第19話「ランニング・イン・ザ・レイン」



 まだ雨は降り続けていた。

 あっという間に風と雨が体温を奪ってしまうだろう。

 視界が悪い中で山の中に迷い込んでしまえば遭難する。命に関わることになる。

 もっとも小夜子は幼い頃にこの屋敷で過ごした記憶があるからか、歩みに遅滞はなかった。

 隣にある大塚家に行くためのルートを呆然と歩いていた。


(どこまで世話を焼かせれば……!)


 鷹志田は舌打ちした。

 正直な話、勝手に飛び出した小夜子のことは放っておくべきだと思っていた。

 自分の身を危険に晒してまで、安全な居間に戻す必要はないはずだったが、そうもいかなかった。

 見捨てればいいと割り切ることはできない。

 所詮、鷹志田は生真面目なお人好しであるのだ。

 庭を見回すと、とにかく視界が悪い。

 風に煽られ、雨が顔を濡らし、眼に雨滴が入り込む。

 雨を手で払い落として、鷹志田は小夜子を追った。

 少し先で人が蹲っていた。

 素足のままなので泥に足を取られて転んだのだろう。


「おおおおい!」


 と、鷹志田が呼ぶとはじかれたように立ち上がり、そのまままた歩き出す。


「待ってください!」


 足を止める気配はなかった。

 宇留部屋敷の裏手から表にかけて、ぐるりと続いている植え込み、花壇がある場所に入る。

 その先に急な角度の階段がある。

 大塚家に行くための唯一の道であった。


「危ないったら!」


 案の定、階段に達したあたりで小夜子の身体はバランスを崩すがなんとか持ちこたえる。

 そうしている間に、鷹志田と静磨が追いつく。

 鷹志田のあとに続いていた静磨が、ふと足下に目をやると、光るものが落ちていた。

 立ち止まり、それを拾い上げると、キーホルダーだった。

 先についているのは無機質な黒い物体。

 見覚えがあった。


「プリウスのキーか……」


 寅彦がもって外出したはずの、車の鍵だった。

 静磨は一瞬ためらい、鍵を握り締めると鷹志田の背から目をそらした。


「そっちへ行くな!」


 追いついた。

 そのまま背後から抱きしめた。

 比較的大柄なので完全に抱え込むことはできない。濡れているためか、やたらと冷たく感じられた。

 階段の一段目に足を踏み出しかけていた小夜子をむりやりに引き止める。

 その階段がデッドラインのような気がしていた。

 もう間に合わないかもしれない。

 まだ大丈夫かもしれない。

 腕の中で小夜子が暴れ、肘が顔面に直撃した。

 目が回る。

 鼻の骨が折れたかもしれないが、鷹志田は離さなかった。

 彼が離せば、小夜子は階段を下りていき、この場から完全に逃げることになる。

 両手を振り回し闇雲に拳がぶつけられる。


「あああああああああああ!」


 雨の中で不自由な姿勢のままなので痛みはそれほどでもなかったが、ここで彼女の好きにさせるわけにはいかなかった。

 逃げ切れればそれでいい。

 だが、そううまくいくものだろうか。

 あの化け物―――ダイシ様から逃げきれるとはかぎらない。

 暴れまわっていた小夜子の身体が急に止まった。

 抵抗を止めてくれたのか、と思ったが、そうではなかった。

 彼女は下を見つめていた。

 その視線の先には、うつ伏せになって動かない、寅彦の身体があった。

 足を滑らせて落下して致命傷を負い、そのまま死んだとしか思えない格好だった。

 野晒しにされて生前よりも小さくなってしまったようだった。


「お父さん……」


 か細い悲鳴は雨と風にかき消される。


「お父さん……ああ……お父さん……」


 力尽きたのか、ただ嗚咽だけを漏らし始めるのに時間はかからなかった。

 たった一人生きている可能性のあった父を亡くしていた娘を慰めようとした刹那―――

 ぐらり。

 地面が揺れた。

 突然、足元の安定感がなくなった。

 鷹志田は咄嗟に小夜子を抱きしめたまま飛び退った。

 万事、運動神経の悪い彼にしては奇跡的な反応速度といえた。

 ほぼ同時にそれまで立っていた場所の土が崩れ、階段の一画とともに流されていく。

 地面の中に何かが埋まっていたのか―――それとも別の力が働いたのか。

 土砂が流出するように、さっきまで立っていたスペースが無くなっていき、階段はもう使い物にならなくなるぐらいに泥でぐちゃぐちゃになっていた。


「ひっ!」


 小夜子がへたりこむ。

 霊にでも取り憑かれたかのごとく、呆然としていた。

 鷹志田が肩を揺さぶると、ある一点を指差す。

 そこには―――


 朱いかすりの着物の女がいた。

 足袋も草履も履いていない白い素足がこの状況だというのに、やけに目に付いた。

 

 ―――ダイシ様だった。


 化け物も彼らを見ていた。

 鷹志田たちの顔面に雨と風が吹き付けて、耳鳴りがする。足が痙攣する。

 それが恐怖によるものだとすぐには気づけなかった。


(殺されるのか……)


 諦めかけた鷹志田だったが、落下を防ぐために抱きしめていた小夜子の身体がびくびくと怯えのために震えたことで我を取り戻す。

 まだ死にたくない。

 死にたくないのなら、どうする。

 彼には材料がある。

 化け物に通じるかもしれない材料がある。

 なら―――

 だったら―――


 交渉しよう。


 そう決めると、鷹志田は雨の中届きにくいことを承知で怒鳴った。


「待ってくれ、ダイシ様! わ、私たちは逃げない! 逃げないから、なにもしないでくれ!」


 小夜子が目を見開く。

 弁護士が錯乱したかと思ったのだ。 

 だが、鷹志田は至極真面目に交渉を始めた。


「あんたのやりたいこともしたいことも、私にはわかっている。さっき廊下で私を見逃してくれたのもそのためだろう!? だから、この娘と私をまた見逃してくれないか!」


 ダイシ様は棒立ちのままだ。

 化け物が聞き分けのいい大型犬のように見えた。


「きちんと仕事はする。約束する。だから、助けてくれ! 殺さないでくれ! お願いだから!」


 必死に命乞いをする鷹志田だったが、それが通じると信じきってはいなかった。

 ただ、空手形を切る気はない。

 化け物がここを引いてくれたら、口にしたことは成し遂げるつもりはあった。

 いや、やらなくてはならなかった。

 結局、それをしない限り、彼らは助からない。

 長い時間が過ぎたような気がしたが、実際には一分も経過していなかっただろう。

 雨に打たれながら、恐ろしいだけのものと対峙(そんな強い関係ではない。捕食動物と獲物以下の力関係だ)していると脳内が麻痺しそうになる。

 腕に痛みが走った。

 小夜子が爪を立てているのだ。

 拘束を逃れるためではなく、ただ恐怖のあまりにだった。

 ダイシ様の飛び出た双眸がじろりと動いたような気がした。

 すいーっと廊下で遭遇した時のように、化け物は横を向いて滑るように歩き出した。

 横から遠目で見ると、尋常ではないほど手足のバランスが悪い。

 四肢の長さもあっていない。

 霊界においては過去に誰かの恨みを買ったものはそれに相応しい異形になると聞いたことがあった。

 きっとダイシ様も恨みを買っていたのだろう。

 雨の降る森の中に化け物が完全に消えていったのを確認すると、


「とりあえず屋敷に帰りましょう、小夜子さん……」

「う、うん……」

「静磨さんも」


 返事はなかった。

 おかしいなと振り向き、何度もキョロキョロ見渡しても人の姿はない。

 二十七歳の派遣社員はどこにもいなかった。

 崩れてしまった階段の方にもいない。ダイシ様が消えた森の中にもいない。

 花壇の上には三人分の足跡があったので、おそらくさっきまではいたのだろう。

 では、どこに?

 鷹志田の考えでは、彼と静磨が襲われることはありえないはずだ。

 ただし、それには条件がある。

 ダイシ様の邪魔をしないということと―――


 逃げ出そうとしなければ―――だ。


「まさか……」


 昼になったことでわかるが、ここから一旦引き返し、屋敷の角をまっすぐいけば玄関に出る。

 そして、そこからわずかに進めば駐車場だ。

 昨日、舞衣と行ったからわかる。


「逃げたのかよ、静磨!」


 鷹志田は後悔した。

 きちんと彼が説明しておけば、静磨がそういう愚挙にでることはなかったはずだ。

 だが、そんな時間はなかった。

 だから彼には責任はないはずだった。

 しかし、いついなくなったかさえも定かでない静磨を追うことはできなかった。

 彼の手の中には絶望に打擲された女の子がいる。

 まず、彼にできることは彼女を保護することなのだ。

 そして、理解する。

 さっきダイシ様は彼らを慈悲心から見逃したのではないということを。


(静磨を追っていったんだ……。もう逃げる意志のなさそうな私たちよりも、あいつを優先したんだ)


 助かったということを素直には喜べなかった。

 また、一人を犠牲にして生き延びてしまったようなものだからだ。

 琴乃を見捨てた時のように。

 それでも鷹志田は立ち上がった。

 小夜子の脇に手を差し入れて、なんとか立たせる。

 彼女の縦縞のセーターは泥で汚れ、雨で濡れていた。

 整った顔も涙やなにかでぐちゃぐちゃだ。

 とりあえず、また彼女の手を握って鷹志田は歩き出した。

 今回も迷子の幼子のようについてくる年下の娘を、ふらつきながらも鷹志田は引っ張っていく。

 もう一度だけ、森の方を見た。 

 そして、祈った。


(……静磨くん、無事でいてくれよ)


 鷹志田にできることはもうそれしかなかった。

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