五 落雷

 HFOの本社に行くと、その日から仕事が待っていた。今年は星間企業と契約し、その船団の一隻として漁をする。その調整を行わなければならず、メガンがかかりっきりになっていた。そのため、体を動かさなくてはならない仕事はディロン船長とふたりでする。

 経費節約のため、できるところは自分たちだけでやってしまわないといけない。消耗品の検収や積み込み、機器の総点検、メガンから送ってきた船団運航規則の頭脳への入力や、機器が安全基準に適合しているかの確認。仕事は、一つ片づける間に二つ増えていた。

 出漁前日、HFOは船団の端に位置し、母船との通信試験を行っている。これは手続き的なものでまったく問題はない。甲板からその母船に描かれている彗星商事のロゴがよく見えた。

 ケントは甲板で将来の予定を考えながら休憩していた。今年は網と延縄は全面的に禁止されたが、漁期が二週間延長された。漁獲が極端に悪くなければ、この漁期が終わったらじゅうぶんな貯金ができているはずだ。そうなったら申請書を出し、受理され次第地球へ行く。年末くらいになるだろうか。それから三、四年で高等教育課程を修了する。農学系の研究者になるか、企業に務めるかはまだわからないが、知識と技術を蓄えたらリルで実践する。

 輸入じゃない天然の食品。安くておいしく食べられる。コーヒー豆を育ててもいいかもしれない、いや、それはもっと余裕ができてから。はじめは穀物からだ。

「なに考えてんの?」

「当てられる?」

「将来についてだな。そういう顔してる」

「そんなに分かりやすい?」

 メガンは返事の前に笑った。

「一年たったのにそこは成長してないな。全部顔に出てる」

 とまどったような顔でじっと立っていると、となりにきてしゃがみ、種明かしをしてくれた。メガンによると、ケントが考える内容は、常に一度に一つで、仕事と関係ない話をするときはその話ばかりになる。だからいまケントの頭にあるのはこれだなってわかりやすい。最近は休憩や食事のたびに、地球でどうするとか、それからこうするって話ばかりだから、だいたいそんなところだろうって見当をつけた。

「あたしは、ケントのそういうところは長所だと思うよ。将来の姿を夢中で考えて、そこへ行こう行こうとしてる」

「メガンはどうなの?」

「あたしはHFOの経営者の片割れだから。いまと、近い未来の利益の確保が目標」

「仕事に夢中なんだ」

 メガンはすこし黙ってしまう。それからまた口を開いた。

「そうだな。いまは仕事しかないな」

 ピンが飛んできた。注文していた消耗品が到着したらしい。ぎりぎりまで搬入が続く。ふたりは荷物の受け取りに行った。

 カウントダウンは一分を切ったが、ケントは去年のように緊張しない。メガンとケントは甲板、ディロン船長は船長室にいる。

 今年は船団を組むのでゼロ時になるとともに機関全開で飛び出さなくていい。順番に出ていき、母船の周囲に散開してヨロイサバを釣る。それにはある程度以上の技術はいらない。仕掛けを投入し、かかったら合わせ、釣り上げて冷凍庫に放り込む。すべての工程は頭脳で制御可能だ。漁師がいるのは不測の事態に備えるためで、安全基準上必要だから船に乗り組んでいるにすぎない。会社や船当たりの竿の本数は決められているため、HFOのような零細企業は数を増やすために雇われているようなものだ。

 つまり、今年の漁は、始まるまでの準備が忙しく、海に出てしまえばそれほどでもないという、ケントにしてみればしっくりこない、おかしな仕事になっている。むろん、悪い仕事ではない、楽で安全、そして大儲けはないが大はずれもなく、確実な利益が上がる。漁師が大企業と契約して船団に入るのはもっともだと思う。

 ゼロ時。彗星商事の船団は統制のとれた生き物の群れのように港を出た。一団となって南の漁場へ向かう。ほかにも星間企業や大企業の船団がそれぞれの思惑で漁場へ向かっていく。HFOまで船団に加わった今年、独立して漁をする船は一隻もなかった。リルの海には星間企業か大企業の母船と、その周囲に散開する中小零細企業の船だけが漁をしていた。

 HFOは彗星商事船団の安全基準を満たすため、機器をさらに一新し、中身はほぼ新造船と言えるほどに仕上がっている。借金は昨年に続いて一漁期では返済できそうにないが、メガンの試算では無理な返済にはならない。漁協もいままでの返済実績と、星間企業の船団に加わるという点を良しと評価し、低利で貸しつけてくれた。

 ディロン船長はあまり口出しをしなかった。今年の漁の計画はほとんどメガンが立てた。船団に加わるのもメガンの提案だった。

「ばくちは控えよう。去年みたいな冒険は一度っきりでいい」

 漁場に到着し、竿が自動でヨロイサバを釣り上げているのを見ながら漁獲や利益の話をしていると、ケントにそう言った。

「去年はいろいろありすぎた。おまえにけがをさせたり、危ない仕事をさせたり。おまけに秋冬の海を教えてやるって大口叩いたはいいが、嵐にちゃんと対応できなかったし」

 ケントが見上げていると、さびしそうにつぶやく。

「これからはメグにまかせていこう」

 ゴーグルに表示される情報は明確で、海中図はノイズなしに描かれている。陸の景色を見るのと変わらない。たしかにここでは『勘』は必要ないし、ばくちを打たなくてもいい。こうして会話をしている間にもヨロイサバが放り込まれる音が途切れない。

 じゃあ、なぜディロン船長はさびしそうなんだろう。ケントにはわからない。順調なのが不満だなんてあり得るのだろうか。

 それからメガンも変わった。これはいい方に変わったのだが、陸の本社では無頓着にとなりのシャワーに入ってこなくなったし、HFOの作業区画には折り畳み式の簡易仕切りを持ち込んで、その中でバイオジェルを塗るようになった。頭を小突いたりなでたりする癖は変わらないが、すこしでも良くなったのにはほっとさせられた。

 陸では姉夫婦は相変わらず忙しいようだ。義兄はさらに昇進が予定され、姉は在宅で統計処理の仕事をしているが、仕事の切れ目がないと言う。政府、というより実質は治安維持軍が次々に打ち出す政策を実行するための兵隊のようなものだった。五年間は耐えようというのが合言葉になっているが、監視期間が延長されたらどうなるか、だれも考えようとしていない。

「漁師になんなよ。漁も大変だけど、話聞いてると政府よりましだよ」

 ケントが冗談を言うと、姉たちは力なく笑った。とくに義兄が心配だ。急な昇進が続き、心の疲れが取れていないようすが顔に表れている。

「昇進、断れないの?」

「でも、人がいないからな。それに、社会に対する責任がある。きついコーヒーがほしいよ」

「休暇をとったら?」

「そうよ。ケントからももっと言ってやって。あたしもそう言ってるんだけど」

 姉は心配そうにしている。景気は、統計を見るかぎりでは上向いているが、いい上向き方ではないように思える。フィンの受け売りでそう言うと、ふたりとも同意した。それから、お互いの体を気づかって話は終わる。もうそれがいつもの会話の型になってしまっていた。

 漁の合間に空を見上げると、十字がいつも旋回している。漁協は抗議しない。リルの政治の仕組みのなかでは一番発言力を失った組織だろう。真偽は明らかではないが、数社が今年の漁期を見送ったのは所属する漁師の病気のせいじゃなくて、漁協に変わる新組織を立ち上げようとして軍に牽制されたからだといううわさが広まっていた。

「勉強とか、必要なら仕事中でもやってていいよ。竿は頭脳まかせで問題なさそうだし」

 甲板でヨロイサバが釣り上げられるのを監視していると、メガンがそう言ってくれた。規則で漁の間はだれかが見張っていないといけない。いつもメガンと見張りで、ディロン船長が室内で連絡の処理や事務仕事をしている。

 仕掛けから送られてくる海中情報は変わらず明瞭で、勘を働かせないといけない部分はない。海中図も矛盾なく描けている。

「明日は雨になりそうだ」

 メガンが天気予報を読み上げた。

「この季節に?」

「気象予報じゃ雷に警戒だって」

「信じられない」

 だが、めずらしく予報は当たり、翌日は激しい雷雨になった。母船からの指示で漁は中止。竿などは格納するようにと連絡があった。

 みんな船内に閉じ込められ、機器の点検など、退屈しのぎにすぐやらなくてもいい作業をしている。

「安全基準があるのはいいが、きびしすぎやしないか」

 ディロン船長が空調機を点検しながら、だれに言うのでもなくつぶやく。

「船団に入ったんだから、まあ従おうよ」

 メガンがなだめながら、画面に流れる報道の音量を大きくした。今日到着した連絡艇が運んできた他星系の最新情報だった。治安維持軍監視下の星の情報もある。いままで無関心だったが、自分たちと同じ境遇かと思うとつい見てしまう。

「リルも、こんな風に報道されてるのかな」

「だろうね。治安維持軍によって平穏を取り戻し、好景気の期待にわく市民って見出しがついてるよ。きっと」

 ディロン船長が鼻を鳴らす。ケントは暴動のときのあの報道の仕方を見ているので、いま画面を流れている記事をそのまま信用する気にはなれなかったが、それでも情報はこれしかない。

 地球発の情報もあった。ケントは手を止めて見てしまう。しかし、そのなかのひとつはほかのふたりの目も引いた。

 リルから保護協会が持ち込んだ鎧甲類試料の詳細な分析結果によると、不老長寿が実現する可能性があるという内容の記事だった。鎧甲類のうち、ヨロイオキアミなど小さく浮遊性の数種から採取された体液中の微量成分に、霊長類の老化を完全に停止させる作用が認められたらしい。記事は、現在は頭脳での臓器シミュレーションのみだが、この結果を受けて培養細胞の使用や動物実験を行いたいと申請中で、許可されしだい実施される予定と締めていた。

「ほんと?」

 メガンも手を止めて見ている。

「こういうのは話半分に聞いとけ。ヨロイユウレイイソメの時がそうだった。抗老化作用があるっていって大騒ぎになったけど、結局は、老化に伴う症状の一部を緩和する、って程度に終わった。製薬会社の連中は、それを抗老化剤なんて言って高値で売ってるけどな。これもそんなもんさ」

「でも、いまさらこんな発見されるなんて、ますます漁協の肩身が狭くなるね」

「まあそう言ってやるな。ケント。地球の研究所の機器でやっと検出できた成分の話じゃないか」

 メガンは記事をまた最初から再生して見ている。

「ほんとだ。ごくごくわずかな成分をひろったみたいだね。それにまだ臓器シミュレーションに適用しただけだし。思ったより大したものじゃないかも」

「だろ。大げさな見出しだけど、内容はちょっぴり。期待を持たせるけど、だんだんおとなしくなっていくさ」

 雷雨はまだおさまらない。三人は報道を流しっぱなしにして、また作業にもどった。

 しかし、その報道はおとなしくなるどころか、続報が入るごとに扱いが大きくなってきた。

 次の報道では、動物実験は許可されなかったが、各研究機関が協力し、さらに精密で、各臓器の連携をとらせたシミュレーションを行って同様の結果を得たと発表された。

 さらにその次では、星間企業や投資家からの豊富な資金提供の結果、人体同様のシミュレーション上、および培養細胞で効果が確認されたと伝えてきた。

 こうなると、ディロン船長のように、どうせ大したものではないだろう、とたかをくくっていた人々も注目しだした。その声は世論となって星間社会を動かし、霊長類を用いた実験が許可された。

 実験は資金提供団体が早急に結果を出すよう求めたため、合法だが倫理面で非常に問題のある手法が用いられた。それに対する抗議は世論を味方につけるのに失敗した。

 注目を集めた実験結果は、老化停止作用を実証したと発表された。種によって異なるが、成分が体内で一定の濃度範囲にある間は老化が進まない。脳神経系を含めた組織や細胞は正常に活動し、分裂や代謝を行い続けるが、正常な範囲を超えて増殖したり、癌化したりしない。

 今後の課題として、この成分を長期間連続して取り続けた場合や、すでに病気だったり、成長途上だったりする個体に与えた場合など、さまざまな条件下での実験とともに、有害な副作用がないかどうかの確認に実験の目的が移っていった。また、不老となると数百年、数千年単位の投与を想定しなければならないが、そのシミュレーションを行うために頭脳の計算時間が買い集められ、相場は高騰した。

 研究をあまりにも急ぎすぎである、社会に与える影響を考慮しつつ、もっと慎重に、という批判は小さくはなかったが、老化の完全な停止、という効果は、とくに中高年層以上を突き動かした。星間社会全体が熱に浮かされたようになり、あせっていた。実用化に間に合うかどうか、それも元気なうちに間に合うかどうか。一部の高齢者は臨床試験への参加を求める運動を始めている。

 惑星リルは、ちょうど台風の目のようになっていた。これに関する混乱を防ぐため、治安維持軍はより強い態度で任務を果たしている。連絡艇は増便されたが貨客船は従来のままで、外惑星人の降下は制限され、他星からの政治家や科学者、報道機関の関係者のみ地上に降りていた。

 その頃、星間社会に浮上してきた問題が、リルをどうするか、だった。老化を停止させる成分の合成にはまだ成功していない。効果が効果なのでそれについては経済面をほぼ無視して研究されており、いずれは成功するだろうが、それまでどうするか。また、合成に成功したとしても、保険としてリルの環境を保全しておいた方がいいのではないか。そういう意見が目立ってきた。

 幸いにもヨロイオキアミなどの老化停止成分を含む鎧甲類は、これまで有用成分なしとして無視されてきたので、急な絶滅や個体数減少の懸念はなかった。むしろ、海面をただよう集団を目の細かい網ですくえば柄がしなるほど入ってくる。

 しかし、このまま人類というリルの自然環境と無関係の種が暮らし続けて悪影響はないのか。貴重という言葉では表せないほどの、たまたま人類に与えられたこの宇宙の恵みをただの居住地として漁をさせるままにしておいていいのか。星間社会はそう声をあげていた。

 漁師たちは報道を横目で見ながら、毎日漁をしていた。自分たちの問題が、自分たちと関係ないところで議論され、決定が下されていく。それに不満がないわけではないが、そもそも問題が大きすぎてなにがどうなっているのか、どう手を打てばいいのかわからない。それより、目の前の仕事をしよう。そういう雰囲気だった。それに、なにか活動をしようにも、治安維持軍ににらまれるのは避けたい。

 そのうちに延長された漁期が終わり、HFOや他社の漁船は乾ドックに入って整備を受けている。陸に上がった漁師たちは、今後のリルについての取材や、とりあえずなにか映像を押さえておこうとする報道機関にいらいらさせられていた。

 ケントはHFOでの仕事を終え、姉夫婦のところに居させてもらっている。リル市にいると、せっかく落ち着いてきた世間がまた騒がしくなってきたのを敏感に感じる。

 貯金はじゅうぶんにあり、優等の奨学金と合わせれば地球行きには問題ない。教育機関は三つに絞り込み、申請書を送った。後は返事を待つだけだ。それまでは休暇と思って勉強しながらのんびり過ごす予定を立てた。決まれば、船が取れ次第リルを出る。十年は帰ってこないかもしれない。いまのうちになにを見ておこうか。

 そこへ、メガンからハイキングに行こうと誘いが来た。山に登って、ついでにふもとの植物園によろうと言う。ケントは誘いを受けた。

 翌朝、ハイキングコースのリル市側の口に行くと、もうメガンが来ていた。ゴーグルは作業用のごついものではなく、顔全体がよくわかる。

「おはよ。なに? それしか持ってないの? 作ればいいのに」

 はっきり言うなあ、とケントは思った。なんでゴーグルやマスクをいくつも作るんだろう。仕事用と普段用でいいじゃないか。

「おはよ。行こうか」

 ハイキングコースをゆっくり上る。道の両脇の木や草は地球とおなじで太陽光から栄養を合成しているが、色は濁ったような、ぼけたようなはっきりしない緑や青に、赤や紫が混じっている。それでも、環境のなかでの地位は地球の植物に相当するので、リルではこれらを木と呼び、草と言う。

 風はあまり強くないが、常に吹いている。木が密生しているので市内や漁港よりむしろおだやかな気候だ。道幅は大人がやっとすれ違えるくらいだが、だれもいないので横にならんで歩いた。

「学校、決まった?」

「まだ、申請書の返事待ち。早くて来週。たぶん再来週くらいかな」

「じゃあ、もう今年中に地球にいるんだ。早いね。あんたが面接に来たのが昨日みたい」

 道はだらだらと曲がりくねっている。あまり急勾配にならないように、また、わざと先を見通せないように作ってある。それほど高い山ではないのだが、頂上の休憩所はなかなか見えてこない。

「あの時は落とされまくってて、あせってた上に暗かったな」

「ああ、そんな顔してた。じいさんは生きのいい若いのをほしがってたから、あんたは年齢で雇ったようなもんだ」

「それ以外取り柄なかったし」

「仕事覚えは早かったよ。おかげで助かった」

 舗装が終わり、わざと地面をむき出しにした山道になる。石や木の根ででこぼこになっていて、足が慣れるまですこしの間ふたりとも無口になった。

「お姉さんは? 元気にしてる?」

「うん、元気……、だけど、義兄が役所勤めだから、いろいろ大変みたい」

「だろうね。こっちは変わりない。じいさん、昔の友達のところへよく出かけるようになった」

 頂上の休憩所は気密ではなく、腰をおろせるのと雨風をよけられる程度の小屋だが、眺めはいい。ほかに高い山もないのでリル市から海まですべて見渡せる。

 その時、いきなりメガンがゴーグルをはずし、じっと海を見てまたつける。

「子供みたい」

「たまにはゴーグルの縁や情報表示なしで景色見てみるといいよ」

 ふざけている様子はない。『ゴーグルはずし』や『マスクはずし』は子供がよくやる度胸試しだけど、それとはする意味が違うようだ。

 ケントもやってみた。時刻表示がなく、ゴーグルの縁で断ち切られたり、ゆがんだりしていない景色。本来の色。海とリル市を見回した。

 あまり長くはずしていると目が痛くなるのでほどほどでつける。外気を取り込んだのでこめかみあたりで換気の音が高くなった。ここくらい静かだと、そんな音もよく聞こえる。

「ひさしぶりにやったけど、いいね。これ。外って本当はこんな色なんだ」

「だろ。目には悪いけど、ちょっとくらい、な」

 しばらく休憩していると、風が強くなってきたのでおりた。ふもとの植物園でお茶にしよう。

 山にはだれも登っていなかったが、植物園にはけっこう人が来ている。

「混んでるね」

「特別展示が地球だから」

 入園して展示情報を読むと、『地球の香り』というテーマで匂いが特徴的な植物ばかりを集めたという。

 バラ、ジャスミン、ヘリオトロープ、ウメ、モモ、キンモクセイ。ほかにもさまざまな地球産の植物が展示されている。匂いの強いもの、弱いもの。良い香りと感じるのもあれば、あまり好ましくないのもあった。

「地球ってやっぱりすごいんだね」

 感心したようにメガンがつぶやく。ケントもそうだった。香りだけでなく、その花や葉の色や形にも驚かされる。香りを強調するために暗めの照明にしてあるところでは、花だけが浮かんでいるように見えた。

「ケントはこれが当たり前に生えてるところに行くんだ」

「旅行すればいい」

「そうだね。一度は人類の発生した星は訪ねなきゃ」

 お茶は展示のテーマに合わせてハーブティーにした。そこそこ高いが、わざわざ植物園にきてふつうのお茶にしてもつまらない。メガンはミント、ケントはカモミールを注文した。

「髪、のびてきたね」

「もう、剃らなくていいから放ってある」

「にきびも増えてきた。手入れしてる?」

「なに、急に? 姉さんみたい」

 メガンはふきだし、ミントティーの湯気がこっちに来る。いい香りだ。

「なんか気になるんだよ。ケントは身なりとか構わなすぎだから」

「そんなひどい?」

 また笑ってうなずく。メガンの指摘によれば、ケントは実用一点張りすぎるらしい。ポケットだらけで、物を吊るすリングがあっちこっちにある。それはないだろうと言う。

「だってゴーグルやマスク用のバッグとか持ちたくないし」

 まだにやにやしているので、そう言って椅子の背に引っ掛けたメガンのバッグを指さすが、腕につけてあるリングを指ではじかれた。

「こんなところのリング、いつ使うのよ」

「わかった。こっちの負け。地球でファッションも勉強して見返してやる」

「楽しみにしてるから」

 それからまったく実用的でない話をしてお茶を飲んだ後、展示ののこりをまわって帰った。

「ケントは、帰ってくるんだろ?」

 別れ際にそう聞いてきた。

「もちろん、ここが故郷だから」

「そうだよな。ここが家だもんな。じゃ」

「さよなら」

 背を伸ばし、ふつうの歩き方で帰っていくメガンを見送ると、ケントも帰った。なにかもっと言う方がいいんじゃないかと思ったが、ではなにを言えばいいのかわからなかった。

 十日後、申請の結果がすべてはっきりした。二校から合格の返事が返ってきた。ケントは北米大陸西部の教育機関を選択し、入学と入寮の手続きをとった。

 船も、リルから出ていく席は政府による制限もなく、空きはすぐ見つかった。明後日の貨客船なので明日夕方のシャトルで軌道宇宙港に行く。

「いよいよか」

「決まってみると、急な気がするわね」

 姉と義兄はそう言いながら荷物を詰めるのを手伝ってくれた。荷物と言っても当面の着替えと頭脳端末くらいしかないが、詰めてみるとどうしても規定の重量におさまらない。これはいる、あれはいらない、いやいるだろうと大騒ぎしてなんとかおさめた。

「ゴーグルとマスクは預かっといて」

「わかった。けど、帰ってくるときに新品買っちゃったほうがいいんじゃない」

「それもそうだけど、あっさり捨てるのももったいない気がするし」

「そうだな」

 その夜、ディロン船長とメガンから通信が入った。しばらく話をする。

「おまえの作物、楽しみにしてるからな」

「もうひとつの勉強もがんばれよ」

「なんだ、メグ、もうひとつの勉強って?」

 説明を聞くとディロン船長は大笑いし、ケントは苦笑いした。

「そうだな。その勉強もして、かわいい女の子でも見つけるんだな」

「じいさん、あんまりふざけないで。じゃ、ケント、体に気をつけて。落ち着いたら連絡ちょうだい。って言っても、もう気楽に通信できなくなるね」

「ケントならやれるさ。なんでもできる。若いからな。けど、おまえの家はここ、リルだぞ」

 ふたりとの通信を終えると、夜がぐっと身近にせまってきた。おそく昇ってきた『鏡』が見えている。地球にも月があるが、もっと小さく見え、色も違う。月が違う星でちゃんと寝られるだろうか。

 翌日は朝から雨が降り、ときどき雷が鳴った。早めの昼を食べると、姉が車を準備した。義兄はどうしても抜けられない仕事なので、朝食時に別れを済ませた。義父は義母が風邪をひいて出られないと言ってきたのでその通信で挨拶をした。

 ふたりは雷雨のなかを出発した。道は混んでいるが、時間にはじゅうぶん間に合いそうだ。

 搭乗手続きを済ませ、姉と抱き合って別れを告げた。ここは抱き合って泣いていてもそれほど変ではない場所だ。ケントは涙を流すのはこらえられたが、だれが見ても泣き顔になっていた。姉がぶら下げている二組のゴーグルとマスクが揺れていた。

 シャトルは雷雨などなんでもないかのように発信し、軌道宇宙港に到着した。ケントの乗る貨客船はすでに停泊している。係員がすぐにやってきて案内してくれた。ここでは目的もなしにぶらぶらなどできない。だれでも、なんでも決められた場所になければならない。小さな超管理社会だ。

 貨客船は予定通り出港し、わずかな遅れもなく超光速航行に遷移した。光の速さなら数千年だが、船は標準時間で三日後に地球に着く。

 また帰ってくる。ケントは、超光速航行に遷移する前の一瞬、船外監視画面に映った『鏡』を見てそう思った。

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