6 甘い罠

悪夢にもうなされず、目が覚めた……って!!


な、なんだか体が暖かいんですけど。布団以上の何かが私を覆っていませんか、今?

寝起きで事態が把握しきれない私はびっくりして跳ね起きようとしたけれど、強い力で抱き寄せられて動けない。


「……マーサ、おはよう」


そして、間髪いれずに頬に唇が触れた。


「良い子だから、朝からそんなに暴れないで。

 うっかりびっくりするようなモノに触れても知らないよ?」


……は?

それっ一体何?


まるで抱き枕でも抱きしめるように私を抱いていた響哉さんが、ゆっくり抱きついていた足を解いてくれた。

「あ、あの。

 隣で眠るだけって言いましたよね?」


思わず目を見て確認する。

……ま、まずい。


人は寝起きの瞬間、年齢をどこかに置き忘れてしまうもののなのかしら。

少しばかりぼーっとした響哉さんが、オジサンに見えなくて困る。

なんていうか、こう。

イケてるアイドルみたいに見えちゃってるんですけど。

そっか。髪を整えてなくて、おまけに瞳に鋭い光を携えてないと、この人意外と童顔に見えちゃうのかも……。


何が当たるのか知らないけれど、響哉さんはゆっくり丁寧に私の上半身も解放して、わずかばかり、間を空けた。

昨夜寝る直前のように、自分の肘をついて枕代わりにし、私を上から見下ろすスタイルに変わる。


「どうしたの?

 もしかして、俺に見蕩れてたり、する?」


……ドキンっ。

直球で言い当てられて、私は言葉で答えるよりも前に大きくかぶりを振っていた。


「照れなくてもいいのに。ほら、昨夜寝ぼけてそうしてくれたように、『キョー兄ちゃん大好き』って言って抱きついてごらん?」


優しい眼差しが温かい。


……って、え? 私が抱きついたの? 響哉さんに?


「……私が、抱きついたんですか?」


ドキドキしながら尋ねると、一瞬視線を逸らして、それからふわりと私の頭を撫でた。


「違ったかな?

 俺も寝惚けていたから、記憶が定かじゃない。

 ……もしかして、寝苦しかった?」


「ううん、そうじゃないけど」


そうじゃないけど、えっと。

出逢ったばかりの男女が同じベッドで抱き合って寝るなんて、その。

倫理的に問題があるのでは……。


なんて反論したい私のことなんてお構いなしに、相好を崩す響哉さん。


「良かった。

 マーサちゃんが夢にうなされないのが一番だから。

 ね? 毎晩こうして寝てあげる」


「えええーっ?」


あまりにも当然のようにきっぱり断言するので、私は素っ頓狂な声をあげてしまう。

響哉さんはふいに、私の頬をその細い指先で撫でた。ゾクっとする未体験の何かが背中を走っていく。


「それとも、気持ち良いことして疲れ果てさせた後、ゆっくり眠らせてあげようか?

 フィアンセなんだし、マーサちゃんさえ望んでくれれば今すぐにでも……。ほら、朝はアッチも元気になってることだしさ?」


……ハイ?

今、朝ですよね?

目覚めたばっかりですよね?

何か、そのクールビューティーなお顔にふさわしくないような、激しい問題発言されていませんか?

真っ赤になって二の句がつけない私の頭をぽんと叩くと、響哉さんは何もなかったかのようにさくっと起き上がった。


「三十分もすれば朝ごはん出来ると思うから、キッチンにおいで」


じゃあね、と。

私の頭を一度だけ撫でると、振り向きもせずにあっさり部屋から出て行った。


……どうしてかしら。

瞬間、きゅんと、私の心臓は淋しそうな音を立てている。


もっと傍に居てほしかった?

もっと話をしてほしかった?

もっと抱きしめていてほしかった?



……ま、まさか。

だって、あれだよ?

パパと同い年のオジサンなんだよ?


私は呪文のように言い聞かせてみる、けれど。

その呪文の効力がほとんどないことは、うっすらと分かり始めていた。


身体を起こして服を着替える。

箪笥を開けたら当然のように、たくさんの服が入っていた。


これ、あれよ。

私の好きな服のブランドを調べて、「今年の新作一揃え下さい」って言ったに違いないわ。

そういうラインナップなんだもん。

一緒に住むなんて言ってないからこれを準備していたなんて、お金の使い方間違っている気がする。


でも、それなのに鏡台には基礎化粧品しか入ってない。

これは、あれかしら。

過剰なメイク禁止っていう、暗黙のメッセージ?

私は服を着替えて髪を整え、キッチンに向かった。

キッチンをあけると、お味噌汁と鮭の良い香りがする。


センスの良いカジュアル服を着て、ギャルソンのような粋なエプロンをしている響哉さんが私を見て微笑んだ。


「もうすぐだから、座ってて」


「何か、手伝いますっ」


「いいから。ね?

 座って待ってて」


二度も言われたら、引き下がるほか無い。私はテーブルについて、なんとなくそこに置いてある新聞に目をやった。

あまり大きなニュースはなかったみたい。

中を開けば下側に雑誌の広告が出ている。


人気俳優ついに結婚――

あのハリウッド俳優、極秘で日本へ――

有名歌手がついに語る、離婚の理由――


そんな見出しが続いている。芸能ニュースばかりなのね、くだらないな、なんて思って別の記事に目をやった。


「マーサ、これ運んでもらっていい?」


「はぁいっ」


響哉さんの呼びかけに新聞を閉じる。


特に印象的なことなど何も無い、よくある日常の一シーン。

だから、私は気づかなかった。その中に、響哉さんに関する重要な情報が入っていたということを――。


響哉さんが作ってくれた朝食は、「憧れの日本の朝ごはん」を具現化したようなものだった。

白ご飯、豆腐の味噌汁、鮭、ほうれん草のおひたし、温泉卵、そしてデザートに苺。

……あれ?


美味しいご飯を頬張りながら、私は首を捻る。

だって、私がここに泊まるって決めたのは昨夜のことだし、帰り道、

響哉さんがスーパーに寄るところなんて見なかったし……。いくらなんでも、食材は賞味期限もあるわけだし、家具や服のように事前に準備できるものではないよね。


「マーサ、どうかした?」


固まっている私を見咎めた響哉さんが、心配そうに聞いてくる。

とはいえ、『この食材、本当は誰と食べるつもりだったんですか?』なんて。

……聞くわけにいかないじゃない。

本当に別の誰かと食べる予定があるとしても、真実なんて言ってくれないだろうし――。


「アメリカ帰りなのに、和食も上手なんだなぁって思って」


とっさに思いついたことを口にする。


「ああ、いつもポテトにハンバーガーってワケにはいかないからね。

お陰ですっかり自炊が上手くなったよ」


『……本当は、作ってくれる人が居るんじゃないですか?』


そう思ってしまうのは、なんてことない感じでそんなことを言う響哉さんがあまりにも素敵だから、なんだけど――。


「今日は、荷物を取りに行って、それから足りないものを買いに行こうと思ってるんだけど、他に何かある?」


「いいえ、それでいいです」


手際よく食器を片付けて、出かける準備を整える。

私は駐車場に行って息を呑んだ。

だって、いつの間にか黒塗りベンツが戻ってきてるんだもの――。


「これって」


「ああ、ほら。

朝の買い物も頼みたかったから、ついでに持ってきてもらったんだ」


「……誰、に?」


「部下に」


部下って。私は目を瞠る。

会社の部下ってそんな深夜だか早朝だかにも働くものなのかしら……。

もっと近しい存在の誰かが居て、彼のために動いてくれたと考えた方がよほどしっくりくる。例えば、彼女とか、奥さん、とか。

冷静に考えてみれば、こんなイケメンでお金も社会的地位もある人が、戯れに婚約関係になったという親子ほど年の離れた子供に、いつまでも気持ちを割いているはずないよね。ふわふわと浮つきはじめていた気持ちが、急速に冷めていくのを感じずにはいられない。


「マーサ、こんなところに突っ立っていて何するつもり? それともお姫様には介添えが必要だったかな」


響哉さんは口許に甘い笑みを浮かべると開けたドアを一度閉めて私の傍に来た。

くしゃりと頭を撫でると、自然に手を取って助手席まで連れて行き、おまけにドアまで開けてくれた。


「こちらへどうぞ、お嬢様」


……うわっ。

言葉の直後、頭にキスが落とされてどきりとする。

思わず振り向いたら視線が絡んだ。甘い、以外に表現できないような蕩けそうな笑みが、私だけに注がれている。


「唇にも、キスしましょうか?」


「……結構ですっ」


クスリとからかうように笑う声を聞きながら、私は逃げるように助手席へと乗り込んだ。


まずは、家へ帰る。

……帰るっていうより、行くって行った方が適切なのかしら、と思うと、なんだか胸が詰まる。それに、本当にこの人と一緒に暮らして問題がないのだろうか。家が近づくほどに、押し黙ってしまった私の頭を優しい手が撫でる。


私は思わず顔をあげた。

赤信号で止まった響哉さんは、漆黒の瞳で私を見る。そうして、形の良い紅い唇でどこか淋しそうに微笑んだ。


「やっぱり急に家を離れるなんて淋しいよね。

マーサにとっては大切な家族だもの。

……いいよ、家に戻っても」


「でも。響哉さん、あんなに揃えてくれてるのに――」


響哉さんはなんてことない顔で言う。


「普段忙しくて、他にお金を使うようなこともないからね。気にしないで。

服はあのままプレゼントするし、家具は売り払っても構わない。

そうそう。

マーサの誕生日が来るたびに、買い揃えたぬいぐるみも押入れにしまってある」


「……毎年?」


「そう、毎年。

六歳までは日本に送り届けていたから、処分してなければマーサの手元にあるはずだよ」


「テディベア?」


私の枕元には、確かに七体のテディベアが並んでいる。

それは、亡き両親が買ってくれたものだとばかり思い込んでいたけれど……。


「そう、テディベア。

 途中の何体かは、マーサが自分でこれだのあれだのいえるようになった後で、オモチャ屋さんで自分で選んだんだよ」


「……私が?」


まるで、眩しいものでも見るように懐かしそうに目を細めて響哉さんが笑う。


「そう。

真一も朝香ちゃんもそんな高い物強請っちゃダメ、なんて言うんだから。

失礼だろ?」


「……貧乏だったの?」


「まさか」


響哉さんはことさら面白そうに笑ってから付け加えた。


「ただ、当時は演劇に夢中でね。

 家庭を築いて着実に生きている二人から見れば、俺なんて不安定で危なっかしくしか見えたんだろう」


「……演劇?

 だって、今は社長さん、なんですよね?」


響哉さんは、一瞬瞳を眇めた。


「マーサちゃんって、休みの日に、映画を見に行ったりはしない?」


「映画館に行ったことは、ないです」


「……そっか。

 俺のこと、本当に知らなかったのか」


響哉さんは自嘲気味に呟くと、エンジンを切って車を降り丁寧に助手席のドアを開けてくれた。いつの間にか、車はうちの玄関へと着いている。響哉さんはぽんっと、私の頭を叩く。

思わず見上げたその表情が、とても硬いものに変わっていたので私はどきりとする。と同時に、不安が暗雲みたいに私の心にたちこめてきた。


私は自分でドアを開けて、車の中へと戻る。


「マーサ?」


一瞬、響哉さんの声が聞こえたけど、無視。響哉さんは諦めたように肩を竦めて、運転席に戻ってきた。


「どうしたの?」


幼子に問いかけるような殊更甘い声音も、私の不安を煽るだけだった。


「私のこと、家に帰すつもりですよね?」


なんてことない軽い口調で言おうとしたのだけれど、絞り出した声は情けないほど震えていた。


「やっぱり、まだ、マーサはここに居た方が良い。

俺にはいつでも逢えるんだし、ね?」


「だったら、夕べのあれこれはなんだったの? わざわざうちまで挨拶に来たのはからかうため?

 こんなに人の気持ちを引っ掻き回したうえに、一晩でハイサヨナラなんて何様のつもりよ。私はアナタの暇潰しの玩具なんかじゃありませんっ」


普段、努めて自分の感情を外に出さないように過ごしているので気が付かなかったのだけれど、こんな風に何の前触れもなく突然溢れだした気持ちは魔物のように暴れ狂い、簡単に抑え込むことなんて出来ないのね。考える前に悪態が口をついていくらでも出てくる。どすのきいた声音も、自分のモノとは思えなかった。

響哉さんは形の良い瞳を、驚きで丸くする。

直後、場違いなほど嬉しそうな笑みをその顔に湛えた。百輪の薔薇の蕾が一斉に綻んだような華やかさに眩暈と、ときめきを感じ場違いに頬が熱くなる。


「そんなに俺の傍に居たいんだ?」


「傍に置きたいのはそっちでしょ?

 それとも、本当は本命の彼女が居て、でも、心の奥に引っかかり続けている亡き友人の娘との婚約の約束もあって。

 だからそれを表面上果たす為にわざわざこんなことに時間を割いたとでも言うんですか? それだったらもう――気にしなくていいから私の前から姿を消してください」


今ならまだ、忘れられる。

開きかけた記憶にも、感情にも蓋をして今までのように上手に生活できるから――。響哉さんの指先が、宝物にでも触れるようにそっと私の頬に触れる。その時はじめて私は、自分が泣いていることに気が付いた。

しばらく泣いていると、魔物のようにうねっていた感情がそっと消えていくのがわかった。響哉さんは私が落ち着くのを待ってから、実直な声で言う。


「彼女なんて居ないし、友人との義理を感じて君の前に現れたわけでもない。

 困るのが分かっていてわざわざマーサの婚約者であると名乗り出るほど男じゃないよ」


「じゃあ、誰が夕べ車と食材を運んだんですか?」


「ああ」


と、小さな声。そうして、響哉さんの指が私の顎にかかった。ゆっくり顔を上にあげられる。

私を見下ろす彼の顔は、眩暈がするほど整っていて、その微笑は蕩けそうなほどに甘い。


「そんなこと気にして不安そうな顔してたんだ」


「……私、不安そうでした?」


「とても。だからてっきり家に帰りたいのかと勘違いしてしまった。

 マーサは俺の傍に居たいの?

 俺は、十年前からずっと君と一緒に暮らしたいと思ってる」


誠実な光を帯びた瞳に見つめられ、そう囁かれた私は、くらり、と倒れそうになるり、まるで、催眠術にでもかかったかのようにこくりと頷いていた。


「ところでマーサ。

 こんなところでいつまでもいちゃいちゃしてたら、そろそろ啓二くんが心配してやってくるんじゃないかなぁ?」


くすくすと、耳元で響哉さんが笑う。


「……ええ?

 えっと、それは、困りますっ」


私は慌てて響哉さんの腕から抜け出した。

優しさを閉じ込めた黒い瞳が、真っ直ぐに私を見つめているからどきりとする。

笑顔に歪む紅い唇に、思わず触れたくなるのは、いつの間にか警戒心が消えてしまった証拠。

突然鳴りだした激しい心臓の音に唆されるかのように、私は、車から飛び降りていた。

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