四 年越し

 治安維持軍は『軍』と呼ばれるが、それにとどまらない強権を持つ組織であり、リル政府のように社会の安定を保てなかった自治体に変わって立て直しを行う権限を与えられている。宇宙に拡大した人類だったが、時間差を無視できる通信手段を持たず、距離に応じた時間がかかる超光速連絡艇のみが薄く広がった星間社会をつないでいる現状では、社会の崩壊は容易に起こり得るし、そうして失われる星もあった。そのような損失はなによりも優先して防がなければならない。また、そのためには独立して行動できる組織が必要とされる。それは『軍』の形をとらなければならない。治安維持軍は人類そのものの存続を目標としている。それこそが人類の星間社会にとって絶対正義であるという思想に貫かれていた。

 しかし、リルの人々は、治安維持軍がどのようなものなのか、また、その力が降下してくるのをどのようにして待ち受ければよいのかすら知らなかった。

 HFOはBSLと合流したが、保護協会はまだ今後の方針を決めかねていた。それはHFOも同じだった。治安維持軍がどのような方針を打ち出すかはっきりしないかぎり、どのような行動もとれない。自分たちではない権力が決める大きな流れに合わせるしかない焦燥感を乗せて、二隻の船は漂っていた。

 連絡艇が発進してから一週間後、軌道上に治安維持軍が到着した。夜空を横切る光が見える。偵察部隊が降下し、リル地上の暴動についてざっと調査した後、本隊が海上、陸上を問わず降下してきた。市庁舎、警察署、病院、通信局、水源、漁港などすべての公共施設は統制下に入った。市民の外出は捜査に一区切りつくまで禁止され、移動は許可制となり、食料と水は配給制になった。また、治安維持軍に所属する文官が、軍の要請に至る経緯の詳細を調査している間は、リルの政治はすべて止まってしまった。

 治安維持軍は名前の通り、降下したその日のうちに治安をもたらし、以後はそれを維持した。地球を代表とした各惑星が合意して与えた圧倒的な力によってリルの暴動を鎮圧し、関係者をすべて逮捕した。取り調べはリルの警察が行っているが、その警察も軍の監視下におかれている。逮捕は処罰ではなく、情報収集を目的としていた。

 それにともない、今回の暴動の性質上、漁に出ていた漁船はいったんすべて帰港させられ、漁師たちは取り調べの対象となった。星間企業でさえ例外は認められなかった。ただ、漁はリル経済の根幹なので、取り調べの済んだ船は出港が許可された。

 HFOとBSLも同様に帰港を命ぜられた。保護協会は、われわれは外惑星の非営利組織であると反発したが、護衛を名目とした武装艇六隻に周囲を囲まれるという圧力に屈して取り調べに応じた。

 軍はリルの調査を終えると、その情報に基づいて社会の再構築を始めた。リルの人口と経済規模では暴動の参加者をすべて刑務所に入れておけるような余裕はないし、新組織を立ち上げる人材も不足している。今回の暴動にのみ適用される特別法の下、組織の形はそのままにされた。また、逮捕者は重大な犯罪でなければその特別法によって罪を問われず、強制的に元の地位に復帰させられた。そのため、政府や漁協上層部の顔触れはそうは変わらなかった。

 しかし、軍は目付役を置いた。リルのすべての公共機関の頭脳とつながれ、その情報を吸い上げて定期的に超光速連絡艇で報告する能力を備えた監視ステーションが軌道上に配置された。この情報の分析結果によっては、リルは自治権を失う。監視期間は五年とされたが、結果次第では延長もあり得る。その運用費用はリル側が負担する。関連する法律が制定され、即施行された。

 そのように効率的で迅速ではあったが、一方で治安維持軍の統治は人々に大きな混乱をもたらした。短期間のうちに平穏を取り戻すためにやむを得ないのだろうが、人々の精神的負担はかなりのものとなった。逮捕者については、政府や漁協の原職への復帰は強制で、その者の感情や周囲との関係性は無視された。そのため心身の病気が多発し、職を辞する者が増加した。

 空いた席には一時的に軍の文官が座り、リル市民の部下の教育を始めた。それが感情的な軋轢を生んだ。刑務所に入れるんじゃなくて、病気にして追放してるんだ。そうやって、結局は軍にいいなりの人間を置くのが目的なんじゃないか。そういう不満がくすぶったが、それは炎になる前に踏み消された。

 不満に思っても表わす術はない。黒と銀の制服に身を包んだ治安維持軍は、人類の星間社会が認めた唯一の力だ。これまでの実績を見ても、その力を公平無私にふるっている。リルでもそうだ。それはまちがいないが、公平無私な力が自分たちのところに来ると、これほど苦しいものだとはだれも考えていなかった。

 人々がその苦しさを日々の生活の一部として受け入れようともがいている中で、今年の漁期は終わった。豊漁感謝祭は中止となり、漁港の乾ドックは整備をする漁船で埋まったが、一時的な景気の落ち込みによって新機材の販売は厳しいものになっていた。みんな、手持ちの機材を直しながらやりくりしようとしている。

 治安維持軍統治下の政府は、景気回復のため資源調査を重視し、保護協会による調査計画を継続する決定を下した。BSLを母船としてHFOは禁漁期でも調査目的の漁を行う。

 秋冬の海に対応するため、乾ドックで新型のスタビライザーを取り付けているHFOは変に目立ってしまった。ケントは新人なのでわからないが、メガンはみんながあまり挨拶を返してくれなくなったと言っている。ディロン船長のような古株に対しても、固い表情で頭だけ下げるような漁師ばかりだった。

「みんな、この混乱にどう立ち向かって行けばいいのかわからないんだ。だからわかりやすい相手をその象徴に見立ててるのさ」

 呑みの誘いを断られて、ディロン船長はさびしげに言った。

「もっとつらいのは、そうするみんなも、自分の理不尽さに気づいてるんだ。わかっててもそうしちまう。人間は機械じゃないからな」

 ケントは機器取り付けや整備の間をぬってリル市の姉の所へ行った。義兄は急に昇進が決まり、研修でかなり忙しいようすだった。書類は提出したが、式を挙げる時間はなかった。それは、さらに上のほうが空席となり、埋めるために順送りで地位が上がったためだった。リルの役所ではどこでも起こっている珍しくもない昇進だった。

 結婚祝いには本物の本を贈った。海や山など自然を題材にした俳句ばかり集めた句集だった。それとコーヒー。フィンの好意でわけてもらったもので、とくに義兄が喜んだ。姉が俳句を声に出して読み上げると、コーヒーを味わいながら目を細めている。その後で、音の調子が気に入った句の意味を尋ねていた。

「ありがとう。句集とコーヒー。すばらしい贈り物だった。心が清々しくなったよ」

 帰り際、そう言ってもらえてケントはうれしかった。姉は、頭髪が短く生えかけた頭をざらざら音をさせてなでてくれた。『鏡』には雲がかかっている。夜風はもうひんやりしていた。

 翌朝、HFOとBSLは出港した。どんよりと曇った日だった。北の漁場に着くまではスタビライザーの試験を行った。揺れをかなり抑えるが、頭脳の負担も大きい。予想される暴風下ではほかの機能を一部止めないといけないだろう。

 それと、秋冬になって繁殖期をむかえる鎧甲類について、ディロン船長がふたりに注意した。ゴーグル表示に関わらず、すべて危険と思え。そう言われた。

 たとえば、ヨロイダコでさえ、競争相手を攻撃し、交尾相手を逃さないように触手にかぎ爪状の突起が現れる。そのうえ気が荒くなって触手をはげしく振り回すので作業服を着ていてもけがをしかねない。用心に用心を重ねろ。それでもひっかき傷を作る覚悟はしておけと脅された。

 三日後、漁場につくと海藻塊だらけだった。二隻の船は押し分けるようにして進んでいく。ここでHFOは別方向に針路をとった。ディロン船長の判断で、海流がぶつかり合う中央付近で希少種をねらう。BSLは漁場周辺で微生物の調査を行う予定だった。

 ケントは甲板でスタビライザーから送ってくる情報を見ているが、ここで安定をとるのは大変らしい。それでも新型はよくやっている。目をつぶると陸にいると錯覚する瞬間が時々あるくらいだ。

 センサーを投入し、竿を用意する。六本ともおなじ深海用の仕掛けで釣る。深海希少種ねらいであり、フィンの要望もあって、秋冬も網や延縄は使用しないと決まった。

「すごいな。かき乱されてる。層がわからない」

 ゴーグルに流れてくる情報にケントとメガンは圧倒されている。ただでさえノイズだらけなのに、海流が上下の海水をかき混ぜている。成分や濃度がさほど変わらない。

「ちゃんと情報を見てれば大丈夫だ。勘を養え」

 相変わらずの声の主は船長室にいる。海に出ると声に張りが出て元気になったようなので安心した。

「こちらフィンです。空を見上げてみてください」

 そう言われて見上げると、豆粒ほどの大きさの十字形の黒いものが上空を旋回している。かなり高空だ。

「軍です。われわれは常に監視下にあります。通信も傍受されているでしょう」

「暗号かけてるんでしょ」

「残念ですが、取り調べを受けた時に、BSLにもHFOにもなにか仕込まれたはずです。監視期間中は通信の秘密はありません。心にとどめておいてください」

「了解」

 メガンは気の抜けた声で返事をした。うすうすわかっていても、そうと知らされるのはいい気分ではない。フィンによると、保護協会が強い暗号を使用しているので、強制的な取り調べといった圧力をかけられたのではないかと言う。治安維持軍と正面から争うつもりはないのでこらえてほしいと謝った。ケントは無人機に舌を出してやろうかと思った。

 空から海に目を転じると、海藻で蓋をされたその下はだれかがスプーンでめちゃめちゃにかきまぜたスープのようになっている。ゴーグルを流れていくデータから意味のあるようすを想像できない。そこでケントは考え方を変えて、どの方向に海水が移動しているかをおおまかにとらえようとしてみた。北向き、南向き、上にのぼり、下に降りる。

 どうやら南からくる海流は北からの海流の上にのしかかろうとしている。いや、北からの海流が潜り込もうとしているのか。

 激しく海水が動いているのに海藻塊は散らずに漁場にとどまっている。これはどのような働きなのか。散ろうにも散れない海流の壁が漁場の周囲にあるのだろうか。BSLのデータも参照してみる。

 数日すると漁場のようすがつかめるようになってきた。メガンはヨロイダコを釣り上げたが、ディロン船長の言うとおり、いや、それ以上の荒ぶり方だった。空中にあげられても触手を激しく振りまわす。先端が固い爪で重くなっているので勢いが付き、触手が薄く透けるほど伸びるのでよけるだけで大変だった。

「早く放り込んで」

 ケントはしゃがんでよけながら手で頭を覆う。メガンは笑いながら冷凍庫に投入しようとするが、ヨロイダコは伸ばした触手を扉に引っ掛ける。冷凍庫の扉を閉めるまで結構時間がかかってしまった。

「体液変化してないかな」

「ヨロイダコなら大丈夫。でも、もっと要領よくやらないとね。初めてでうまくできなかった」

 メガンは仕掛けを再投入しながら反省している。風が強くなってきた。

 その夜から雨が降り出し、翌日も晴れなかった。一気に気温が下がる。作業服に発熱体を仕込み、追加のバッテリーを取り付けた。身軽さはなくなるが、この寒さではしかたがない。

「これからもっときびしくなるぞ。いまのうちにハーネスにも慣れておけ」

 ディロン船長に言われて、さらにハーネスを装着した。これから甲板ではハーネスからのびる索を固定して作業する。ますます動きがとりづらくなった。

 また、日照時間の減少により、電気の節約を心掛けなくてはいけなくなった。食事は汁物のみ熱くしてほかはそのまま食べる。空調も最小限とし、出入りしたときに作業区画のみ強くした。そのせいでほかの区画は常に臭うようになった。

 十日ほどたち、情報の解釈ができるようになってきたのと、ディロン船長の助言のおかげで、深海希少種は日に二、三匹釣れるが、暴れる上に大型なので体力を消耗する。仕事が終わると疲れ切り、だまって食事をして寝る毎日だった。

 とうとう、雨に氷の粒が混じりだし、数日のうちに雪が吹き付けてきた。毎日の仕事に、太陽電池板にこびりついた雪と氷をおろす作業が加わった。マスクから漏れる白い息が風で吹き散らされる。ゴーグルの曇り止めは持ってきていたが、塗ると情報表示の細かい線や字がかすんでいらいらさせられた。

 そうした日々の救いはBSLとの合流だった。補給時に電気もわけてもらい、空調を最大にして熱い食事を作る。フィンは釣果の確認にHFOに乗り込んでくるが、それだけが目的とは思えなかった。でも、ディロン船長はフィンの対応はメガンにまかせて澄ましている。それでケントも邪魔しないようにしていた。

「来年は北も南も、漁場は全部豊漁になりそうだって。フィンが言ってた」

 補給が終わり、熱いものばかりの夕食が済んで、メガンが機嫌よさげに言った。

「へえ、なんで?」

「微生物が増えそう。今年は去年以上に底の砂が巻き上げられてるって」

「じゃ、あとは日照か。年が明けてから晴れ間が続くかどうかだな」

 ディロン船長は長期の気象予報を呼びだす。例年なみの晴天になりそうだった。

「これなら期待できそうだ。リルも一息入れられる」

 テーブルの下でディロン船長がケントのひざを押してくる。同時に軽くウィンクをした。

「フィンはほかにもなにか言ってた?」

 そう言うと、スープのカップを持ったまま、メガンは真っ赤になった。

「ふたりとも覚えてろ」

 いい日もあれば悪い日もある。予測より激しい暴風が三日にわたって続き、スタビライザーが全力運転したため、海上で釘付けになった。頭脳が制御にかかりきりになったので移動のための計算ができず、ほかの作業には時間がかかる。船内に閉じ込められ、バッテリーがつきかけ、寒さに震えた。四日目になって風雨が弱まらなければBSLに救援を頼んでいただろう。

 今年の海は例年より荒れ気味だ。そこへ冬の嵐だから、スタビライザーを弱めて運転するのは危険だった。頭脳の負担を軽くしようとして船をひっくり返してしまっては元も子もない。

 三人は船内でひっかき傷だらけの作業服を繕って嵐をやり過ごした。ケントはかじかむ手で失敗しながら補修技術を覚えた。

「いまはいい道具があってまだましだ。おれが若いころは……」

「また始まった。じいさんの苦労話」

「どうだったの? なにがあって、なにがなかったの?」

 メガンはうんざりしているが、ケントは初めて聞く話なので興味を持った。それに、甲板に出られないので退屈でもあった。

「発熱体はなかった。下着を重ね着したけど、そんなに着込めるもんじゃないから甲板じゃ手足がかじかんでな。それに今は汁だけでも熱くできるが、昔はほんとに電気がなくて全部冷え切ってたな。冷えた食事ってのは疲れ切ってるとのどを通らんかった」

 作業場に密封パッチを熱圧着する臭いが立ち込める。

「スタビライザーだってこんないい性能じゃない。食事はのどを通らないのに吐き気がする。なにを吐くんだって思ったものさ」

「でも、魚は多かったんでしょ」

「ああ、つらいばかりじゃない。がんばったらそれだけ儲かった。甲板に出てる時間がそのまま収入になった。いい時代だったな」

 ディロン船長は遠い目をしている。

「ばあさんと出会ったのは、いつごろだっけ?」

 メガンが話の方向を変えてきた。

「うん、一人前になって、独立しようかって思ってた時だったかな、二十歳前だ」

「どっちから?」

「なにが」

「どっちから告白したの?」

 メガンが今日はえらく攻めている。いつかの仕返しだろうか。そうするとこっちにも飛び火するかもな、とケントはだまって聞いている。

「聞くまでもないだろう、あっちからにきまってるさ。昔はおれもいい男だったし、漁師ってだけで放ってはおかれなかったしな」

「なんて言われた?」

「話せんな。それはおれが墓までもっていくばあさんとの秘密だ」

 メガンは笑っている。話全部が本当というわけではなさそうだ。

「ケントは? 学生のころ、いい人いなかったの?」

 ほらきた。なんとかやりすごそう。

「いなかったけど」

「うそ、学校で勉強だけしてたの? さっすが優等生はちがうわね」

 皮肉っぽく言われてすこし腹が立った。勉強だけの人間と思われるのは嫌だ。それに、閉じ込められて過ごしていると、わざわざ話さなくていいのに話してしまう気になる。

「まあ、ほんとはいなかったわけじゃないけど。園芸部は女の子多かったし」

「ほう、ケントもそういう経験があるのか。ちょっと聞かせろ」

 ディロン船長までのってきた。そこで、あこがれていた先輩の話をした。花を育てるのが上手で、芋の栽培の時は土についていろいろ助言をもらっていたのでふたりきりになる機会が多かった。

「それで?」

「それだけ」

 言い出せなかった。言ったらふたりでいられなくなる気がした。言わなければ部活の時は一緒にいられる。それでいいと思っていた。

「なに、それ。ちゃんと言わなかったの? なんで?」

「まあ、あまり言ってやるな。こういうのはえてして男のほうが臆病だったりするからな」

 不満そうな顔でメガンは密封パッチを貼り付ける。ケントは発熱体の配線のほつれを直しながら、なんで昔の自分の話なのにメガンは不機嫌になったのだろうと不思議がっている。それに、ディロン船長に臆病と言われたのは気に食わない。でもはずれてはいないので反論できない。

 この季節は晴れも曇もおなじ天気はいつまでも続かない。嵐もそうで、空気中のほこりやちりを吹き飛ばして去っていった。空は雲ひとつない一面の青で高い。その気持ちよさを台無しにするかのように、小さな十字が旋回している。

 メガンとケントは船体表面の付着物を落とし、外部の点検を済ませるといつものようにセンサーと仕掛けを投入する。海藻塊はどこかへ行ってしまった。ディロン船長によると、本格的な冬になると海藻を封じ込めた流氷が流れてくるらしい。船体表面が凍るとやっかいなので、気象予報によっては、大陸が北方からの海流の盾となる南の漁場への移動を検討すると言っている。ただし、そうするにも契約とのかかわりがあるので、今日はBSLと相談するつもりで船長室に残っている。

 午前中、メガンがキンヨロイアンコウを釣り上げた。腹が異様にふくらんでおり、あきらかに卵を持っていた。フィンが喜び、その顔を見てメガンもうれしそうだった。

 HFOの移動については認められた。これ以上過酷な気象条件は現在のリルの安全基準や、保護協会の基準を満たさなくなるかもしれない点が懸念された。ディロン船長とフィンや保護協会の上層部は、今後の気象予報にさらに注意する旨を再確認した。

 そう申し合わせた矢先、夜から荒れ始めた。暴風と雪。急激に気温が低下し、波が高くなってきた。嵐は翌日になってもおさまらず、ますます激しくなってきた。気象予報ではここまで大きな嵐になるとは報知されていない。

 HFOはBSLに帰港を連絡したが返事はなかった。機関を作動させ、南へ針路をとったが海流にもまれるばかりで思ったより進めない。電力を無駄にしないため、スタビライザーのみ動作させた。その間に通信機器の自己診断が終わったが異常はなかった。光学機器は雪と吹き付ける海水が凍り付いてほとんど確認の役に立たないが、たぶんレドームが金属を含んだ氷で覆われてしまったんじゃないかと推測された。

「着氷防止処理はしてあるはずなんだが、前の嵐で効き目が弱くなっていたのかな。晴れてたうちにちゃんと確かめなかったのはまずかった」

「いまどき秋冬の漁を要領よくやれる奴なんかいないよ。じいさんだって昔の思い出だったんだろ」

「船長と言え、船長と。それにしてもこんな基本的なところでミスをするとはな」

「どうする? 氷をたたき落としに行く?」

「いまは危険すぎる」

「でも、通信できないほうがもっと危険だし。夜になる前に作業してしまおう」

「それもそうだな。よし、ケントの言う通りだ。ライトと工具、それと着氷防止剤」

 装備をすべてハーネスにくくりつけ、船外に出ようとしたが、出入り口の扉が重い。

「凍り付いてる」

 もう一度押してみると開きそうだったのでそのまま体重をかけると少しづつ開いていった。すきまから吹き込む風が針のように作業着の上から刺してくる。発熱体は役に立っているのだろうか。外はかなり薄暗いが足元くらいは見える明るさだった。

 ようやく三人は甲板に出たが立っていられない。腹這いのような四つん這いでなんとかこらえている。索を一人当たり二本使って体を固定し、ライトを付属の強力な電磁石で甲板に固定する。レドームに向けると各種金属のまじった汚い色をした氷と雪に覆われていた。

 吹き付ける風で満足に話ができないので手振りで合図しあい、一番背の高いメガンが工具で氷を落とし、ほかのふたりは体を支える役に回った。ディロン船長がうしろから、ケントが前から腰を支え、メガンはカバーをかぶせたハンマーを持って立った。レドームはそのメガンの頭一つ分くらい上にあり、だいぶ分厚くなった氷をかぶっている。

 メガンは大きくハンマーを振って氷を落とし始めた。レドームからはがれた氷は甲板に落ちずに吹き飛ばされていく。途中、なんどかハンマーを落とし、ロープを引いて取りもどしていた。ケントと同じく指の感覚がないのだろう。どうせ支えてるだけなんだから、自分の発熱体をメガンに着けてやりたいと思った。

 外に出た時よりもかなり暗くなってきた。ライトで照らされた範囲くらいしかはっきりしない。レドームの氷は取り除かれ、着氷防止剤を吹き付けている。風上から作業しているが、きちんとついているのか吹き散らされているのかわからない。見ているうちに一缶使い切り、空き缶を腰にぶら下げたままもう一缶空にした。雪や氷がすべって飛ばされている。とりあえずしばらくは通信できるだろう。ディロン船長がメガンの腰をたたいて作業完了を告げた。

 全員四つん這いになり、ライトを回収して船内にもどった。船内で触れるなにもかもが温かく感じる。濡れた作業服や装備を脱ぎ捨てて船長室に入った。

「通信はおれがする。メガンを頼む」

 ケントは頭脳の指示に従って湯を持ってきた。ケントの手は赤く膨れていたが、メガンのは青白くなっている。湯につけてしばらく待つ。顔色も青い。話す元気もないらしい。

 幸い、手は数分でケントのような赤になった。メガンは痛そうにしている。ケントも手足が内側から痛くなってきた。

「こちらHFOのディロン。BSL聞こえますか」

「フィンです。大丈夫ですか」

「全員無事。レドームに氷が付着して通信できなかった。処置はしたがまた付着するかもしれん。いまのうちに位置情報を送る」

 ディロン船長も顔をしかめている。

「わかりました。できるかぎり送信し続けてください。そちらに向かいます。どうかしましたか?」

「氷の除去作業で全員やられたよ」

 ケントのほうを向いて言う。

「どうだ、凍傷にはなっていないか」

「ええ、頭脳の診断ではそこまでは。ひどいしもやけです」

「そうか。フィン、聞こえただろ。しもやけだ。痛くなってきた」

「とにかく、こっちの医者も準備します。位置情報だけでなく、診断データも送ってください」

「わかった」

 今度はメガンに向かって、話すか、と声に出さずに口だけ動かしたが、顔をしかめて首を振った。

「以上だ。またなにかあったら連絡する」

 ディロン船長は位置情報と診断データを送信し続けるよう設定してふたりのそばにしゃがんだ。

「見せてみろ」

 メガンの手と診断画面を見比べる。

「良かったな。痕は残らなそうだ。ケントはどうだ?」

「こんな感じ。メガンにくらべたらなんともない。痛いけど」

「おれもだ。しばらくしたらかゆくなるが、かいたらだめだぞ」

 それから、あんな仕事したんだからこれくらいの贅沢はいいだろ、と言って黒い湯を淹れてくれた。メガンにはケントが飲ませた。ケントも自分の分を飲み、それがコーヒーだろうとなんだろうとかまわない。熱いんだから、と思った。

 通信は真夜中過ぎから途切れ始め、翌朝にはまた不能になった。また氷をたたき落としに行くか迷っていたが、BSLは最後に受信したデータをもとにすぐHFOを探し当てて合流した。嵐は弱まり始めていたが、激しい風の中固定が完了し、電力が供給されるとHFOの船内は暖まって快適になった。

 三人とも医者の診断を受け、塗り薬と飲み薬をもらった。鎧甲類由来の成分がつかわれている高価な薬品だった。

「おれは素人同然だったな。秋冬の海をわかってるつもりだったけど、若いころと全然違う。準備ができていなかった。引き揚げよう」

 ディロン船長は悲しそうに言い、フィンも同意した。BSLも予報されていた以上に荒れた海で機器を失ったり故障したりしており、洋上にとどまったままの調査は困難になりつつあったので、この際いったん帰港する決定が下された。

 翌日、嵐がおさまったので固定をはずし、HFOとBSLはならんでリル漁港へ帰る針路をとった。晴れた海には、まだ小さいが、氷のかけらが流れてきていた。

 帰港してから漁師たちや港の係員の話を聞いて分かったのだが、気象予報が不正確だったのは、担当者が頻繁に入れ替わっているせいだった。引継ぎの不完全さや慣れない機器から出力されるデータの解釈の個人差を修正する人材も不足している。

 いまのリルは気象予報のような社会の基本的な業務ですら満足にこなせないような混乱の中にある。ケントは手足のかゆみを我慢しながら、黒と銀の制服をにらみつけていた。

 帰港して一週間もしないうちに、その混乱の影響は保護協会にも現れた。政府は資源調査についての方針をひるがえし、保護協会が提出した中間報告を最終報告として調査を終了すると一方的に通告してきた。保護協会は抗議しているが、通告から十日ほどでBSLをはじめとして政府が貸与していた施設から協会員は退去させられ、保護協会が持ち込んだり、取り付けたりした機器や装備は取り外されつつあった。

「治安維持軍と政府は経済回復を優先目標にし、漁獲制限を大幅にゆるめるようです。漁期も延長するでしょう」

 フィンが通信会議の時に現状を教えてくれた後、疲れたように言う。あまりに忙しすぎて直接会う時間はなかった。

「リル市民の不満を除くため、短期間に回復を成し遂げたという形を作るつもりです。成功するでしょうね。後にどうなるかを考えないならどんな経済発展も可能です」

 すでに彗星商事とライジングスターケミカルズは後援契約を打ち切った。治安維持軍の手回しの良さには感心させられる。資金がなければ保護協会は動けない。残念だが調査終了を受け入れて引き揚げると、済まなさそうに言った。

「協会に落ち度はない。われわれはよくやったさ」

「いつ?」

 メガンが聞く。

「すでに機材と一部の人員は軌道宇宙港に上がっています。わたしもこの後すぐに上がります。それから、船の空きがありしだい順次次の任地へ行きます。リルを離れるのは年末か、来年頭くらいでしょう」

 あと一か月ほどか。

「HFOとの契約は年末をもって終了となります。ディロン船長、メガンさん、ケント君。ありがとうございます。みなさんの契約を超えた貢献についてわたしは忘れません。とくにケント君、暴動の時の活躍は個人的に称賛したい。よくやってくれました」

「いろいろとお世話になりました」

 ケントは礼を返しながら横を見た。メガンがなにか言いたそうにしている。フィンはその表情を見ているはずだが、どうして声をかけてあげないんだろう。

「本来なら直接お会いするべきですが、引き揚げ業務の都合で申し訳ありません。リルにいる間は連絡は取れるようにしておきますのでなにかあったらどうぞ」

「体には気をつけるんだぞ」

「ありがとう、ディロン船長」

 フィンは手を振って通信を切り、会議は終わった。なにかあったらどうぞ、と言っていたが、そう言われたらよほどでもないかぎり、もう連絡してはいけないのはケントでもわかる。三人は、明日からの船の整備について簡単に相談し、それぞれベッドに入った。

「ケント、これからどうする?」

 HFOの修理と整備が終わり、もう今年も暮れようとしている日だった。乾ドックで工具を片づけながらディロン船長が聞いてきた。

「元の予定通り、漁期までは紹介してもらった整備工場に行きます」

「その後さ。まだ地球行きを考えてるのか」

「ええ、おかげであと一漁期でなんとかなりそうです」

「そうだな、いろいろあったけれど、HFO自体はかなりの利益が上がったし、おまえには保護協会から礼金も出たし」

 冷たく強い風が吹いているが、洋上で経験した嵐にくらべたらなんでもない。三人とも足を速めようともせずに会社にもどった。

 ケントはもう荷物をまとめている。明日の朝ここを出てすぐ近くの整備工場の寮に入る。船の機器全般を扱う工場で、港へ行く途中にある。最近の事件の後もディロン船長と変わらず友達付き合いを続けている老婦人が経営していた。

「明日はおれもいっしょに行く。ひさしぶりに茶を飲んで昔話がしたい」

「じゃ、あたしはリル市に行くから。あの工場ならどうせ毎日顔を合わせるし」

 翌朝、ケントとディロン船長は工場へ向かった。メガンは頭をなでて「また来年いっしょに仕事しよう」と言った。

 工場ではケントよりディロン船長のほうが話をした。仕事場をざっと見学し、寮の部屋に荷物を入れる。その時、驚いてから大笑いになったのだが、社長の老婦人はケントをディロン船長の親戚と勘違いしていた。雰囲気が似ていたから、と言い訳をしていたが、ディロン船長はにこにこしていた。

 メガンにきたえられていたので仕事に慣れるのは早かった。持ち込まれる機器の分解や修理、組み立ては技術者が行うが、部品の点検、清掃やデータを入力して仕様通りに動作するかどうか確かめるのはケントのような臨時雇いの工員が行う。毎日違う機器が届くので飽きない。

 それに、こういう仕事でも『勘』があるとわかったのが面白かった。部品を点検しているときに、仕様の範囲内なのだが、ちょっとおかしい、と感じる瞬間がある。そういう時は、上司の了解を得てテストデータを変更して厳しめにチェックすると、将来のトラブルに発展しそうななにかを発見したりする。それを依頼主に連絡すれば、時には修理や交換といった新たな仕事に結びついた。熟練工は、この『勘』がとくに優れていた。

 仕事の切れ目はなかった。来年の漁獲制限の緩和が決定され、報道を通じて人々の知るところとなっており、その準備をしておこうというので、まずは整備工場などの景気が上向きつつあった。それを象徴するかのように、漁協の発案で、豊漁感謝祭ができなかったかわりに年越しの祭りをする運びとなった。

 ディロン船長とメガンはHFOの整備や漁港で行われる会合のために毎朝工場の前を通り、ケントは寮の窓から手を振った。

 嵐が幾度もあり、大嵐がたまにあったが、陸では困ると言うほどではない。気温の低下も密閉された建物内で電力が豊富にあればなんでもない。陸なら発電や蓄電方法はどうとでもなる。

 保護協会は、祭り前に完全に引き揚げを終えた。フィンや後始末をしていた最後の協会員が乗った貨客船が超光速航行でリル系から去っていった。

 数日して、フィンからコーヒー豆がHFOに届いた。残していた分を、自分はいったん地球に帰るからと譲ってくれたのだった。ディロン船長は年越しの祭りに合わせて宴会を開き、疎遠になっていた友人、知人たちに振る舞った。メガンによると、地球の一地方の飲み方をまねして、コーヒーに酒を入れ、みんな二日酔いで大変だったと言う。調べたレシピを無視し、好きなだけ酒を入れた報いだと笑っていた。

 ケントにもおすそわけが来た。姉は年越しの祭りの休暇を使って身内だけのささやかな結婚式を挙げたので、贈り物のひとつとして持っていき、また義兄が喜んでくれた。

 それぞれの祭りが終わり、リルは主星のまわりを一周して新しい年を迎えた。年越しの祭りで旧年の厄を振り捨ててこれたかどうかはわからないが。

「おはよう、もう仕事始めか」

「ええ、仕事多くて。メガンさんの具合は?」

ケントが工場の搬入口にたまった汚い雪を掃除していると、工具を背負ったディロン船長が来た。

「もういいみたいだ。今日は起きてる。事務仕事片づけてるよ」

 メガンは風邪をひいていたが、もう起きていいなら軽く済みそうだ。

「そりゃよかった。HFOの整備ですか。うちにまかせたら?」

「おまえまで営業かけるのか。おれでできるよ」

 笑って乾ドックへ行く。その後ろ姿は背筋が伸びて元気そうだった。

 新年のお祝いの雰囲気がなくなった頃、昼間は雪に雨が混じるようになり、漁場は晴れの日が増えているという報道がされるようになった。漁協の測定ではすべての漁場で微生物が増えており、昨年を超える豊漁になるのではないかと推測された。

 どの整備工場も休みなく動いている。ケントも毎日残業し、早くから出勤した。まだ若く、働いただけ収入になるので、なにも苦しくはなかった。

 空いた時間は地球の暮らしを調べたり、学校について再度見直しをしてみたりした。食用の作物を異星環境に適応させるため、品種改良を教える課程を持っていなければならない。できれば実践的なところがいい。ケントはまだあちらこちらと迷うところがあった。

 春の洪水は例年より速く、気象予報はまたはずれたが、河川の整備はきちんとされているので人や都市には被害はまったくなく、今年も漁港は灰色になった。

 そうなると、整備工場に暇ができてくる。もうすぐ漁期だ。ケントは工場の先輩や仲間に挨拶し、退寮の準備をした。ゴーグルにカウントダウンを表示させると、標準時であと二週間と五時間十分二十秒だった。

 また、漁が始まる。ケントは窓のそばで春の日差しを頬に受けて背伸びをした。

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