忌怨 ―きえん―

陸 理明

第1話「とある若手弁護士」



 隣の同僚の席と区分けするために置かれている敷居がノックされた。

 そちらを振り向くと、この事務所のボスである南場壮一郎がコートを着た帰り支度のまま立っている。

 ほっこりとした丸い顔、栄養価の高いものを普段から食べていることがわかる恰幅のいい体型(肥満ともいう)、バーバリーの三つ揃い、恵まれた生活をしていることが一目瞭然だった。

 年齢は四十三歳。

 ばりばりの男盛りである。


鷹志田たかしだくん、ちょっといい?」

「もうお帰りなんですか、南場先生」

「うーん、僕のところには手のかかる案件がなかったからね。さっさと家に帰って息子と遊びたくなったのさ」


 南場には二歳になる息子がいる。

 四十を越えてから産まれた待望の一粒種なので、目の中に入れても痛くないほどに可愛がっていた。

 結婚して十年近くが経ち、もう子供は産まれないかもしれないと愚痴っていたときにできた待望の後継だった。

 嫁の実家のある新潟で一ヶ月ほどドンチャン騒ぎをしてきたぐらいに嬉しかったらしい。

 それ以来、二年が経った今でも引き続き機嫌がよいまだだった。

 未だ結婚もしていない鷹志田にとっては、まだよくわからない気持ちだったが、自分の上司の機嫌がいつも良いのは基本的にはいいことである。

 能力的には申し分のない上司でもあり、部下に対する日常でのあたりが良いにこしたことはない。


「まだ五時ですよ。羨ましいな」

「弁護士なんて自由業みたいなものだっていつも言っているでしょ。仕事がなくなれば即撤収、てっしゅー」


 鷹志田は自分の手元を見た。

 机の上に広げられていて、彼が懸命に取り組んでいるこの大量の書類は、午前中に南場が寄越したものだった。

 自分は忙しいという理由で。

 さっさと帰宅するのだったら、これは自分で処理してくれよ、と内心で罵りたくなったが、泣く子と上司には逆らえない。

 少なくとも弁護士として独立するだけのスキルと顧客を獲得するまで、この事務所で居候しなければならないのだ。

 経験豊富な弁護士のもとに居候的に雇われる若手弁護士のことを「イソ弁」というのだが、今の鷹志田はまさにそれなので文句を言うことはできない。

 相手はお給料を払ってくれる雇い主でもある。

 彼のロースクールでの同期の中には、イソ弁にすらなれずにマンションの一室を自前で借りて細々と開業しているものもいるのだから、まだ鷹志田は恵まれた部類に入るのである。

 わざわざ手に入れた有利な地位を自分から投げ捨てる気にはなれなかった。


「で、これを君に頼みたいんだけど」


 そう言って手渡されたのは、中身のほとんど入っていない薄いA4のファイルだった。

 南場が代表となっているこの弁護士事務所で、事件の分類をするために使用されている見慣れたファイルだ。

 表紙を見ると、「宇留部うるべ家関連」と手書きされている。

 鷹志田にとっては聞いたことのない名前だった。

 ファイルは真新しいもので中の書類も印刷したてのようなものが何枚か差し込まれているだけ。

 新規の依頼者だろうか。


「なんですか、これ?」

「宇留部さんとこの書類」

「それは見ればわかります。どうして私のところに来たのか、それが聞きたいんです。南場先生のご担当でしょ?」

「いや、違うんだ。ある都議の先生からの紹介でね。今度、その宇留部さんというお宅に法律相談に行かなくてはならなくなったんだけど、僕はちょっと行きたくないんだ。そこで君に頼もうかと」

「どーして?」


 鷹志田の口調が適当になった。

 もともと彼は学生時代に南場の教え子であったせいか、私生活でも仲が良い。

 わかりやすくいうと、年の離れた兄弟に近い関係ともいえた。


「宇留部さんの家は奥多摩にあるらしいんだ。しかも、下手したら泊まりになるかもしれないほどずっと奥の方って話だ。とてもじゃないが、そんな面倒なことはしたくない。息子と一日でも離れるのは嫌だしね」

「だからといって……」

「それに鷹志田くんの出身は武蔵立川だろ? 奥多摩なんて君の実家からすぐだ。それなら別に苦労もないんじゃないかな。いや、ないはずだ」

「武蔵立川から奥多摩までって、結構ありますよ」

「そんな田舎のことは知らないね。僕は麻布の産まれだし」


 麻布の貿易商のボンボン出身で、高校まで麻布高校だったエリート山の手市民は平然と田舎をバカにした。

 対して生まれも育ちも都下の多摩出身者である鷹志田はため息をついた。

 これだから区民は……。

 都下の人間は区民に対してやりきれない感情を抱くことが多い。


「で、法律相談ってなんですか? 出張してまでするような話なのですか?」

「おそらく相続関係じゃないかな。その家の刀自とじがだいぶ高齢だって話だから」

「刀自って―――ああ、おばあちゃんのことですね。まったく相談の内容ぐらい、その都議の先生から聞いておいてくださいよ。メールか電話じゃダメなんですかね」

「うーん、直接弁護士の先生を派遣してくれって話だったな。家に行って、その場で遺言書を作成したりするつもりじゃないのか。なんだったら、君がメールで聞いてみてくれないか」

「すごい丸投げっぷりですね。南場センセイ、もっとしっかりしてください」

「じゃあ、任せたから」


 鷹志田の嫌味を無視して、ボスは愛しの息子のもとへと帰っていく。

 舌打ちしつつファイルを覗くと、一枚の名刺が挟んであった。


「○×党都議会議員 宇留部康……ね」


 宇留部というからには、おそらくここの一族なのだろう。

 都議が自分の親戚のために優秀な弁護士を見つけだして、依頼してきたという構図が見える。

 面倒な話だった。

 今までに何度か議員というものが出席するパーティーに行ったことがあったが、その時の経験から鷹志田は都議に対して偏見を抱いている。

 彼が出席したパーティーには、国会議員と都議会議員、そして市会議員がそれぞれ招待されていて当然スピーチも任されていた。

 その時のスピーチの聴き比べをしてみると、国会議員はさすがに演説が上手くぐいぐいと押し込んでくる感じの強さを抱かせた。逆に、市会議員は話そのものは面白くもなくきびきびともしていないが、すぐ隣に住んでいるおっちゃんがたまたま政治の世界に足を突っ込んでしまったという親近感がある。

 立候補してまで国の代表になりたいという意思を持つものと、ご近所づきあいの延長線上で周囲に顔がきくから立候補したものの違いではあるだろう。

 どちらが上という訳ではないが、投票する選挙民がどういうことを期待しているかはわかるような気がした。

 問題なのは都議である。

 国の代表でもなく、地域の顔役でもなく、彼らはひどく中途半端な立ち位置のものたちだった。極論すれば、政党の推薦だけがあればいい、個人の能力・人柄などはあまり考慮されない「中途半端な地域」の代表という感じだった。

 鷹志田にとってはどっちつかずの印象しかない。

 だが、弁護士という職業―――ある意味では街の名士にあたる―――を続けるには、都議とパイプを繋いでおくことは悪いことではない。


「……南場センセイ、権威に弱いからなあ」


 都議にお願いされただけで、ひょいひょいと仕事を受けるのは止めてほしいものだ。将来的に議員にでもなる予定で、そのための布石なのだろうか。

 ファイルにはほとんど資料が挟まれてなかったが、とりあえず奥多摩にあるという宇留部家への地図は用意されていた。

 有名な日原鍾乳洞があるあたりよりもさらに奥だった。

 さすがに行ったことがない。

 しかも、宇留部家の名を冠したバス亭があるのだが、あまりに奥多摩駅から遠いので一日に三本ほどしかバスが出ていない。

 そのバスを利用できなければ、タクシーを使うしかない。

 しかし、距離的にはそれでもかなりある。

 ―――タクシーチケットを用意しておくかな。

 もしくは青梅あたりでレンタカーを借りてみる。どうせ経費で落ちるし。

 今の仕事をとりあえず棚に上げて、鷹志田は宇留部家の法律相談に向けての準備を始めた。

 おそらく相談内容は相続関係。

 都議の親戚がいるぐらいならば、おそらく宇留部家は奥多摩の旧家で名家のはずだ。

 そうすれば遺産関係だけでなく、その他の仕事も期待できる。

 南場にとってはあまり興味のない仕事なのだろう。彼に興味があるのは、あそらく宇留部都議との政治的な繋がりだけ。

 むしろ、弁護士としての大きな仕事のチャンスだと感じているのは鷹志田の方だった。

 前金としてどれだけ請求するか、成功報酬はどれぐらいか、一族の顧問になることで入ってくる顧問料諸々が頭の中で駆け巡る。

 独立するにはある程度の仕事と金が必要だ。

 宇留部の案件もきちんと接することで、かなり役に立つものになるだろう。

 鷹志田は社会正義を司る法曹とは思えない算盤を脳裏でハジキ始める。

 もともと彼は、弁護士のことを正義の側とか弱者の味方だとは思っていない。

 ただの職業の一種でしかなく、就業すれば金持ちになれる程度の気持ちしか有していなかった。


「人権なんてものを口にするのは法律家とチンピラだけ」


 と嘯き、憲法を貴重な得点源としてだけしか考えていないような男だった。

 そんな彼の姿勢を軽蔑するものもいたが、実際に弁護士として働いていた先輩たちには意外と高く評価されていた。

 正義感を持つのもいい。

 建前を大切にするのもいい。

 だが、所詮、弁護士などというものは法律を使う、依頼者にとってのツールでしかないという立場を理解しているものは数少ないからだ。

 もっとも、あまり営業的になってしまうのは、案件に向かう際に画一的作業的な対応に堕することになるので問題もあるのだけれど。


 彼―――鷹志田陽法たかしだはるのりは、そんな弁護士だった。

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