第4話「鳥そぼろご飯」

 その次の朝、俺は再び、パチパチパチという音によって目を覚まされた。

 身体を起こすと、冴子がまたもやプログラムそろばんと制御ボードとやらを手にして作業をしている。

「おはよう、宗司君」

「あ~おはよう~加納」

 低血圧の俺は、ふにゃふにゃした声で答えた。

 今日もか……一体、「この作業」は何なんだろう。

 冴子の様子をぼんやりと眺めているうちに、少しずつ意識が明瞭になってきた。俺は、にわかに重大な問題を思い出す。

 そうだ……そういえば、携帯は? メッセージの返信はどうなった?

 俺は枕元のスマホを手に取った。はたして、画面には新着メッセージの表示があった。

 受信ボックスを開ける。新着は二通あった。一つはアキヤからの物、どうせ雑用だろうから、こんなものはどうだっていい。

 問題は、もう一つ……

 紗枝からだ……

 にわかに拍動が高鳴る。まるで、裁判所で判決を下される直前の被告のような気分だ…

 恐る恐る中を開けてみると……


「こっちは毎日が楽しいよ。食事も美味しいし、クラスメートもいい人ばかりだし。でも、宗司君に会いたいよ……そっちの新しいクラスメートはどう? あ、可愛い子が一緒になっても、浮気とかしちゃだめだよ~」


 読み終わった途端、俺の目頭から、熱い涙が滲んできた。

 紗枝……良かった……

 あいつは、やっぱりまだ俺の彼女だ……彼女でいてくれた……

 ひょっとして、この町の奇妙な「設定」は、遠く離れたイギリスまでは通用しないということなのかもしれない。

 ふと、横を見ると、膝を崩して座っている冴子の後姿があった。昨日と同じ格好なのに、妙になまめかしく感じられた。

(浮気とかしちゃだめだよ~)

 紗枝からのメッセージが頭をよぎり、身震いをした。

 いやいやいや、俺は、浮気なんぞ断じてしていないし、これからもしないのだ。こうして、冴子と朝から同じ部屋で過ごしているのは、偶然と怪奇現象のせいに過ぎない。

 たまたま、パジャマの襟元にのぞくうなじとか、座ったヒップの柔らかなラインとかに劣情をもよおしたりしても、いや、はっきり言えばもよおしているのだが……それは一時的な生理現象に過ぎないのであって、恋愛感情では決してない。

 そう、俺の彼女は断じて紗枝だけなのだ。

 それが判明したことで、俺は俄然活力が沸いて出た。昨日とは、まるで別人と言って良いほどに。

 しかし同時に、別の側面でも、俺の肉体は昨日までとは全く変わってしまっていたのだ。

 朝食を食べて、身支度をして、いつもの様に登校していく過程で、「それ」が徐々に判ってきた。

 昨日までは、自分の周囲から伝わってくる「違和感」は、ひどく漠然としたものに過ぎなかった。しかしどういうわけか、今日は自分の肉体の中で、それらはもう少し具体的な輪郭を描けるようになったのだ。

 例えば、今朝も函館公園で、祠堂会が集会をしている横を通り過ぎた。今回は連中の様子をじろじろ見ようという気持ちは、間違っても起こらなかった。彼らに近づくにつれて、ザワザワと首筋がうすら寒くなるような怖気を覚えたからだ。

それに気がついたのか、冴子が俺に声をかけてきた。

「どうかした? 宗司君」

「い……いや……別に何でもないけど……」

 急に冴子は足を速めて、自分の体で俺の姿を祠堂会からかばうような位置に移ってきた。

「そうね、気のせいよ。何でも無いから心配しないほうがいいわ」

 それは、決して彼らの外見などからくる先入観ではない。具体的に言葉では説明できないのだが、あくまでも大雑把なイメージとして、「彼らはやばい」と自分の中で確信できたのだ。

 今朝も、例の馬鹿げた「2C専用のロープウェイ」は、使わなかった。あくまでも階段を歩いて昇るルートを選び、校舎中央の下駄箱で上履きに履き替えた。昨日と同じように、教室への近道になる西階段は無視して、わざわざ遠回りになる東階段に向かうつもりだった。

 しかし、廊下まで歩いて行った所で、俺は何故か立ち止まり、無意識に左側を向いていた。

 教室を目指して廊下を歩いていく生徒たちの背中の向こうに「西階段」が見える。

「どうしたの? 宗司君」

 東階段へ行きかけた冴子は、少し遅れて立ち止まり、怪訝な顔で俺の方へ振り向いた。

「…………」

 昨日は、「西階段を使いたくない理由」がさっぱり判らなかった。

 しかし、今は違う。自分の中にあった、得体の知れない「怖れ」のような物が、一瞬だけれどフラッシュバックして、実体を垣間見せた気がしたのだ。

 もっとも、「それ」は、捉えようとした瞬間、あっという間に霧散してしまったのだけれど。

「いいや……何でもない。行こうぜ」

 俺は踵を返すと、その場から逃げ出すように、少し早足で東階段へ向かって歩いていった。

「あのさあ……」

 背後から冴子が声をかけた。

「ん?何だよ」

「何だか、宗司君、昨日よりもビンカンになってる気がする」

 思わず、リノリウムの床で足を滑らせそうになった。

「な……何だよ、そのエロい表現は。まだ、朝だぞ」

 俺は、前方を向いたまま、背後の冴子に返答した。

「そんな意図は無いわよ~ あなたって全く『極めて好色』なんだから」

「ちょ……その『極めて好色』ってのもやめろよ。人聞きが悪い! 周りに人がいるだろ」

「周囲から情報を読み取りやすくなってる気がするんだけど」

 図星だった。そこまで悟られているなら、隠しても仕方が無い。

「うーん……まあ、実はそうなんだよな……どういうわけか判らないけど」

 教室に無事に到着し、一時間目の授業が始まってからも、「その感覚」は一向に収まらなかった。

 四時限目。

 教室内には、田辺先生が読む下手くそな発音の英語だけが響いている。

 俺は周囲を見回してみるが……

 床や壁、黒板、窓やドア……

 やはり、そうだ。ここは、学校の他の場所に比べて「さらにおかしい」のだ。どうやら自宅や、教室など「自分に関わりのある場所ほど」より多く、複雑に異常を感じるということらしい……

 そう言えば、手で直接触れれば、この違和感はより明確になるのだ。自分の机の表面を、手の平でゆっくりさすって見る。

 これは……? この机にも「何か」が書き込まれている。

 昨日「鉄くぎに入っていた情報」と同じか……? だけど、こっちはやけに無秩序というか、支離滅裂な気がする。冴子が書き込んだという「情報」の方は、もっと理に叶い、整然としていた。その具体的な理屈は判らないのだけれど。

 今度は、クラスメート達の様子もうかがってみた。別に、目で見るわけでは無い。感覚を広げて、生徒たちの頭の中を探ると、感情の形とか、考えていることの輪郭が、何となくつかめることが判ってきたのだ。人の心をのぞくなんて悪趣味なことは、頻繁にやるべきでは無いのだろうが。

 目をつぶって意識を集中させる。誰がどんな気持ちなのか、何を考えてるいのかを、漠然とだがつかんで見る……

 アキヤの頭の中は、雑然としてる…… 先生の話はまるで聞いてないし、何も考えて無いに等しい。まあ、あいつはそんなもんだ。サトミは……? 授業に集中している……なんだかんだで、真面目な奴だな……ええと、冴子は……弁当のこと? まあ、確かに腹も減ってきたけど……

 様々な感情、思考が渦巻く教室の中で、妙にもやもやとした不快な感触を、ある一箇所から受け取った。

 まさか……これは……?

 間違いない……そこは、黒田真奈美の席……だ。

 視界を絞り込んで、黒田の中を集中して探ってみる。

 なんだよ、これは……

 中が真っ暗じゃねえか……感情も思考も、どんよりと停滞している……生命力がまるで感じられない。

 それでいて、しきりに行っていることがある……なんだ……これは……?


 何かを……探している……? 俺と同じように、あっちからも覗いている……?


 身体の中に、気味の悪い怖気がズルズルと流れ込んで来た。

 やべえ!

 俺は、慌てて「見る」のをやめた。窓ガラスをカーテンで覆うように、感覚を遮断したのだ。

 確証は無いが「感づかれた」気がした。

 黒田真奈美に……

 その時、丁度終業のチャイムが鳴った。先生が教室を出るのを待たずに、みんながガラガラと席を立つ。

 冴子は両手で弁当箱を抱きかかえ、満面の笑みで俺の方へ振り返った。

「宗司君、屋上に行きましょ! そぼろご飯が私達を待ってるわ!」

 ん? 今日の弁当は、そぼろご飯だっけ。こいつ……授業中ずっとそれが楽しみだったのか……

 冴子は、東階段へ向かって、ズンズンズンと大股で歩いていく。こっちもかなり気張って歩かないと、追いつけないほどの速度だ。

「そぼーろそぼーろそぼーろごは~ん うれしいな~うれしいよ~そぼーろごはんはおいしいよ~……」

 歩きながら、訳の判らない即興の歌まで口ずさんでる。そこまで嬉しいのかよ……

「さあ、これからが輝けるそぼろタイムよ!」

 屋上に上がり、昨日と同じベンチに座わりこむと、冴子は嬉々として弁当をほどいた。

「う……美しい!」

 歓喜の声を上げる冴子に少し遅れて、俺も弁当のふたを外した。確かに、卵そぼろと鳥そぼろで、きれいなツートンカラーになっていて、境界線には絹さやも少し盛ってある。あれでお袋も、彩りを少しは考えているようだ。

「そして、この屋上から望む絶景……幸せって海を見ながら食べるそぼろご飯だったのね~」

 などと、感極まった表情で、冴子はそぼろご飯に箸をつける。

 そういうもんなのか……俺も端の方からそぼろご飯を食べていった。まあ、不味くはない。どっちかと言えば美味いと認めてやってもいい。しかし、そこまで一つの弁当に幸せを感じられるものなのだろうか……そこまで食道楽でも無い俺にはやはり、ピンと来ない。

「ところで、宗司君がビンカンになったのってさ~」

「何だよ、いきなり話題を変えて、またそれかよ」

「昨晩、私が手を握ったことが原因じゃないかと思うんだけど」

「んん? そういうものか~? それは関係ないと思うけど」

「そうでもないのよ。肌が接触することで、ビビッと能力が伝染したりするのよ」

「ビビッとねえ~」

「宗司君、手握られたとき、エッチな気持ちになったでしょ? そういうのも関係あるのよ」

「そ……そんなことねえよ。あれは単に、手握られただけじゃねえか!」

「嘘言っても駄目よ~ 私だって、人の感情を読み取れるんだから。特に身体が触れていると」

 ……と、意地悪っぽく冴子は微笑んだ。

「……!! お、おい! 冴子、悪趣味だぞ。人の気持ちを探るなんて!」

「だって、仕方ないわよ。あれだけ強烈にエッチ波動を出されたら、覗きたくなくても判っちゃうでしょ?」

「そ……そういうものなのか? エッチ波動~?」

「それに、さっきの英語の時間、宗司君も、私の気持ち覗いてきたじゃない? それとおあいこよ」

「あ……わりい……気づくもんなのか……やっぱり」

 すると、冴子はいきなり座ってる場所を、ズズッと俺の方に寄せてきた。

 腕と腕が接触する。

 な……なんだ、こいつ……何すんだ、いきなり!

「今、私のこと『冴子』って呼んだでしょ。何で~?」

 そう言って、さらに意地悪い笑顔を俺の顔にグググと近づけてきた。

「え? そ、そうだっけ? いや……それは弾みで言っただけだ。気にするな」

 俺がそう言って、身体をのけぞらせた、その時だった。


(宗司君……なるだけ自然にふるまって。本当の彼氏みたいに)


 突然そんな声が、直接頭の中に響いてきた。な、何だ……?

(聞こえてる? 聴覚の神経に直接刺激を送って話してるんだけど。聞こえてたら、返事して。あなたなら、できると思う。心で声を出すと、こっちに伝わるから)

(心で話す?……ええと……こうか?)

(そうそう! うまいわ、良く聞こえる!)

(何だよ。突然こんなことして……)

(気をつけて。今、ドアの影に黒田さんがいるの)

(黒田……?)

(英語の時間、まずい事したわね。あなた、怪しまれたわ……)

 俺の斜め左後ろ、東階段へと続く鉄のドア。

 その向こう側に、女子生徒らしき影が確かにあった。

 振り返って目で見たわけではない。そんな「情報」を一瞬だけど、感じ取ったのだ。

 全身の皮膚の下を、あのうすら寒い怖気が這いまわる。鳥そぼろご飯をすくったまま、箸を持つ俺の手は硬直してしまった。

(怪しまれたって? 何でだよ。俺、何も悪いことしてないけど? 祠堂会を誹謗中傷したわけでもないし!)

(そういうことじゃないのよ。とにかく、気にしちゃ駄目。何にも気がついていない振りをして、ごく自然に振舞って)

(そんなこと言ったって……じゃあ、この会話もまずいんじゃないか? 奴に聞かれてないか?)

(これは大丈夫よ。私とあなたの身体の中だけで閉じ込めてあるから)

(なるほど……そういうもんか。それでくっついてきたのか……)

「まあ、今はこの絶品のそぼろを堪能しましょうよ。一期一会のそーぼろぼろ、そーぼろぼろ、そーぼろごは~んは美味しいな~」

 さっきとは全く違う節で歌を口ずさみながら、冴子は器用に鳥そぼろを、ご飯ごとごっそりとすくいあげて、口に放り込んだ。演技でも何でもなく、こいつの食欲は全く無くなっていないらしい。

 対するに、俺は、すっかり飯が喉を通らなくなってしまった。カルト教団の信者に監視されているとなると、のんびり食事をしている事態でも無かろうに。冴子は、一体どういう神経をしているのだろう。男の俺よりも余程肝っ玉がぶっといのかもしれない。

 幸い、弁当を平らげ、二人で階段を降りて行った時には、黒田真由美の姿はどこにも見えなかった。

 昼食を終え、冴子と共に教室に戻る途中で、俺はふと、恐ろしい仮説に思い至った。

「果たして、ヤマ高の生徒で祠堂会の信者は黒田だけなのだろうか」

 ……ということだ。もしも、複数の生徒が、俺の存在を警戒しているのだとすれば……

 想像するだけで身の毛もよだつ話だ。

 今の俺なら「情報」とやらを拾い集め、それを確かめることもできるかもしれない。しかし、それはあまりに危険な行為である。黒田の時のように、逆にこっちの行動を感知される恐れがあるのだ。

 そして放課後。

 遂に、そんな俺の疑心を裏付ける、恐ろしい出来事が起こったのだ。


☆             ☆


 今日は、俺、アキヤ、サトミの陸上部メンバーは部活の無い曜日だ。こういう時は、授業が終わった後は、しばらくクラスメートとだべり、話題が尽きた頃に三人一緒に下校するのが習慣になっている。冴子は部活があるようだったが、この曜日は俺と一緒に帰るために、毎週休むことにしている、「という設定になっている」らしい。

 下駄箱で下ばきに履き替えると、まだ部活が始まっていないグラウンドを横断して、四人で校門に向かった。途中、下校する生徒達を一杯に詰めたロープウェイのゴンドラがスルスルと俺達を追い抜いて行った。あれで帰る2Cの生徒は、乗車所に設置してある専用の下駄箱に上履きを置いていくようになっているらしい。つくづく馬鹿げた話だ。

 前方に、校門へ向かって進んでいく、一つの奇妙な人影があった。竹馬に乗って不器用にガッコガッコと歩く後姿の教師……言うまでもなく武馬だ。

 やっぱり登下校の時でも、あれから降りないらしい。見上げた根性だ…… どうしても普通に歩くよりは速度が遅いので、周囲の生徒にどんどん追い抜かれてしまっている。タケウマはその度に「いよお~ さよなら~」「さよなら~」という、例の妙なイントネーションで挨拶をしている。

 俺達も、やがて校門を抜けて山道を下っていこうとする辺りで、タケウマに追いついた。俺達にもてっきり「いよお~ さよなら~」と声をかけてくるのかと思った。

 しかし、聞こえてきたのは、奴の予想もしていなかった言葉だった。

「なんでだ……」

 誰に話しかけたわけでも無く、それは独り言だった。

 そして、その言葉の織りには、どこか悲痛な響きが潜んでいた。

「なんでなんだ……おかしいじゃないか……こんなの……」

 俺達も、周囲の生徒も、タケウマのただならぬ様子に気がつき、思わず奴の方を見る。

「こんな竹馬に乗ってるなんて……どう考えてもおかしいじゃないか! なあ、みんなおかしいだろ? そう思わないか? 何で、おかしいと思わないんだ! それこそおかしいじゃないか!」

 タケウマは、周囲にいる俺達生徒達に訴えかけるように叫んだ。そして、やおらに両足で、地上にスタリと降り立つと、竹馬を投げるように放り捨てた。

「こんなもんには、もう乗らんぞ! 食事する時も、寝る時も、トイレに入る時も竹馬の上だなんて……そんな竹馬人生はもうたくさんなんだああ!!!」

 おい……冗談でそんなことは想像したけど、まさか本当にそうだったのかよ! タケウマ……

 ただし、奴はそれを疑問も無く甘受していたのではなかった。心の底で、不条理だと理解していたのだ。

 やはり、そうだったのか……

 奴は俺と同じように、この奇妙な「設定」を受け入れてはいなかったのだ。

「逃げろ、みんなも逃げろ! こんな所にいたら、おかしくなってしまうぞ! う……うわああああ!!!!!」

 呂律の回らない声を上げ、狂気じみた形相で、タケウマはその場から走り出した。まるで、得体の知れない妖怪と遭遇でもしたように。

 背中を見せ、ダッシュで坂を下っていくタケウマ。

 その時、俺は確かに見たのだ。

 タケウマの背中の直後、それも空中に、忽然と浮かび上がる一つの「砂時計」を。

 それは、瞬時に「赤い光球」と化して、弾けた。

 続いて、地面を揺るがせる轟音!

 タケウマの全身から真っ赤な光がほとばしった。地面に倒れこみ、タケウマはのたうちまわる。

 燃えている。タケウマの全身が燃焼しているのだ。

 しかも、それは明らかに普通に見られる炎とは違っていた。火花や光を全身から噴出して、まるで「身体そのものが燃料である」かのように、肉体が肉体を焼き尽くしているのだった。

 生徒たちは、あまりに突然の出来事に、みな直後は呆然とし、やがてはクモの子を散らすように、悲鳴を上げながらタケウマの傍から離れていった。遠くにいた生徒たちは、すぐに異変に気がついて、逆に何事かと集まってきた。

 タケウマの身体の動きは、すぐに鈍くなっていった。手や足の一部が僅かに痙攣している。しかし、身体からは、まだ赤い光と煙が凄い勢いで噴出している。あれでは恐らくもう生きてはいまい。

 俺たちは、その恐ろしい光景を遠巻きにして立ち尽くしていた。

 生徒の数は際限なく増えていき、辺りは騒然となった。

「な……何が起こったんだよ!」

「判らない! タケウマが燃え上がった!」

「きゅ……救急車だ! だ……誰かもう呼んだか!」

「先生を呼んで来いよ! 早く!」

 無数の怒号と悲鳴が渦巻く中で、そんな声が聞き取れる。

 サトミは、恐怖のあまり泣き出してしまった。アキヤは呆けた顔のまま、完全に硬直している。

 冴子は……どこだ?

(宗司君。すぐにここを離れましょう!)

 ん……なんだ? 身体の中から響いてくるようなその声で、俺はようやく我に返った。冴子はすぐ隣にいて、いつの間にか俺の左手の甲を上から握っていた。例の「接触通話」で話しかけているのだ。

(で……でも、「これ」どうするんだよ! ほ、ほっといていいのか?)

(私達には、どうにも出来ないわ。それよりも、あなたがここにいると危ないわ。この騒ぎに乗じて、さっさとここは離れたほうがいい)

(そ……そういうものなのか?)

(さ、行きましょ! この騒ぎなら、松村さんと関本君からはぐれても不思議は無いでしょ)

 良くは判らないが、ここはきっと冴子の指示に従った方がいいのだろうと、混乱する頭で俺は判断した。俺達は、野次馬の波に紛れて、小走りで函館公園を目指した。冴子の手は、俺の手を握ったままで、ぐいぐいと牽引車のように引っ張っていく。公園入り口に入った辺りで、再び冴子の声が頭に再び響いてきた。

(あっちの道を通りましょ! 噴水広場は連中がいるかもしれない!)

 右手には、普段通っている噴水広場へ出る道の他に、函館博物館へ向かう道があるのだ。そちらを通っていけば、噴水広場には近づかなくてすむ。確かに、とてもじゃないが、今祠堂会の奴らの傍を歩く度胸は俺には無い。

 「青柳町」駅に辿り着き、路面電車に乗り込んだ後になっても、俺の胸の動悸は治まらなかった。それどころか、逆に冷静になってくるにつれて、事態の恐ろしさがジワジワと実感できてきた。

(死んだよな……あれ……死んだよな……? タケウマの奴……へんてこな手品で焼き殺されちまった……そうなんだよな……?)

(そうね……死んだわね。可哀想だわ……武馬先生……)

 その言葉と同時に、俺の手の甲を握っている冴子の手に力がこもった。

 彼女のか細い指から伝わる体温は、思いの外優しく、同時に力強かった。

 こんな非常事態なのに、ふと、その手をできることなら握り返してやりたいという、不埒な感情が、俺の頭の片隅を横切った。

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