3 同棲の始まり
「じゃあさ、心配させちゃうから、電話で話してくれない? 素敵なフィアンセと一緒に暮らすって」
美味しいお料理をたらふく頂いた後、お店から出ると、須藤さんはスマホを取り出した。自分のことを照れもなく「素敵」と表現できる当たり、ちょっと変わった人に違いない、と心のメモに書いておく。
「車はどうするんですか?」
さっき、ワインを何杯も飲んでいた。
「明日まで預かってもらうから心配ない」
言いながら、電話を掛けている。
「須藤です。
ええ、そうですよ。お嬢様もこちらにいらっしゃいます。
そして、決心がついたと仰っていますので、変わりますね」
丁寧な口調でそういうと、私にスマホを渡す。
「お父さん?」
「マーサ、私たちに気を遣ってそういう風に言ってるんだったら……」
両親は、昔から気遣われることを不安がっているところがあった。
もちろん、その気持ちはありがたい。けれどもやはり、申し訳なく思ってしまう。だから、私は澄ました顔で嘘をつく。
「違うわよ、お父さん。そんなんじゃないわ。
私、キョー兄ちゃんのこと思い出したの」
「……本当に?」
お父さんの驚く声に、少しだけちくりと胸が痛む。
「本当よ、お父さん。
だから、心配しないで。明日荷物を取りに行くわ」
「そんな、急に今日じゃなくても」
「そうなんだけど。
ほら、折角だからゆっくりお話でもしてみようかと思って」
そこまで言うと、突然須藤さんがスマホを取り上げた。あくまでも穏やかな口調で、しばらく何か話して切った。ぷつりと、私と義両親との縁まで切れてしまったような錯覚に、陥ってしまいそうになるくらい潔く。
「じゃあ、帰ろうか」
馴れ馴れしく、須藤さんの手が肩にまわされる。
「ちょっと……っ」
振り払って走り出す。
「マーサ、ほら、そんなに急いだら危ないよ?」
背中から笑いをかみ殺したような須藤さんの声。
「大丈夫だから、少し放っておいてもらえませんか?」
再度つかまれた手を振り払おうとしたけれど、そうはさせてもらえなかった。
外灯の下、整った顔が優しく笑っていて、思わず胸が高鳴りそうになる。どうも私は彼のこの表情に弱いようだ。
「あれ?
俺のこと大好きだってパパに言ってたじゃない?」
「あ、あれは言葉のアヤで……」
「へぇ。パパに嘘までついて、俺と一緒にいたかったって、こと?」
「ちーがーいーまーすーっ」
どう曲解してもそうはならないんじゃないですかね?
須藤さんの手を振り払うことを諦めた私は、せめてもの抵抗で不服そうな表情で彼を見上げてみる。
須藤さんは慣れた様子で、片手を挙げ、タクシーを止めると私を入れてとある住所を口にした。
ついた先は想像以上の高層マンションでどきりとする。
しかも、その最上階って……。
エレベータから一歩降りたものの、あまりの豪華さと、同じ部屋で二人きりになるという現実に物おじしてしまって、それ以上足が進まない。
「抱っこしてあげようか?」
臆面もなくよくそんなことがいえますね?
「結構です」
真顔で断ると、がっかりしたように肩を竦める。
「つれないなぁ。
昔は抱っこしてあげようっていったら、喜んで飛びついてきたのに」
「……ちびっこ特有の行動です。一緒にしないでください」
「育たなきゃ良かったのに」
ぼそりというあたり、結構本気?
「そっか。
すれ違う人に、見せびらかして欲しいんだ?」
私は慌てて歩き出す。
「見せびらかさなくて結構です。早くお部屋に連れて行って」
動揺を押し殺して、つんと喋る私のことが可笑しかったのだろう。
ふわり、と。幼い子供の頭を撫でるように、須藤さんが私の頭を撫でる。
「大丈夫。
親友の子供を無理矢理犯すほど女に飢えてないよ?」
……その発言にどう応えてよいのか分からず、ますます俯いてしまう。
指紋で鍵を開けながら、須藤さんが言う。
「それにしても、嫌だなぁ、敬語だなんて。他人行儀なんだから」
「……私たちって他人ですよね?」
軽口に一線を引いてみる。
「ツレナイなぁ。じゃあ今すぐ関係持っちゃう?」
言うと、玄関に入るや否や須藤さんはその腕に私を抱き寄せた。
「やぁああっ。ナニするんですかっ。放して下さいっ」
半ば本気で動揺した私から、すぐに手を放すと、顔を抑えてくすくすと笑っている。
あーあ、もうっ。
絶対に私をからかって遊んでるんだわっ。
「お水でも、飲む?」
「……はい。
でも、須藤さん。私の着替えとかってないから、やっぱり今日は家に……っ!!」
グラスに氷を入れ、ペリエを持ってきた須藤さんは、ソファに座ることも出来ずに立ち尽くしていた私を突然腕の中に抱きしめた。
家に帰ると同時に、スーツの上着を脱いでしまったので、シャツ越しに分厚い胸板を感じてしまう。
「やっ」
お酒の匂いと、香水の匂いが鼻腔を擽る。
「マーサ。そんなに他人行儀に呼ばないで?
でないと俺も、花宮さんって呼ばなきゃいけなくなっちゃうから」
「で、でも……っ」
抱き寄せられた腕の中で身じろぎひとつ出来なく、固まってしまう。
「いいよ。
マーサが約束してくれるまで、放してあげない」
低い声が、何故か優しく耳元に降りてくる。
そして、須藤さんは私の長い髪を優しい手つきで撫でた。
「ずっとこうしていてあげる。一晩中でも。
……それでいい?」
「い、いいわけないじゃないですかっ」
「マーサ?」
私の名前を疑問系で言うと、ふいにその長い指で顎を持ち上げる。
見上げれば、整った顔が、困惑した色を隠さずに私を見下ろしていた。
「一度に全部は無理だって、俺もわかっているつもり。
だから、今日のところはその敬語、許してあげる。
せめて、名前で呼んで?」
「で、でも」
「でないと、今、ここでキスするよ?」
「……親友の子供に手は出さないって言ったじゃないですかっ」
紅い唇が近づいてきて、私は思わず赤面する。
「マーサ。
俺は犯さないって言っただけで。
キスしない、なんて言ってない。それにほら、ずーっと昔にキスした仲じゃない?」
ゆっくりと、須藤さんの唇が頬に近づいてくる。
その、温かい息が頬に触れる。
「す、どうさん?」
「そっか。
意外と俺にキスされたいんだね、マーサちゃん」
くすり、と笑う息すらも、頬に触れる。ぞわり、とした恐怖とはまた一歩違った妙な感覚が背中を走る。
これは、昼間の白石君からのキス未遂の時とは違って、それが『嫌』じゃないってことは自分でも良く分かっていた。だからといって、今ここで、流されていいっていうのとは、多分違うよね。
「きょ、キョーヤさんっ」
私は無理矢理言葉を引っ張り出してきた。
ちぇ、と。子供が拗ねたような音を出すと、キスする寸前で動きを止めた、須藤さん、じゃなくて響哉さんはその手を緩めてくれた。
「こちらにどうぞ、お嬢様」
誘われるままに黒い革のソファに腰を下ろせば、ふかりととてもすわり心地が良かった。それにしても、と、注がれたペリエを喉に流しながら思う。
改めて部屋を見渡せば、調度品はおそらくどれも一級品。このリビングは、すみずみまで、まるでモデルルームのように片付いている。
「すど……響哉さんって、パパの同級生なんですよね?」
「そうだよ」
こっちは、水ではなくウィスキーをロックで飲みながら応える。
一応、二人の間に距離はある。
およそ、10センチくらいの、ぎこちない距離。
「じゃあ、今年36歳?」
「そう。ぴっちぴちの年男」
「年男にぴっちぴちとかあるんですか?」
「一応ね。
ほら、さすがに96歳とかになるとそうは形容できないだろうし」
「……何歳まで生きるつもりなんですか?」
「ん? それはもう、マーサちゃんを看取るまでは生きようって15年くらい前から決心してるよ」
あまりにもさらりとそんなことを言うから、息が止まりそうになった。
「……本当に?」
「ああ。
だから、マーサは何も心配しなくていい。
俺は真一や朝香ちゃんみたいにお前を独りになんてしないから」
な、なんなんだろう、この人は。
確かに私の記憶にはないけれど、それでも、そこはかとなく懐かしい匂いがして。そして、彼の仕草や時折零す気障な言葉に、心臓が鷲掴みにされていく。
……えーっと、オッサンだから。パパと同い年の。
幾度も、幾度も自分に言い聞かせているのに。
「だからもう、何も心配しなくていいからね」
肩に手を回してそう囁かれたとき、私にはもう、その手を振り払おうなんて気持ちが微塵も起きなくなっていた。
「マーサ、お風呂入る?
それとも俺がいれてあげようか?」
……!!
優しい口調で囁かれる甘い言葉に目が覚めた。
私は、不覚にも響哉さんの腕にもたれかかれて眠っていたみたい。
「あ、あのっ」
慌てて身体を起こして、首を振る。
「自分で、出来ます、から……」
「そう? 残念」
さほど残念でもなさそうに響哉さんが言う。黒い瞳が優しく笑っていた。
封の開いてないパジャマに、値札がついたままの下着。
ふっかふかのバスタオル。
「……これって?」
「ん? お気に召さないデザインだった?」
「そうじゃなくてっ」
まさか、私のために買ったってことはないよね……?
「響哉さんってその、彼女とか、娘さんとか、……居たりするんですか?」
私の質問が理解できないのか、響哉さんは二度三度瞬きをして、それからクッと笑い出した。
ひとしきり笑い終えた後、私の傍の壁に手をついて、私を見下ろす。
その眼差しに、どきりと心臓がはねてしまう。
「マーサ、フィアンセっていう意味、分かってる?」
「分かってるけど……」
「いいや、分かってないね。
マーサが俺に泣いて頼んだから待っていてあげたのに」
艶やかな声が紡ぎだす言葉の、信憑度が計り知れなくて首を傾ける。
「キスするまで、放してあげない」
ふと思い出したのか、響哉さんは白石の台詞をなぞるように言うと、長い指を顎にかけた。
ゆっくりと、唇が近づいてくる。
……やっ。
思わず肩を竦めてしまう。
まるで、金縛りにでもあったかのように身動きが取れない。
思わずぎゅっと瞳を閉じた。身体中に力が入る。
チュっと。
軽い音を立てて彼の唇がぶつかったのは、私の唇ではなくおでこだった。
「……?」
不安な気持ちを払しょくできないまま、それでもゆっくりと瞳を開ける。
わしゃわしゃと、手荒く、響哉さんが私の髪をかきまわした。
「キス一つで泣かせるような、無粋な男じゃないから、安心して」
「あ、安心も何も、響哉さんが勝手に迫ってきたんでしょうっ」
安心したのか、必要以上に非難する声が漏れて、慌てて口を閉じた。
「ごめん、なさい。
そんなにヒドく非難するつもりじゃなくて……っ」
「いいよ、気にしないで。
俺だってキスするくらいじゃ泣かせないけど、アノ時はきっと、いやってほど泣かせる自信があるし……」
さらりと、響哉さんが何かしらの問題発言を口にする。
「……え?」
「ほら、俺の気が変わらないうちにお風呂に入っておいで。
それとも、今すぐ組み敷かれたい?」
紅い唇が妖艶に歪む。
「け、結構ですっ」
どこまでが冗談なのか全く分からなくて、私は慌ててその横をすり抜けた。
想像を裏切らない広いお風呂。
湯船に使って身体を温める。
それだけで、疲労が全て溶けていきそう。
……響哉さんに抱きしめられているときと同じだわ、この感じ! なんて頭の片隅が呟いていることは、この際無視させていただきますっ。
「マーサちゃん」
すりガラスの向こうで声がする。
私は思わず無防備な自分の身体を抱きしめた。
一瞬にして、緊張感が走る。
「髪、洗ってあげようか?」
「だ、大丈夫ですっ」
緊張のあまり、声が裏返る。
「あれ? 昔は一緒にお風呂に入った仲なのに」
「いいから、とにかく出て行ってくださいっ」
「はいはい。
今日のところは、出て行くよ」
……喋り終わった後に、投げキッスの音が聞こえてきたのは、きのせい……ですよね?
それにしても、いったい、私はその昔、どれほどこの人に懐いていたというのかしら……。
無事にお風呂から上がった私は、響哉さんの「髪を乾かしてあげる☆」攻撃をかわすことは出来なくて、今、私はマーサの部屋だよ、と案内された部屋の中にある装飾が豪華な鏡台の前に座っている。
怖ろしいことに、ここは私のためだけに用意されていた部屋にしか見えない。
新しいベッド、新しい鏡台、新しい箪笥。
そう、ここにあるものは、全て、何もかもが新しい。
「私がここに住むって言わなかったら、これ、どうしていたんですか?」
鏡越し、美容師さながらの丁寧さと手際の良さで私の髪をセットしている響哉さんに聞いてみる。
「ん?」
と、あげた漆黒の瞳と、鏡越しに視線が絡んで、何故だか頬が赤らんでしまう。
だいたい、私はパジャマ姿で、響哉さんはシャツ姿っていうのも、こう、なんだかアンバランスでドキドキする。
響哉さんはドライヤーをオフにして、手櫛で私の髪を整えながら余裕のある笑みを浮かべ、色気と自信に満ち溢れた声で
「だって、マーサはここに来るって俺は信じてたから」
そういうと、逃げる暇も与えないままに、整えたばかりの私の髪の毛に恭しくキスを落とした。
「な、な、何するんですかっ」
「アメリカ暮らしが長くって。
ほら、向こうじゃ挨拶代わりにキスだから。
ごめんね」
全くもって気持ちの篭らないごめんね、を言うと、説明したから問題ないよね、と言わんばかりに私の頬にキスをして私の瞳を真っ直ぐに覗き込んできた。
「……わ、私は日本暮らしなんだからっ」
既に、自分が口にしている言葉が日本語としておかしなことも分からなくなってた。真っ直ぐに見つめられる黒い瞳に何もかも吸い込まれそうになって、どうしたらよいのか分からない。
「じゃあ、早く俺のスタイルに慣れればいい」
どうしてそう、高圧的に言ってくるかな?
「む、無茶言わないで下さいっ」
ここで諦めたら、明日からキスの嵐だわ。
危ない、危ない。
「で、これからどうする?
マーサちゃんは俺の添い寝が無いと眠れないんだったよね?」
どうしてそういうことが、真顔で言えるかな?
「いつの話か存じませんが、もう、一人で眠れるようになりましたので、添い寝していただかなくて結構です」
私は響哉さんの背中を押して、部屋の外へと押し出した。
「そうなんだ?
残念」
なんとか部屋の外に出てくれた響哉さんは、ドアに手をかけたまま、さして残念そうにもなく笑いながらそう言う。
「ところで、マーサちゃんって、朝はご飯派? それともパン派?」
「どっちでも大丈夫ですよ」
食事について自分の好みは口にしない。養女になった時から心がけていることの一つだ。響哉さんは何か言いたそうに私の瞳を覗きこむが、最終的にはふわりと微笑むにとどまった。
「そう。
明日は土曜日だから、学校休みだよね?」
こくりと私が頷くのを確かめると、
「じゃあ、ゆっくりお休み」
とだけ言って、さっきまでのしつこさが嘘のように、驚くほどあっさりと背中を向けて行ってしまった。
しばし、呆然と立ち尽くしていたけれど、時間も遅くなっていたのでそのままベッドに潜り込む。
さすが、シーツは極上の肌触りだし、ベッドのスプリングも丁度良い。
あまりの心地良さに、突然環境が変わったことも忘れ、私は早々に眠りに落ちてしまっていた。
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