Sweet Lover

華寅 まつり

1 突然の来訪者

春の陽気麗らかな4月のある日。


「ただいまぁ」


家の前にどんと止めてあった、場違いなほど高級な光を放っている黒いベンツは見なかったことに決め込んで、玄関で声をあげる。


「ちょっ。

 姉貴、空気読めなすぎっ」


誰よりも早く、中学三年生の弟、コウスケが走り出てきて私の袖を引っ張った。


「何よ?」


迷惑な場所に止めてある高級車一台からどんな空気を読み取れと言うのか。眉間に皺を寄せた私に、コウスケは小生意気な表情で肩を竦める。


「しらねーよ。

 でもさ」


声を潜めて、その視線をリビングへと向ける。


「姉貴に、客……なんだって。

 今、おやじたちが話してる」


「え?

 お父さん、今日、仕事じゃなかったっけ?」


「わざわざお袋が呼び戻したんだよっ」


「えぇ、何、それ?」


普段から仕事のためなら家族サービスを犠牲にすることなんて全く厭わない父が、わざわざ平日の昼間に帰ってくるなんてどういうことだろう。

友人からも能天気で羨ましいと褒められることの多い私でも、じわりと胸の奥にただならぬものがこみ上げてくるのを感じずにはいららなかった。

ごくりと唾を飲むこむと同時に、がちゃ、と。

私が玄関に立ち尽くしているうちにリビングのドアが開いた。


中から顔を出したのは、テレビでしかお目にかかれないような絶世の美青年。

すらりと伸びた手足、眉目秀麗、の四字熟語がぴったりなそのマスク。

どうして、そんな人が我が家にしかもスーツ姿でいらっしゃるのかしら。


ああ、何かの営業?


「マーサちゃん」


「……はい」


名前を呼ばれ、条件反射のように頷くと、彼はにこりと微笑みその形の良い顔を崩した。自分にだけ向けられているとびきりの甘い笑顔にどきりと勝手に心臓がはねた。

彼は躊躇うこともなく私の傍までくると、そっと手を取って、私が呆気にとられている間にあろうことか手の甲に唇づけた。


「ちょちょちょ……っと。

 何するんですかっ!」


思わず裏返った声が出る。


「何って、久しぶりだね、プリンセスっていうご挨拶に決まってるじゃない?

 ああ、再会のキスは唇にして欲しい派?」


言うと、いとも簡単に私の顎に長い指をかける。


「うわぁああっ。

 待って、待ってくださいっ」


危うくファーストキスを奪われそうになった私は、近づいてきた綺麗な顔を止めるべく、声をあげる。

彼は、もうすぐぶつかりそうなきわどい距離でようやく動きを止めてくれた。

感じの良い香水の香りが鼻を掠めていく。

彼は瞳も閉じずに、その綺麗な顔にうっとりとした笑顔を浮かべる。


「いいよ。

 俺も飢えた獣じゃないから。そうだね、マーサちゃんの許可が下りるまでは待ってあげる」


……えーっと、一生そんな許可なんて下ろす予定はございませんが?


だって、あれだよね?

言っても結構なオジサンだよね?


「あの……。どちらさまですか?」


「ほら、やっぱりうちのマーサは君の名前すら記憶にないじゃないか」


思わず雰囲気に飲まれていたのか、それまでリビングの出口で立ち尽くしていたお父さんが、ようやく唇を開いた。

……っていうか、お父さん。そこに居たなら助けて頂戴っ!今、相当娘は危機に陥っていましたよ。


「だから、言ってるじゃないですか。

 真一くんと朝香さんの同意書ならさっきお見せしましたよね?」


少しうんざりした顔で、お父さんに向かって彼が言う。

それから、もう一度私に視線を向けた。


「マーサちゃん、いつまでここに突っ立っているつもり?

 靴が脱げないなら俺が脱がせてあげてもいいし、あるいは抱き上げてリビングに連れて行ってあげてもいいよ?

 そのときは俺の膝に座ってね」


……よくもまあ。


人の両親(義理だけど、でも育ての親であることは事実なんだからっ)の前で恥ずかしげもなくこんな台詞が次から次に滑るように出てくるものだ、と。

私は呆れるよりも感心してしまう。

もちろん、抱き上げられる前に自分で靴を脱ぎ、仕方が無いから制服姿のままリビングへと向かった。

ぽかんとしている弟を玄関に置いて


真一と、朝香。


私が6歳のとき交通事故で亡くなった。

そんな実の両親の名前をさらりと言ったその男は、躊躇うことも無くまるで当然の権利であるかのように、私を自分の隣へと座らせる。

それから、テーブルに広げてある紙を見せた。


それは、私も見たことがある紙だ。

パパとママの遺言状。

二人の資産の一切を私に引き継ぐ、とか。

そういうことが書いてある。


その末尾。


『尚、長女 花宮真朝の後見人としては弟の花宮啓二を指名する。また、真朝の婚約者は須藤 響哉とする』


もちろん、啓二おじさんはパパの遺言どおりに私を引き取ってくれて、今日まで「お父さん」でいてくれている。

でも……?


「誰よ、須藤 響哉(すどう きょうや)って」


「誰って、俺に決まってるじゃない?」


隣に居る紳士が甘い笑みを浮かべて言う。

自然に人の肩に手を回してこようとする図々しさはなんとかならないのっ!

私は慌ててその手を振り払う。


……いやいや、勝手にそんなことっ!

「だ、だいたい。

 私が見たときは遺言書にそんなことかいてありませんでしたけどっ」


きっと、須藤を睨む。

彼は、ウサギに睨まれたライオンのように余裕な態度で遠慮なく私の頭を撫でた。


「そういう目、朝香ちゃんにそっくり。

 そうそう、これはね。

 マーサちゃんが見たものより、新しいんだ。

 これでもマーサちゃんが16歳になるまで待っていたんだよ」


……これでもっていうのは、一体、何にかかっている言葉なんでしょうか?


「そういうわけで、マーサちゃんを引き取らせて頂きます」


一方的に滑らかに喋る須藤に比べて、両親は口を開かない。


「ちょっと、お父さん?」


私は慌てて口を開く。このままだと、私どこかに連れ去られてしまいますよ?


「……実はね、マーサちゃん。亡くなった時、真一の胸ポケットにもそういう紙が入ってたんだ」


父は綺麗に折りたたんである色の変わった紙を私の前に差し出した。


『私、花宮真一は、愛娘真朝を須藤響哉の婚約者とすることに依存はありません』


間違いなくパパの直筆で書かれたそれには、ご丁寧に日付と印鑑まで押してある。


「……な、によ、これ!

 勝手すぎるにもほどがあるでしょーっ。

 だいたい、何?

 あなた、パパと同い年くらい? だったらもう、三十代半ばよね? 分別のあるオトナだったらこうやって旧い書類をひけらかして女子高生を脅すなんて大人気ないことなんてしないでよっ」


私が一気にまくしたてたのを聞いた須藤は、ふと、その口許に悲しそうな笑みを浮かべて立ち上がった。


そうして、優しく私の頭を撫でる。


「そうだね。

 マーサちゃんの気持ちも考えず、突然押しかけてきて悪かった。

 しばらくはここに居るから、気が向いたら連絡して?」


そういって手書きのメモを添えた一枚の名刺を手渡してくれると、さっきまでのしつこさは何処へやら。

静かに(もっとも車のエンジン音は煩かったけれど)ウチから出て行った。

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