5 想い出の日々
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呼吸が整ってきた真朝の髪をそっと撫でた。
反応がないということは、眠りに落ちたということなのだろう。そう判断した俺は、その柔らかい体を勝手に腕の中に抱き寄せる。
彼女が今夜悪夢を見るだろうことは、予測できていたので、部屋の前に椅子を持ってきて本を読んで時間を潰していたのだ。
まだ、彼女が小さな頃、真っ暗にしないと眠れないと言っていたので、点けっぱなしの電気を勝手に切った。
……それがいけなかったのかもしれない。
もう、あの頃の彼女とは違うと言うことを俺はまだ受け入れられずにいる。すまない、という思いを込めてその無防備な額に唇を落とす。
真朝の両親と俺は、大学の同期だった。
三人が初めてあったのは、恐らく演劇研究会というサークルの新入生歓迎コンパ。
意気投合した俺たちだったが、まさかあんなに早く二人が恋仲に落ちて子供を作るとは思ってなかった。
もっとも、子供が出来たから結婚したのかもしれないが。
そんなことは俺にとって関係ないことだった。
一目見て気に入った朝香さんは、あっという間に別の男のモノになってしまった。想いを育てる時間も、気持ちを告げる間もなく。
ただ、それだけの苦い記憶で終わるはずだった。
でも、あいつらは根が無邪気なのか計画性がないのか、単に俺のことをひどく仲のよい大親友だとでも思っていたのか。
妊娠し、結婚してからもしょっちゅう三人で遊んでいた。
もっとも、俺は彼女をとっかえひっかえして学生生活を謳歌していたから、四人で遊ぶこともしばしばだったが。
それが、さらに一人。
小さな命が増えたのは、まだ花冷えのする三月のことだった。
その日のことは、今でも記憶に深く刻まれている。
『っつーかさ、なんで俺が朝香さんの出産に立ち会わなきゃいけないわけ?』
落ち着かない父親の定番みたいな顔で、病院の廊下を端から端までうろうろしている真一に声を掛けた。
『ば、ばか言ってんじゃねぇっ。誰がお前なんかに朝香の出産に立ち合わせるかっ』
真剣に怒っているところを見ると、本気でリアルな「出産現場」に俺が踏み込むとでも思っていたのかもしれない。
『そういう意味じゃねーよ。
何で俺が今ここに居るのかって聞いてんだよ』
『そりゃ、お前がうちに居たときに朝香が産気づいたからに決まってんだろ? もう忘れたのかよ』
ばっかじゃね? なんて顔に書いてある。
腹が立つったらない。
『俺は病院に送り届けたら帰る予定だったんだよ』
それがどうして明け方までこんなところで待ってなきゃいけないのか――。
どう考えたって、変だろ?
『いいじゃんかっ。
一人で待つっつーのはこう、心細いんだよ。
ほぉんっと、男っつーのはただの種馬でしかねぇーんだなーなんて噛み締めながら、妻の出産シーンを想像し続ける恐怖。
分かるか?』
ああ、まさに今目の前で見てるんで、分かってるつもり。
真一は黙っている俺の手を掴む。予想以上に冷たく、震えてもいて軽口を叩いているのは緊張をほぐす為なのだとわかる。
『分かった、お前に名づけ親の権利をやるっ』
『……あのなぁ、そういうのを盗人たけだけしいっていうんだよ、覚えとけっ』
俺は真一の頭にデコピンを食らわせた。
願わくば、二人の子供は真一のバカな遺伝子の影響を受けていませんように。
『そんなことないって。
だってほら、最高にいいじゃん。お前が言ってたあの名前。真一のシンと、朝香の朝、で真朝(まあさ)。
もう、サイコー』
『いや、だからさ。
俺を名付け親にしてくれるってんじゃなくて、俺が呟いた名を取るってだけの話だろ?』
『は?
どっちでも同じじゃないかっ』
……同じじゃねぇだろ。
そう、言い返そうとした瞬間、ドアが開いた。
「無事ご出産されましたよー」
疲れ果てた顔で、助産婦さんだか看護師さんだかがそう言った。
「あ、あれ?
複雑なご関係なんですか……?」
俺たち二人が、手を握り合ってやたら近くに顔を突き合わせている瞬間を見たその女性は、何か勘違いをしたらしい。
後で確認したら「ゲイのカップルが女性に二人の子供を産ませていた」と思ったなんていけしゃぁしゃぁと言いやがった。
そんな法律、日本で整ってねぇだろうが、って。
そういう問題じゃねっか。それだけ、お互い緊張して周りの目なんて気にならないくらい気が張りつめていたんだ。当事者になれないふがいなさと、不安と期待で。
とにもかくにも、腕に抱かせてもらった生まれたばかりの赤ん坊は、親でもなんでもない俺にとってもすごい宝物に見えた。そのときの俺は、可愛い甥っ子に目を細める親戚の伯父気取りだった。
問題だったのは、俺が実際は赤の他人だってことと、真朝が俺に懐きすぎたこと、くらいなものだ。
乳離れをした頃から、真朝はものすごく俺に懐くようになった。とにかく、四人で逢えば両親の手を振り払ってでも俺の傍に駆け寄ってくる。
真一の証言によれば、最初に喋った言葉は「キョウ」
でも、それは別段俺の名前じゃなくて「today」って意味かもしれないじゃないか。
なんていってみたのだが、真っ先に「パパ」と呼ばせたかった真一は、とてもじゃないが納得してくれなかった。
喋れるようになった後の真朝の口癖は「キョー兄ちゃんのお嫁さんになるのっ」
真に受けた真一が、それをやたらといろんなものに書き記していたのには、正直、後になって知って驚いたが……。
もちろん、彼としては娘が大きくなって、好きな人の対象が変わるたびにそれ自体書き換えようと思っていたに違いなかった。
ただ、急な事故にあってそれが叶わなくなっただけで。
大学を一年留年した後、ハリウッド映画に出るためアメリカに渡った。
成田空港で、泣き叫ぶ真朝に思わずこっちまでもらい泣きしそうになったことは、昨日のことのように思い出せる。
もっとも、思い出せるのは俺だけで。
その数年後、真一と朝香は交通事故で命を落とし、その時に、真朝は記憶喪失になってしまったのだ――。
辛すぎる出来事から、気持ちを逸らすために。
シャットダウンされた両親の記憶。
真一の弟、啓二に葬儀でそう聞かされたし、実際、真朝は俺を見ても何の反応も示さなかったので、彼女を引き取ってアメリカで育てようという考えは一度そこで棄て、そのとき本拠地にしていたロスへとんぼ返りした。
それでも、俺は記憶の中に鮮烈に残っていた真朝のことを忘れることができなかった。
アメリカに居る間、ずっと彼女が居なかったと言えば嘘になるが、いわゆる「ステディ」な関係にはならないように気をつけていた。ま、ようはいわゆるプレーボーイとして名を馳せていたってだけのことなんだけどさ。
ハリウッドでそこそこ名前が知れてきた後も、真朝の様子は気になっていたことや、実家からあれこれ言われたこともありわざわざ日本に会社を立て、そこの部下に時折情報を探ってもらっていた。
まぁ、いわゆるストーカー? いや、一歩手前だと自分では思っているのだが。
育てば育つほど、真朝は俺が一目ぼれした朝香に似てきた。
大学生になるまで待っていたら、また、他の男に攫われるに違いない――。
そんなトラウマに近い焦燥感に駆られて、気づけば日本へと帰ってきていた。
こんなに早く愛しの姫君をベッドの上で腕の中に抱けるとまでは思っていなかったけれど。
まぁ、上々ってところじゃないかな?
ただ、真朝にとってこれが必ずしもベストでないということは、分かっていた。
必死に封印してきた幼い記憶が、俺のせいで開封されてしまうかもしれない。
それが、最初に溢れ出すならきっと、夢の中だろう、と。
素人ながらに考えていた。
今は静かに穏やかな顔で眠っている真朝を腕の中で抱きしめる。
傷つけたかったわけじゃないのに、結果的に傷つけることしか出来ない――。
そんな俺に彼女は再び「好き」と言ってくれるのだろうか――。
許可も得ず、本人の意識もないままに、勝手に重ねた唇は柔らかく甘かった。
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