7 引越準備

家に入るとしばらくして、引越し会社の人が来たのでびっくりした。響哉さんは当たり前のようにあれこれと指示を出す。

本や勉強道具、服などを纏めて運んでもらった。

作業が終わり、お茶を飲みながら一息ついていると、お父さんが口を開いた。


「真朝。本当に行ってしまうのかー。淋しくなるなぁ」


唐突にそう切り出されると、なんだか胸が痛くなる。


「ごめんなさい、お父さん。

 でも、まだ嫁に行くわけじゃないし」


「当たり前じゃないかっ!

 真朝はこの家からしっかり嫁に出してやると、葬儀のときに兄さんに誓ったんだっ」


ドン、とお父さんがテーブルを叩く。ぐらり、と湯飲みが揺れた。


「一刻も早くその夢が叶うよう、善処させていただきます。お父様」


隣に座っていた響哉さんが本気とも冗談ともつかないいつもの口調で、お父さんに声を掛ける。お父さんは、疲れたように肩を落とした。


「須藤さん……。

 色んな意味でお変わりなくて、驚いてますよ」


「それはどうも」


まるで褒められたかのように極上の笑みを浮かべると、テレビで見かけるモデルのようにサマになっている。何を言っても埒が明かないのと思ったのか、父と母は顔を見合わせて肩を竦めるだけだった。


玄関で見送りながら、お父さんが口を開く。


「とにかく、あなたのスキャンダルに真朝を巻き込んで傷つけることだけはしないでくださいよ」


「真朝、身体に気をつけるのよ。いつでもここに帰ってきていいんだからね」


これはお母さんの言葉。私は強く頷いた。


「マーサちゃんは私にとっても、大事な存在です。

 傷つけるようなことは誓って致しませんのでご安心下さい」


響哉さんは丁寧な口調を崩さずに頭を下げ、車の助手席を開けてくれた。私は場の空気に飲まれ、うるっと泣きそうになって慌てて車に乗り込んだ。

別れることになって初めて気づく。

――私って、本当の両親を慕うのと同じくらい、義理の両親のこと慕っていたんだわ――。


「……ねぇ、響哉さん。

 スキャンダルって、なぁに?」


車の中で改めて口を開く。


「不名誉な噂、醜聞、醜い事件……ってところかなぁ?」


片手でハンドルを捌きながら、それがどうかした? みたいな視線を私に投げてくる。

いえ、私が聞きたいのはそういう辞書的解釈ではなくて……。


「だって、さっきお父さんがスキャンダルに巻き込むなって……。

 それは、社長だからってこと、なんですか?」


「あれ。

 まだ敬語使っちゃう?

 そろそろフランクに喋ってくれてもいい時期だと思ったのになー」


「すみません」


いくらなんでも、すらりとした存在感のあるオトナに向かって、軽々しくタメ口をきけるような機能は私に備わっていないのです。


「いいよ、別に。

 それはそれで萌えるし」


……はい?

思わず顔を見上げると、響哉さんは私に視線を流してふわりと微笑んだ。

それから、くしゃっと私の頭を撫でる。


「スキャンダルに巻き込まないよう、細心の注意を払うから。

ね? 心配しないで。

こんなに大好きなマーサのこと、俺が傷つけると思う?」


こっぱずかしいとしか思えない台詞を次から次にその紅く艶やかな唇から吐き出すのは、アメリカ暮らしのせいなのか、彼の元来の性質によるものか、分からないけれども、歯の浮くような甘い台詞が、私の心をふわふわと舞い上がらせてくれることだけは、確かだった。


「いらっしゃませ」


響哉さんに連れられて足を踏み入れた家具店に並ぶ品は、どれもこれもが一目でわかる高級品で、一見さんお断りの匂いがぷんぷんと漂っていた。

一際品の良い男性店員が、優雅かつ足早にこちらに向かってやってくる。

細身の男性はやや垂れた目じりをさらに下げて、親しみやすい笑みをその顔に乗せる。


「いらっしゃいませ、須藤様。ご連絡頂ければお迎えにあがりましたのに」


訓練の行き届いた耳障りの良い声。響哉さんは唇の端を僅かにあげる。

私に向ける感情豊かな表情に比べると、それは無表情に近いものだった。


「そうでしたね」


さらりと発せられた声からは、私に向ける時には必ずついている、蕩けそうな甘さのオブラートが根こそぎ排除されている。それが、普通の大人としては当たり前の声音なんだろうけれど、つい違和感を感じてしまう。


「この間入れてもらったベッドに合うナイトテーブルと、ライトが欲しい」


それは、業務連絡を思わせるような淡々とした口調。


「承知いたしました。

 ご案内させて頂きます。こちらへどうぞ」


雰囲気に呑まれ身動きできない私の手を、ためらいもなしに響哉さんが掴む。

見上げれば当然のように視線が絡み、響哉さんはふわりと、優しい笑顔をその整った顔に浮かべた。


私だけのために。


「好きなものを選ぶといい」


私にかけてくる声は、さっきまでのそれとまるで別人のものかのように、とても甘いものだった。


「で、でも。

 こんなに高い物、私――」


ゼロの沢山ついた値札に眩暈を覚える。量販店に売ってある家具とライトで構わないのに。


「お金のある人が使わなきゃ、日本はますます不景気になるばかりだ」


それとこれとはまた別の話のような気がするんですが……。響哉さんは


「仕方ないな、マーサ。今回は特別に手伝ってあげる」


と、言って笑うと、店員さんのおススメの中から更に3つにまで絞ってくれた。


「この中に好きなものはある? あったら選んで。なければ、どこが気に入らないか言ってごらん」


響哉さんはそうやって、短時間の間にさくさくと私の好みを聞きだして、一番お気に入りのものを見つけ出してくれた。

その手際の良さはきっと、店員さん以上なのだと思う。だって、やり手の店員さんですら感心顔で響哉さんのことを見ていたんだもの。

ナイトテーブルを決めた後、響哉さんのスマートフォンが鳴った。ちらりとディスプレイを見た響哉さんは、諦めたように肩を竦める。


「ごめん、マーサ。仕事の電話だ。

少し待っていて」


ぽん、と頭を叩くと電話に出る。


「よっぽど急ぎの用なんだろうな」


電話に出た響哉さんの声は、不機嫌を固めたように低く冷たいものだった。


「……ふぅん。ちょっと待って」


響哉さんはそう言いながら、店員さんに頼んで店の奥へと足を進めていった。

一人残された私のところに、すぐに店員さんが戻ってくる。


「須藤様はいつもお忙しそうですね。いつアメリカから帰ってこられたんですか?」


「あ……、っと」


知らない、ともいえず曖昧な笑顔を浮かべる。


「そうですよね、あれほどの方ですものね。

そうそう詳しいことは言えませんよね」


丁寧な言葉に、私はぎくりとした。

……響哉さんって「どれほど」の方、なのか私は何も知らない。 


とはいえ、近しく見えるであろう私が「知らない」なんて顔をするわけにはいかない。

……ような気がする。


曖昧な微笑で、なんとかその場を乗り切るしかない。


「宜しかったら、先にライトをご覧になりますか?

一つ上の階に取り揃えておりますので」


「はいっ」


上手く話が逸らせると思った私は、何も考えずに頷くと、店員さんに連れられて、上の階へとあがることにした。


「どのくらいの灯りがお好みなんですか?

 読書のため?」


店員さんが、並ぶライトを見ながら、私に問う。

さっきの響哉さんのを見ていて、要領を得たのか、とても分かりやすい質問だった。


「ううん、本を読むときは部屋の灯りを点けるから大丈夫なんです。

そうじゃなくて、こう。

寝ている間に点けていても問題ないくらいの温かい感じの灯りがいいです」


「アロマライトみたいなもののほうが良いんですかね?」


「それ、いいかもしれません。

ここにありますか?」


「残念ながら……。

 恐らく、取り寄せることが可能だと思いますので、調べてまいります。

 こちらでお待ちになりますか? それとも、良かったら一緒にいらっしゃいます?」


「どんなのがあるのか見たいので、ここで待ちます」


お客様がほんの数人居る程度の、静かな店内でそう告げた。


「かしこまりました」


丁寧に礼をして下がっていく店員さんの後姿を見てから、可愛らしいライトへと目を移す。


「真朝」


突然、静寂を引き裂くような鋭い声が私を呼んだ。

驚いて入り口に目をやった。私だけでなく、ここに居る人全員、そっちを見たと思う。薄暗い店内でも、ぱっと目を引くルックス。

女性客が息を呑むのが確かに聞こえた。


響哉さんは何のためらいもなく真っ直ぐ私に近づくと、きょとんとしている私をおもむろにその腕に抱き寄せた。びっくりして、心拍数急上昇。


絶対に、皆こっち見てるってっ!!


……なのに。響哉さんはわざわざ人に見せつけるかのように私の額にキスをした。

恥ずかしさと混乱の中で、それでもきゅんと心臓が高鳴る。


「あれ、キョーヤ・スドーだよね?」


「うっそ?」


なんて囁き声まで聞こえる始末。

……っていうか、どうして名前まで知られてるわけ?

というか、その発音方法間違ってない? 響哉さんはどっからどう見ても日本人だし……。


私は振りほどこうとするのだけれど、力が強くて敵わない。


「ちょ、きょう……」


迷子になってしまった幼子を探しつかれた親のような、不安と心配と、こみ上げる安心感を宿した瞳が真っ直ぐに私を見つめていて、その漆黒の瞳に吸い込まれそうな錯覚に陥る。


「勝手に居なくなったら心配するだろう? 俺以外の男に着いて行っちゃ危ないからダメってあんなに言い聞かせて育てたのに。それごと忘れちゃった?」


……な、いたいけな子供に何を吹き込んで育ててたんですかっ!


「だって、響哉さんだって電話に出てて……、私はライトが見たかったんだもん……」


「俺のせい?」


う、そんなに怖い目で見られても困る。私はもう、道理のわからない幼子ではないのだから。返答できず、唇を噛み締めている私をしばらく見つめていたが、ふっと、響哉さんの瞳の力が緩んだ。


「俺を走らせるなんて、お前だけだよ」


……し、知りませんよ? 私。

走ってくれなんていってませんけど。


「そんな悪い子にはお仕置きが必要だな」


「ふ、不要で……」


「煩いよ、マーサ。

でも、そうだな。初めてのおいただから多めに見てあげる。


ここでキスして欲しい? それとも家でじっくりキスして欲しい?」


……な、なんとなくどっちも良くない感じがしてならないんですけど……。


「三秒以内に返事をしないと、両方しちゃうよ?」


口調は優しいんだけど、その、瞳が全く笑ってないんですけど……。


「三、二……」


静かな声で冷静にカウントダウンはじめないでくださいっ!

ここ、お店の真ん中だし好奇の視線にさらされてるのもわかってますよね?


「い、家っ」


本当に響哉さんの顔が遠慮なく近づいてくるので、私は思わずそう言ってしまった。響哉さんは動きを止めると、私の瞳を見て、相好を崩す。


「分かりました、お姫様」


私はようやく響哉さんの腕の中から解放された。

ほぉ、という誰かが吐いたため息が空気の中に束になって溶けていくのを感じる。私はドキドキが止まらなくて困る。一方、響哉さんは全く困ってない感じで、私の手を握る。


……いったい、何者なの?この人って。


「で、小島さんはどちらに?」


この話の流れだと、小島さんって、さっきのやや垂れ目の店員さんのこと、だよね?


「アロマライトがおススメだけどここにはないから、取り寄せられるものを調べてくるって」


「ふぅん」


不機嫌が口調の、態度の端々から一瞬にして滲み出ている。

響哉さんは戻ってきた店員さんと、一方的にアロマライトの話をつけ、金額の交渉と納品日を打ち合わせてから、その店を出た。


昼食に寄ったレストランでは、シェフが出てきて挨拶するし、やっぱり周りからざわめきが起きる。

彼のルックスが、明らかに人目を惹く素敵なものだということは分かるけれど。

名札をつけているわけじゃあるまいし、名前まで知られているって……どういう、こと?


「……アナタ、誰?」


ランチが来るまでの待ち時間に、耐え切れなくなった私がそう聞いてしまったのも仕方がないことだと思うの。

響哉さんは、一瞬目を丸くして、それを解くとふわりと微笑んだ。


「須藤響哉って、まだ名乗ってなかったっけ?」


「それは、何度も聞いてます」


前菜として置かれたルッコラのサラダに目を落としながら私は歯切れ悪く答える。


「知りたい?」


響哉さんはことさら楽しそうに笑う。


「知りたい」


「このままずっとフランクに喋るって約束してくれるなら、教えてあげてもいいよ」


はっ!

私は思わず唇を押さえた。

あまりにも会話に必死になって、もっすごいタメ口になっちゃってたわ、私。


くすり、と。焦る私を見て、響哉さんは子供のように無邪気な笑みをこぼす。


「どうする?」


だけど、知りたい欲求には代えられない。


「いいわ」


前菜の皿をウェイトレスが片付けて去っていくのを見送りもせずに、響哉さんが付け加える。


「じゃあ、約束守れなかったらキスね。

 もちろん、さっきのお仕置きとは別に」


「え?」


「そのくらいリスクがないと、張り合いないじゃない?

 それとも、知りたくないのかな?」


優美な仕草でパンを千切りながら、響哉さんは甘く微笑んだ。

全く人の事情も与しないで軽く言ってくれるわね、と、私は彼が浮かべる極上の笑みから視線を逸らしながら心の中で毒づく。





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