2 その男ストーカー?
私は、須藤 響哉に渡された名刺を何度も見る。
株式会社スドウエンタープライス
代表取締役社長 須藤 響哉
その住所は、渋谷区のとあるビルの中になっていた。
もっとも、裏側に世田谷の住所と携帯番号が手書きで記されている。
その字だけ見れば、神経質で丁寧な人柄が忍ばれる気がした。
とはいえ、これを書いたのがあの男本人だと言う決め手はどこにもないけれど。
幾度も、頭の中で彼の姿を思い出す。
整った容姿。
それを崩してまで見せる甘い笑顔。
私の頭を撫でる、温かい掌。
そして、それらを思い出すたびに、私の胸には言葉にならないキュンとした気持ちが走っていくと言う事実は否めない。
だからといって、私は、家にある日突然現れた謎の男のところにほいほいついていくはずなんてない、と、思っていた。
そう、あの時までは。
突然、須藤響哉がうちに現れ瞬く間に去って行ってから、一週間ばかりが過ぎ去った。
もうすぐ、ゴールデンウィークという、皆の気持ちが少し浮き足立ったある日の放課後。
クラスメイトの白石くんに呼び止められた。
「ねぇ、花宮さん。
俺と付き合わない――?」
その言葉が上から目線にしか聞こえなかったのは、決して彼の背が高かったというだけの理由じゃないはず。
「結構です」
私は間髪入れず、無表情に断った。突然、ただのクラスメートにそんなことを言われて簡単にOKを出す人の方が少ないと思うの。
「ふぅん」
にこり、と。アイドル然したその顔に歪んだ笑顔を浮かべて、白石は私の腕を掴んだ。
「ねぇ、つれない事言わないでよ。
俺、去年からずっとマーサのこと見てたんだし。
同じクラスになったのも何かの縁だと思わない?」
お前は新手の新興宗教の勧誘者か!
と、突っ込みたくなるような適当な言葉に、私はぞっとするような薄ら寒さを覚えた。
だいたい、唐突に人を名前で呼び捨てにするとはどういう了見よ?
「思わないわよっ」
渾身の力をこめて睨む。が、
「すぐに気は変わると思うよ? 俺、振られたことなんて一度も無いし」
なんていいながら、白石は私の腕を掴んできた。
あーあ。こんなことなら、いくら近道だからって、人気(ひとけ)の少ない中庭を横切るのは辞めればよかったわ。
唇を噛むが、もう遅い。
私の腕を掴む白石の力は存外に強く、振り払うことなんて出来そうになかった。
「放してよっ」
「キスしてくれたら、放してあげる」
余裕を携えた笑みが、私に向けられる。
ぞくりとした悪寒が背中に走り、恐怖に涙が滲んできた。
「いいね、その決め事。
俺も参加していい?」
突然、背後から聞き覚えのある男の声が響いてきた。
振り向くまでもなく、それが須藤 響哉のものだと分かってしまう自分が少しだけ怖ろしい。
「……なんだよ、オッサンっ」
思わずきょとんとしてそんな本音を言う白石。
「何って、キスしてくれたら腕を放すってヤツに決まってるじゃない」
……いやいやいや。
場違いなほど余裕の表情でなんてこと言ってるんですか、須藤さん?
白石は須藤さんのあまりの余裕ぶりに混乱したのか、パッと私の手を放す。
一目散に逃げ出す様は、何か可愛らしくもあった。
「怪我はない? 大丈夫?」
須藤さんは一瞬のうちに私の肩に手を回し、耳元で優しく囁いた。
「……どうして、うちの学校に居るんですか?」
声をあげて初めて、自分が震えていることに気がついた。
「あれ?
マーサちゃんは助けられたときの礼儀を知らないの?」
「え?」
問いただすまでもなく、その広い腕の中へと抱き寄せられる。
「『怖かったーっ。
助けてくれてありがとう、キョーヤ!』でしょう?」
……その若干作った裏声は、私の台詞を指してます?
そして、密かに「キョーヤ」って呼ばせようと目論んでいますよね。
「……何すんのよ、大丈夫なんだから……っ」
威勢よく言ってみたつもりが、震えていて言葉にならない。
初めて男の圧倒的な力を見せ付けられて、怖かったんだ。
「大丈夫。
笑わないから、好きなだけ泣けばいい。マーサちゃん」
低く、優しい声に屈して、涙を零してしまった私をどうか責めないでもらいたい。ようやく泣き止んだ私の頭を、須藤さんはぽんぽんと撫でるように叩いた。
その絶妙な力加減が、泣き終わった後のやや痛みを伴う頭に、あまりにも心地良くて逃げ出すことを忘れてしまうほどだった。
そうして、その日の夕方。
気づけば私は、綺麗なワンピースを着て上着を羽織り、とあるレストランで食事をしていた。
もちろん、向かいの席には須藤 響哉。
泣いてしまって、興奮状態だったところを言葉巧みに宥められ、くらっときてしまい断りそびれたのだ。
……ああ、なんて単純な私。
ついでにこの素敵過ぎるワンピースは、制服だと目立つからっていう理由で、須藤さんが買ってくれた。
『こんな高いものいただけませんっ』
と、一度は本気で断ったんだけど、
『じゃあ、俺が脱がせて着替えさせてあげようか?』
なんて、自信たっぷりに言った挙句本気で迫ってこようとするので、身の危険を感じた私は、やむを得ずその親切を受けることにした……というわけ。
「どうして急に現れたんですか?」
前菜が来る前に、聞いてみた。
「正義の味方はいつだって、急に現れるものじゃないか」
……いやいや。須藤さん、正義の味方じゃないですよね?
「何のために学校に?」
「もちろん、マーサちゃんのストーキングのために」
「……いくらなんでも、ご冗談ですよね?」
笑えないままに問い返す。
「じゃあ、冗談だと取ってもらっても結構
何はともあれ、助かったんだから良かったじゃない。
でも、いつも傍に居てあげられるわけじゃないんだから、気を付けてよ」
応える態度はとても余裕が溢れていて、それがますます私を混乱させた。考える前に、どうでもいいようなことを口走っていた。
「須藤さんは、ほら。
一応私の婚約者なんですよね?
私があのままキスされても良かったんですか?」
くすり、と。ワイングラスを傾けながら、須藤さんが甘く笑った。
「どのみち、マーサちゃんのファーストキスは俺のものだし。
ガキの悪戯なんて、俺は気にしないよ?
もちろん、それでマーサちゃんが傷つくって言うなら、全力で助けるけど」
……それって、どういう意味?
訝しげに眉を潜める私を見て、須藤さんはスーツのポケットから携帯電話を取り出した。
「これ、機種変するたびにずっと持ち歩いてるんだよね」
ほら、見てみて?と。
自慢するかのように、彼のスマートフォンを手渡される。
その待ち受け画面には、今よりずーっと若い須藤さんの唇に、確かにちゅってしている小さな女の子(推定年齢3歳?)が写っていた。
「こ、これってっ」
「そう。まだ、若いマーサちゃん」
「いや、まだ若いのは須藤さんで、私はどっちかっていうと幼いって言ったほうが適切じゃないかと……」
「そんな細かいことはどっちだっていいよ。
とにかく、ほら。
これがマーサちゃんのファーストキスってわけ。
どう?
少しは大好きな『キョー兄ちゃん』のこと思い出してくれた?」
私は、ふるふると首を横に振る。
とはいえ、写真の中の幼い私は確かにキスを強要されているようには見えない。
むしろ、積極的に須藤さんの元にキスをしていた。
「そうそう。
この写真は真一がとったんだよ。
もっとも、まさか君が俺にキスするなんて思ってもなかったみたいで、とり終わった後酷く狼狽していたけれどね」
ついさっきの出来事を思い出すかのように、須藤さんは軽く言う。
それから、切なそうに瞳を細めた。
「……でも、マーサちゃんはあの事故の後、記憶を失っちゃったんだよね?」
私は、こくりと頷いた。
私たち三人、楽しく家族旅行に出かけた帰り、対向車線を走っていたはずのトラックが衝突してきた。後部座席、チャイルドシートに括りつけられていた私の命が助かったのはまさに奇跡だったのだけれど。
もう、6歳だったはずなのにその時のことは少しも思い出せない。
加えて、本当の両親に関するほとんどの記憶がリセットされてしまったのだ。
「本当は、あの後すぐに君を引き取ろうと思って頼んだんだよ。
でも、君が俺を覚えてなかったから、どうしようもなかった。酷く混乱していたし、それなら真一の弟夫妻に預けるのもやむをえないかと思って……」
「須藤さんは、パパとママーーつまり、真一と朝香のことを、よく知ってるんですか?」
「ほら、君の両親って学生結婚だったじゃない?
俺、学生時代の友人だから、丁度その頃良く一緒につるんでたんだ。
何でも知ってるよ」
両親のこと、もっと知りたい。
義理の両親に遠慮して、今まで押し殺していた気持ちが、ぶわぁと私の中に膨らんできた。
「……須藤さんって、お金持ちなんですよね?」
「そうだね。
マーサちゃん一人くらい養う自信はあるよ?」
私の考えていることなんて、言葉を聞かずともわかるのだろう。形の良い瞳が、意味ありげに優しく笑う。
私は思考をまとめるために、ぎゅっと瞳を閉じた。
どうせ、高校を卒業したらあの家は出なきゃいけないと思っていた。
いくらなんでも、大学進学費まで、義理の両親に出してもらうのは心苦しい。とはいえ、経済的な問題で遠慮して大学進学を辞退することをあの人たちは決して良しとはしないこともわかっていた。
……だったら。
「須藤さんの家に、置いてもらえますか?」
「おや、マーサちゃんってば、他人行儀なんだから。
逢えなかった10年分を取り戻すようにいっぱい愛してあげるよ」
……語尾に、年不相応なハートマークが山のように見える気がしたんだけど……。
きっと、きのせいよね?
ね?
いくらなんでも、分別あるオトナだし、パパとママの友達だって言うし……。
私は、幼い自分が「好きだった」という、見た目だけはパーフェクトなこの男を信じてみることに、決めた。
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