 大きな引き戸に手をかけて、ガラリと開けてみる。

「な……!」

 外は真っ暗で、見通しは悪かった。が、そこがどこかは、俺には一目瞭然だった。

「……ここって……また、ヤマ高じゃねえかよ!」

 どう見ても、眼前にあったのはヤマ高の北校舎だ。しかし、自分がいた場所を外から見てみると……こんな物が学校にあっただろうか…… 物置小屋のような粗末なつくりの建物が、敷地の隅に出来ているのだ。

「なるほど……こんなことになっちゃったのね……」

 冴子は、顔色ひとつ変えず、他人事のようなことを言う。俺は、これには流石に頭にきた。

「なっちゃったのね……じゃねえよ! お前がやったんだろうが!」

「まあ、落ち着いてよ。私は、宗司君の家族に関すること以外は、何がどうなるか、やってみるまでは全く判らなかったのよ。できるだけ、私たちが敵に見つからない場所に移動できるようにはしたけど」 

「何言ってんだ。また、ここに戻ってきちゃったじゃねえかよ! 連中がまだいたらどうするんだよ」

 俺は急に恐ろしくなり、慌てて物置小屋の中に入って、ドアを閉めた。冷静に考えれば、中の方が安全という保障は無いわけだが……

「でも考えて見れば、ここは敵が一番『予想もしない場所』だと思うわ。だから、理には叶ってるのよ。一応、私達の居場所を誤解させるようなダミーの情報を、餌としてばら撒くようにしてあるから、しばらくは大丈夫よ」

「お前はこれまで、俺の部屋であれこれと訳の判らない作業してたけど、『これ』のためだったんだな……」

 感情的には、冴子に文句を山ほど言いたかった。しかし、こいつに命を救われたことも確かなのだ。そして、俺の家族の安全を確保しなければならない、という理屈も理解できる。しかし、突然ストリートチャイルドになってしまったというのは、余りに理不尽な仕打ちだ。

「で……これからどうするんだよ」

 俺は、崩れ落ちるように床にへたり込んだ。身体の力がすっかり抜けてしまった気がする。

「まずは、これを肌身離さず持っていて」

 冴子の手には、例の「ネックレス」が握られていた。さっき、校舎の中での戦いで、敵の攻撃を防いだソリッドだ。存在は「感じていた」が、現物を肉眼で見たのは初めてだ。

「お前……それ、重要なソリッドだろ。『法学装甲』を生み出す」

「凄い! 説明しなくても判ってるのね。宗司君、やっぱり能力が上がってるわ。そうよ、私が『こっちの世界』に持ち込むことが出来た唯一の強力なソリッド。私がカスタマイズした、虎の子の法学装甲『ナクソクス』よ」

 俺は、冴子から「ナクソクス」とやらを受け取った。直接手にした瞬間、それの凄さが初めてわかった。目玉が飛び出るほどの金額が注ぎ込まれてる。こっちの世界で換算すると……数千万円(!)……位か?

「おい……! これ、とんでもねえ代物じゃねえか! お前が持ってなきゃ駄目だろ!」

「違うわ。だから、あなたが持ってないと駄目なのよ。私は自分の身を守れるけど、あなたは守れないでしょ。あなたが防御されて無いと、私にとって足かせになるのよ」

「そうか……確かに俺は足手まといだもんな……」

「それ持ってるだけで、自動的にかなりの攻撃は防げるわ。壊れるまでの話だけどね」

 なるほど。使うたびに消耗していくということか。つまり、壊れないうちでも、攻撃を受けるたびに、数百万円単位で価値が消耗していくってことだろうか。庶民の俺には、身震いが起きるような話だ。しかも、使い切ってしまったら、その後は身を守る手段が一切無くなってしまうということだし。

 自分が置かれた事態を把握して行くうちに、急に心細くなってきた……

「で……今こっちに『手持ちの弾薬』はどれだけあるんだよ。戦いに使えるソリッドは……?」

 冴子は床に座り、「薬ビン」からポンポンと天秤ばかりのケースを取り出した。

「さっきの戦いで三つ使ってしまったから、残ったのは三つね」

「たった三つ……? でも、メロンの種があるじゃねえか。あれ何百個もあるだろ」

「それが、悪い知らせなんだけど、これって精査してみたら、一つ一つは大したことないわね。大量に並列連鎖させて、五回分位がいいところかしら」

「大枚はたいて夕張メロン買って、たった五発分かよ……難しいもんだな」

「一応、さっき『情報が再構成』される過程で、何かめぼしいものが見つかるかと思って、探したのよ。こんなものが『近くにやってきた』から、咄嗟に手で掴んだんだけど……」

 そう言って、冴子は十センチ位の大きさの「石」を取り出した。しかし、特に希少な鉱物とは思えない。正しく、何の変哲も無い「石」だ。俺は、冴子が差し出したその石を手に取ってみると、即座にそれが持っているポテンシャルの量が実感できた。

「ああ……確かにこれ『結構強い』な。でも、これ一個だけじゃ知れてるだろ。メロンの種単体と、どっこいどっこいじゃねえか?」

「正解だわ。宗次君、本当に良く判るようになったわね。確かに、これ一個じゃ使い物にならないわね。でも、どういうわけか妙に強いのよ。なんだか気になるから、一応『チューニング』しておくわ」

 そう言いながら、冴子はせっせと石に情報を入力していく。

 具体的な数を把握したおかげで、俺はさらに暗澹たる気持ちになった。敵は資金もソリッドも無尽蔵にあるのに、こっちは合計八発分の攻撃ソリッドしかないとは。

 しかし、待てよ……俺達は、学校に戻ってきたんだ……

「おい、理科準備室が近くにあるじゃないか。天秤ばかりはまだあっただろ。あれ取りに行こうぜ」

「もう、使えそうな奴は全部抜き取ったわ。他のはガラクタ同然よ」

「行って見なきゃ判らねえだろ。ガラクタだって無いよりましだろうし」

「多分、連中が全部取って行ったでしょうね。私達にめぼしいソリッドを使わせないために」

「確かに……それは言えてるよな」

 それでも、念のため俺達は、理科準備室に再度行ってみた。案の定、天秤ばかりはもちろん、鉱石の見本や薬品類などの、雑用のソリッドとして使えるものまでが見事に消えていた。敵も馬鹿では無いのだ。

 物置小屋に戻ってきた俺は、現状を考えれば考える程、絶望的な気持ちになった。

 しかし、冴子の表情はいたって平常心に見える。一体なんて奴だ。こいつの肝の据わり方は尋常じゃない……

「でも、明るい材料はあるわ。宗司君、あなたの能力が上がってるのよ。雑用のソリッドも含めて、一通り渡しておくわ。使える状況になったら使って見るといいわ」

 冴子は、いくつかのソリッドを、「巾着袋」につめると俺に渡した。一応受け取っておいたが、感謝するというよりは、当惑の方が大きかった。

「な……何言ってんだよ。俺はソリッドの『起爆』なんて出来ねえんだぞ。何が起こってるのかが判る程度のことで……別に能力が上がってるなんてこともねえし……」

「上がってるわよ。さっき宗司君と肌合わせていて、凄くわかったわ」

「お前……エッチな事言うな……そういうもんか?」

「ええ。今日一日腕を組んでいた成果だと思うわ。だから、今日はもう眠りましょうよ。手をつないでね。睡眠学習をするのよ」

「手をつないで?」

「そうよ。あと額もくっつけ合ったほういいわね。それが一番効果あるのよ」

「ひ……額をくっつけて眠る? お、お前と?」

「そうよ。忘れちゃいけないけど、『函館スタンダード』の基本階層は、殆ど完成直前なのよ。その後で上位階層まで構築されたら、勝ち目は完全にゼロよ。だから私達、本当に時間が無いのよ」

 俺は、何度目かの深い深いため息をついた。

「判ったよ……俺も色々疲れたし……ここで眠れるかどうかは判らねえけどな……」

 かくして、(擬似)人生初デートの結末は、野宿同然に物置小屋で眠るという、何とも情けない形になってしまった。

 俺達は、向かい合って横になった。横断幕など、枕や布団に出来そうなものを探し出して、少しでも寒さをしのげるようにした。手と手をつなぎあい、おでこをくっつけた。

 この様子は、傍からはどれだけ熱愛中の恋人に見えるだろうか……

 ものの五分もすると、冴子は寝息をスースー立て始めた。こんなに寝つきのいい奴だったとは……しかも、こんな状況で。

 物置小屋の室内は容赦なく寒いし、コンクリートの床は固い。とても眠ることは出来そうも無いと思っていたが、それでも、しばらくすると疲れきった俺の意識は徐々に沈み込んで来た。

 同時に、脳の中に様々な情報が飛び込んでくる。

 様々な視覚情報、聴覚情報、そして記憶情報。


 見たことも無い建物……町並み……

 そこで、見たことも無い服装で歩き、生活する住人達。

 これは……冴子が生きてきた世界? きっとそうだ。それが鮮明に伝わってくる。

 そして、図書館の中で、大量の本に囲まれて勉強する小さな女の子。


 これは……幼い頃の冴子……か?


 間違いない。今と顔がそっくりだ。

 ただし、名前は「冴子」じゃないらしい。

 ええと……このときの名前は……? それは、よく判らない……


 今度は食事の風景……

 何だ? 何かを食ってる……盛りそばだ……嬉しそうに盛りそばをすすり「モーリ・ソーバは人類が生み出した、究極の料理よおお!!」とか言いながら、バンバン机を手で叩いている。

 本当に、そんな幼児だったのかよ、冴子…… すげえ嫌過ぎるけど…… 

 俺は苦笑してしまった。小さくても、他の世界に生きていても、やっぱり冴子は昔から冴子だったのだ……

 そして、これまでの、あいつが辿ってきた人生……

 それが判ってしまった……

 こいつのいた世界の国々にとって、「法学」こそは軍事力であり、外交力でもある。だから、優秀な学者を育てることは、国家にとって死活問題なのだ。こいつはあまりにも優秀だったため、幼い頃から家族から切り離され、徹底した英才教育をされてきた。

 遊び相手なんて誰もいなかった。周囲は、歳の離れた大人ばかり。来る日も来る日も勉強ばかりの毎日。

 楽しいことといえば、食べることだけ……


 それでなのか……


 だからなのか……


 単なる知り合いなら、大勢いた。しかし、友達も家族も……そう呼べるような者は一人もいなかった。

 ようやく判った……

 こいつは、俺の家に来て初めて家族を得たのだ。ヤマ高の生徒ということになって、初めて友人を得たのだ。

 俺はさっき展望台で、この戦いが終わったら元の世界に返るのかと、冴子に言った。

 残酷なことを聞いてしまった。

 こいつは、本音では帰りたくないと思っていた。

 前の世界に、楽しいことなんて何も無かったのだ……

 様々な記憶情報と共に、始終俺の心に流れ込んできたのは、冴子が抱えてきた底知れない寂しさだった。

 気がつけば、俺の目から涙が溢れていた。

 我とも無く、華奢な冴子の手を握り締めていた。

 俺もたいがい涙もろい人間だ。アニメに感動しては、ドラマに感動しては、いちいち涙ぐむ。

 しかし、これまでに「誰か他人のために涙を流したこ」とがあったのだろうか、と思い返してみた……

 思いつかなかった……

 そんなことは、ついぞ無かったのかもしれない……

 しかし、この夜。

 俺は、一人ぼっちの冴子のために泣いた。

 泣けて泣けて仕方なかった。

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