第2話「出張法律相談へ」
二月十九日。
奥多摩駅に降り立った鷹志田陽法は、鞄を地面に置いて一息ついた。
もともと武蔵立川に実家があることから、家族の車を借りて来ようと思っていたのだが、定年退職したばかりの父親が母親を連れて旅行に出掛けていたので仕方なしに電車を使うことにしたのである。
そのことを訪問先に告げると「駅まで迎えに行く」というので、親切に甘えることにしたのだ。
おそらく一泊はさせられるということなので、簡単な出張セットを旅行ケースに詰めてきたが、おそらく使うことはないだろう。
奥多摩といっても結局は東京都内だ。
日帰りのできない距離ではない。
ざっと周囲を見渡しても、気軽に時間を潰せそうな店などは見当たらなかった。
改札を出て左手にあった奥多摩観光案内所に入り、チラシとかを見て時間を潰す。
受付のおばさんから、10キロほど離れた場所にある
おそらく使うことはない。
「とは言っても、寒いな」
鷹志田はコートの襟を閉めた。
天気は悪くないが、やはり山奥ということもあり吹く風が冷たい。
もう少し重装備でもよかったかと後悔していた。
それでも時間は容易には過ぎず、改札脇の狭い待機所で落ち着くことにした。
一度、駅舎に戻り、自動販売機で缶コーヒーを購入する。
ちょうど、その上には飲み物の飲める喫茶スペースがあるらしいのだが、今日は時間がまだなのかただの休業日なのか開いていなかった。
彼の他にも何人か観光客らしい人々がおり、中には釣具と思しき装備に身を固めた男性グループもいた。
奥の方に行くとヤマメが釣れる場所があるらしいということは案内所のおばさんに聞いている。
「うわ、あったけえ」
コーヒーを口に含むと、少しだけ元気になった。
それからスマホを見ると、迎えが来るまではまだまだ時間があるようだった。
もっとも、駅前にはちょっとした軽食を食べられそうな場所があったが、そこに入るほどの時間の余裕はもうなさそうだ。
仕方ないのでベンチに腰を下ろした。
スマホにつなげたGメールにも新規のものはない。
(さて、どんな内容なのかな)
南場弁護士から話を聞いて以来、この宇留部家の案件についてはほとんど何も伝わってこなかった。
話を持ってきたという宇留部都議からも。
正直な話、この案件は立ち消えしたのではないかと思っていたぐらいだ。
つい先日までは。
その状況が一変したのは、三日前、宇留部家の当主の孫を名乗る女性から突然事務所に電話がかかってきたからだった。
女性は「宇留部舞衣」と名乗ると、「当主である祖母が床に伏してしまった。ついては彼女の相談に乗って欲しい」と依頼してきた。
法律相談自体はいい。いつもの仕事だからだ。
問題なのは、内容が皆目見当がつかないということだけだった。
「えー、ご当主の相談内容はどういったものなのでしょうか?」
「すいません、祖母は弁護士先生を呼べという一点張りで大切なことは聞いても教えてくれないんです」
「こちらとしては可能な限り資料を集めたりして、準備させていただきたいのですが……」
「いえ、私どもの無理なお願いを聞いていただく立場なので、先生は手ぶらで来ていただいても構いません」
「そうはいきません」
「ですが、本当に祖母は何も教えてくれないんです。先生との連絡を私にするように伝えただけで。一切合切、何も」
連絡係を勤めている孫娘が可哀想になり、それ以上のことは聞かなかった。
直接、電話をするということも提案したが、当主である刀自は電話口にさえでてくれないままであった。
結局、わかったのは二月十九日の木曜日に奥多摩の本家まで来て欲しいということと、もしかしたら泊まり込みになるかもしれないので着替えなどを用意してもらいたいということだけだった。
いくらなんでも都内で泊まりまでは必要ないだろうとたかをくくっていたのだが、念のためだと押し切られた。
舞衣と名乗った孫娘は、腰が低い割にぐいぐいと押してくる話し方をする女性であった。
十九日だけでなく二十日も、つまり二日拘束されるかもしれないとなると通常業務に支障をきたすおそれもある。
しかし、その点については、ボスである南場の「鷹志田くんの仕事は他のセンセイたちがやってくれるから心配しなくていい」という鶴の一声でなくなった。
確かに、まだ新米イソ弁の鷹志田には、彼でなければできないという案件は少なく、先輩イソ弁たちで十分にこなせるものばかりなので、助かるといえば助かったのだが。
そういう事情で、三日前に突然決まった出張であった。
「まだこないのか」
鷹志田は仕事を忘れ、スマホでお気に入りのまとめサイトのハシゴをはじめた。
基本的にサッカー好きな彼は、ほとんどサッカー関連のものしかみないが、たまに恋愛や家族のトラブル関連のものにも目を通す。ブックマークまでしてあるものをつらつらと流し読みした。
あまり有効的な時間の使い方ではないが暇つぶしにはもってこいだ。
そうこうしているうちに、三十分ほどが経ち、彼の名前が呼ばれた。
小さな声だったのですぐには気がつかなかったが、確かに「鷹志田先生?」と声をかけられたのだ。
顔を上げると、髪を束ね後頭部でまとめたシニョンにした、清楚な佇まいの美人が立っていた。
運転しやすいように厚手のパンツルックだが、おそらく普段はスカートスタイルが多いことだろう。
年齢は二十代。ただし、落ち着きようからして教育機関は卒業して就職はしているに違いない。やや野暮ったいのは化粧が薄目だからだ。
ナチュラルメイクよりもさらに薄い、軽くファンデーションをふった程度。
おそらくは家用だった。
「すいません、遅くなりました」
「いえ、気にしないでください」
駅舎から出ると、離れたところに白いライトバンがエンジンをかけたまま停めてある。
スズキのエブリイだった。
あれに乗ってきたらしいが、どう見ても目の前の美人の愛車とは思えない。
この美人が乗るのに相応しいのは、アウディのttとかだろう。しかも色はワインレッド。
趣味丸出しで鷹志田は妄想した。
「あれです」
指さされなくともわかる。
「すいません、あれしか出せる車がなくて」
申し訳なさそうに言われると、むしろ鷹志田の方が困る。
ライトバンに乗ること自体には特に抵抗はない。もしかして、弁護士というものはベンツやBMWしか乗らないとでも思われているのか。それこそ偏見だ。
「送り迎えしてもらえるだけで助かりますよ。ちなみに、あれ、貴女のお車ですか?」
「いいえ、叔父のものです。本当なら叔父が先生の迎えに行く予定だったのですが、朝から祖母の調子が悪くて……」
「それで待機していると?」
「はい、祖母の子供は全員姉妹なんですが、叔父だけは養子縁組をしていた息子なので、最期になったら看取りたいと……」
いや、もし刀自が亡くなるとしたら、この孫娘もお別れぐらいはしたいだろう。血の繋がった孫を差し置いて、養子の叔父が残るっておかしくないか。
鷹志田はおかしいと感じた。
そしてその振る舞いがまかり通る背景について思い当たった。
もしかして、この孫娘は一族での立場が弱いのではないかと。
ありうるとしたら、さっきの会話で言うとこの娘の母親である刀自の娘の立場が弱いか亡くなっている場合だ。
そうなると年上の親族の横暴がまかり通りやすい。
自分が呼ばれた背景がなんとなく見えた気がした。
「えっと、舞衣さんでよろしいですか?」
「あ、私、名乗りましたっけ?」
「電話で話したときと似た感じだったので。あっていたのなら良かった」
「すいません、きちんとしていないで」
その「すいません」を多言する喋り方から、少し話しただけで鷹志田にはわかった。
自信のないタイプなのだろう。
だから、すぐに謝罪めいた言葉を口にしてしまうのだ。
荷物を後ろに乗せるが、中は意外と綺麗だった。
農作業に使っている様子はない。普通に、近所を乗り回すために使う車のようだった。
叔父さんとやらは農夫ではないようだ。
「では出発しますね」
舞衣がエンジンを始動させる。
エブリイはスムーズに動き出した。
助手席はかなり狭く、分厚いコートを着ている鷹志田には窮屈すぎた。
息も苦しくなりそうだ。
席に座ると、山肌にこの地域の人間たちの墓が並んでいるのが見え、それがさらに悪い印象を与えた。
「バスとは方向が違うのですね」
どうやら観光客は、名所の日原鍾乳洞に向かうバスに乗るらしいが、彼らの目的地はちょうど山を挟んで反対側のようだった。渓流の釣り場に行くには日原鍾乳洞行きのバスに乗る必要があるため、釣り師たちとも逆になる。
途中で二股に分かれていくので、バス路線とはまったく別方面らしい。
「ええ、奥多摩といっても広いですから。うちの方向のバスって一日に三本ぐらいしか来ないんですよ」
「うわ、辺鄙だ……。あ、すみません、気を悪くしないでください」
「お気になさらず。確かにうちは奥多摩の中でも更に奥ですから」
からからと笑う舞衣の顔は美貌に相応しく明るいものだった。
やや翳がさしているのは、身内に不幸が起きそうなのだから仕方の無いところだろう。
もしかしたら、鷹志田が滞在している間に、高齢の刀自がなくなってしまう可能性もあるのだ。
彼としてもあまり楽しい話ではないが、それでも舞衣と親しくなれただけ得をしたかなと思えてならなかった。
出発したエブリイは二車線になったり一車線になったり安定しない道をゆっくりと進んでいく。
急なカーブなどはそれほど多くなく、道の高低差もあまりなかったので、狭い助手席に座る鷹志田にはだいぶ楽だった。
高低差がないせいか、甲州街道等と比べても比較的運転しやすい部類の道なりのように感じられる。
おかげで素直に景色を楽しむことができた。
二月の末なので溶け残った雪の塊がところどころにあるが、予想よりは少なかった。
ときおり眼下に渓流が見えたが、それほど激しい流れはない。
仕事であると考えなければ、のんびりとしたいいドライブだったかもしれない。
「つきました」
二人はほとんど会話することなく、三十分ほどのドライブを終えた。
何台か車を置くだけのスペースがあり、もう少し先に長めの階段があった。
その上に大きな日本家屋が建っている。
(あれが宇留部邸か)
鷹志田はたいした感慨もなくそう思った。
(何か、暗いものを感じるな。昔、殺人事件でもあったみたいだ。―――って横溝正史かよ)
そのくせ、巻き起こる不安のようなものに胸が苦しくなる。
嫌な予感がしたのだ。
ただ、その予感の正体がわからない以上、ここで引き返すわけにも行かない。
これは仕事なのだから。
「さて、行きますか、舞衣さん」
せめて陽気に声をかけたつもりだったが、やや声が上ずってしまっていたのは仕方ない。
噛まなかっただけまだマシだ。
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