第17話「古賀家の人々」



 舞衣たちは、鷹志田の部屋に行くという二人と一時的に別れると、そのまま居間から少し離れたトイレに向かった。

 宇留部屋敷は個人のものとしては大きすぎる建物なので、トイレが居住区のすぐそばにある訳ではないのが不便だった。

 その分、五ヶ所に設置することで利便性を埋め合わせている。

 着いたトイレは一人用の洋式であった。

 居間から一番近くにあるトイレは和式の汲み取り式だったが、この洋式トイレはなんとか水洗となっている。

 こんな山奥にあるので、水洗があるというだけまだマシな方だ。

 だから、親族のほとんどがここを使うようにしていた。

 順番で一人ずつ用を足していく。

 五人もの親族が外で待っているという状況は、若い女の二人にとってはかなり気恥ずかしいものがあるとしても、そんな贅沢を言っている場合ではない。

 彼女たちは得体の知れない化け物に狙われているおそれがあるのだから。

 最初に、男二人がさっさと済ませ、次に女性陣が入っていった。

 ラストは菊美である。

 彼女はあまりお茶を飲んでいなかったせいもあり、実は大して催してもいなかった。

 むしろ極度のストレスからの発汗が多いくらいだ。

 だが、これから先に用を足せる機会がくるかどうかわからないので、無理にでもいっておくことにした。

 水が流れる音がして恥ずかしそうに舞衣が出てくると、入れ替わりに中に入る。

 TOTOの洋式の便器が設置されたトイレは、綺麗に掃除されていてジャスミンの落ち着いた香りが漂っている。

 三十センチ四方の正方形の窓から差し込む光と電灯の灯りが眩しく、今の屋敷内の状況を考えると異世界に紛れ込んでしまったかのように感じられた。

 快適な空間であることに、ほっとして便器の蓋を下ろしたまま座り込む。

 結局、トイレに入っても尿意は起きなかった。

 久しぶりに一人になったせいか、考え事がしやすくなると、未だ戻ってこない夫のことがなによりも気になった。


「お父さんは無事かしら……」


 彼女は夫の寅彦を愛していた。

 仕事としては肉体労働者で近所に自慢できるようなものではないが、人間としてはそれなりに頼りになるし、子供たちに対する態度も及第点以上の立派な父親であった。

 なにより彼女のことをよく見ていてくれた。

 顔はお世辞にも男前とはいえなくても、顔だけで旦那を選んだ姉がしている苦労を考えれば、そんなことはどうでもいいことだった。

 あと少しすれば、子供たちも家から独立して出ていく。

 そうすれば家は二人だけになる。

 母からの遺産でのんびりと二人で暮らしていくのもいいかもと将来の希望をもっていた。

 それなのに、なんでこんなことになってしまったのか……。

 頭を抱えて俯く菊美。


 その時、彼女が背中を向けているトイレの窓ガラスがスルリと横にスライドし始めた。

 鍵がかかっていないからか何の抵抗もないまま。

 無用心といえば無用心ではあるが、三十センチ四方の窓から泥棒が侵入することはまずありえないので設置していなかったのだ。

 宇留部屋敷が奥多摩の山奥にあるということもある。

 だが、その無用心が致命的な恐怖を招いた。

 完全に開ききった窓の外から、窓枠に白い手がかかり、全身を押し込むようにして顔が現れる。

 異常なほどに目が飛び出たひっつめ髪をした白い女の、歪んだ顔が。

 口を開いても歯らしいものはどこにも見当たらない。

 女は頭を無造作に窓の中に突っ込んできた。

 顔が入る。

 だが普通ならば肩は入らない。だから中には入れない。

 普通ならば。

 人は肩の骨さえ外せば頭と同じサイズの場所をくぐり抜けることができると言われている。

 それと同じことが起きたのか、それ以外の何か不可思議な力が働いているのか、理由はわからないが女の上半身がぬるりと蛇のごとくトイレの中に入り込む。

 覆いかぶさるように女がトイレの中に侵入してくる。


 菊美は気がつかない。

 窓が開いたことで外気が入り冷えているはずなのに、夫のことを心配することに夢中になり自分の背後で起きていることに気がつかない。


 女が両手を広げた。

 万歳をしているようであった。

 そのせいで内へと注がれる陽光が遮られ暗くなったのに菊美は自分の世界に入り込んでしまっていて異常を察知できない。


 一人になったことで、自分の考えごとに集中できるようになったのがいけなかった。

 菊美は寅彦のことだけを想っていた。


 女の朱いかすりの着物の袖から伸びた白い枝みたいな両手が、そっと背後から回される。

 抱擁するかのように。


「お父さん……」


 それがまともにでた菊美の最後の言葉だった。

 次の瞬間、彼女の口は背後から押さえられ、腰に絡みついた手が猛烈に彼女を後ろに引っ張り上げた。

 何が起きたかわからず、菊美の四肢が狭いトイレの壁を叩き蹴り上げる。

 大きな音がしたが、彼女自身の抵抗はわずかだった。

 無理矢理に後ろから抱きすくめられ、引っ張られたことで態勢が悪くまともに力が入らないのだ。

トイレの戸を外から叩く音がした。

 異常にきづいた親族が彼女に問いかけているのだ。

 だが、口を押さえられた彼女は何も言えない。

 もごもご呻くだけ。


 はーっ、はーっ、はーっ


 耳元で荒い息を吐く呼吸音がした。

 着物の女の吐息だった。

 抵抗しても、抵抗しても、菊美はただ背後に吊られていく。

もう足をジタバタさせることしかできなかった……



     ◇◆◇



突然、中から大きな音がし始めたトイレの様子に全員の視線が集中する。

何事が起きたのか、舞衣が戸を叩いた。


「叔母さま、どうしました? 叔母さま!」

「お母さん、ちょっと何があったのか、お母さん!」


 小夜子も声をかけた。

 だが、返事はない。

 ただドタバタと暴れる音だけが中から響いてくる。

 戸を叩いて呼びかけても反応がない。

 菊美が中にいるはずなのに。

 さすがに全員の顔色が変わる。

 今は普通のときではない。緊急時といってもいい。そうであるのならば、無茶をするべきだ。


「武兄さん手伝って!」

「お、おう」


 さすがの武も深刻なトラブルが起きたということを察し、無視は出来ずに手伝わざるを得なかった。

 男二人が戸の前に立ち、一気に肩からぶちかます。

 内側から鍵がかかっている以上、壊して侵入するしか方法がない。

 一回目ではダメであったが、二度目のぶちかましで戸の蝶番がきしみ声を上げる。

 元ラグビー部の武の大柄な体だからこそ、これだけ簡単に効果が発揮されたのだ。

 そして、三回目の激突で、がたりと上の蝶番が外れ、斜めに外れかけた戸の製で中が見えるになった。

 舞衣たちが覗き込むと、その形のいい唇から悲鳴が漏れる。

 最も大きな声をあげたのは最年長である男の武だったが、全員が叫びをあげずにはいられなかった。

 なぜなら、菊美の両足がトイレの窓から蠢きながら出ようとしているところだったからだ。

 しかも、それは彼女の意志でないことは明白だ。 

 トイレ用のスリッパが脱げた足の裏は踵が下にあり、つまりは走り高跳びで言う背面跳びのように背中を下にした体勢で出ようとしているのだからだ。

 どうやって菊美が窓を出たのかもわからない。

 もぞもぞと蠢く両足がついに外に完全に出てしまおうとしたとき、ようやく我に返った智がその足首を捕まえようと動いた。

 だが、その手は宙を掴み、あっけなく菊美は三十センチ四方しかない窓から消えてしまった。


「うわわああぁあ、母さん、母さん!」


 智は叫びだすと、窓から顔を出そうとしたが便器が邪魔で行けなかった。そのため、一瞬だけ悩むとそのままトイレから飛び出し、脇にあるガラス戸から外へ裸足のまま飛び出した。


「智、待ちなさい!」


 小夜子の声を無視して、雨のせいで濡れた地面に立つと泥を跳ねる。

 ズボンの汚れなど智は気にしなかった。

 母親の方がもっともっと大事だったからだ。

 もう父親はいないかもしれない。

 さすがにこうなってしまっては楽観的なことは言えない。

 だから、もう母親まで喪いたくはなかった。

 左右をキョロキョロと見渡す。

 雨のせいで遠くまでは見通せないが、まだそこまで遠くには行っていない……はずだった。

 案の定、少し離れた場所にいた。

 だらしなく足を投げ出して座り込んだ姿勢のまま、背後から何かに引きづられて遠ざかる母親が。

 引きづられた跡が轍のように残っていた。


「母さん、母さん!」


 智は母のあとを追う。

 歩くなんてできない。

 自然と走り出した。

 彼女をさらおうとしているものがいったいどんなモノであるのかさえ気にしなかった。

 あのまま連れ去られれば、母親がこの世からいなくなるなんてことはわかりきっているのだから、救うのならば今しかないのだ。

 母親の姿が屋敷の壁の一画を曲がり消えた。

 それを追う智も角を曲がる。

 その彼の首に何か冷たいものが巻き付いた。

 呼吸が苦しくなる。

 はっと横を向くと、目の飛び出した女の顔が目の前にあった。

 密着して抱きしめられていたのだ。


「うわ、うわああああ!」


 かろうじて叫びだけはあげられた。

 だが、それだけだった。

 絡みつくように粘っこい女の身体を押し放すことはできなかった。

 むしろさらにまとわりついてくる。

 女の大きな口が智の頬に触れた。

 気持ちの悪い粘液を感じられた。

 鼻をつく異臭がする。

 喉元に何かが逆流してきた。

 それは酸っぱい反吐だった。

 敢えて言うのならば、夏場に放置しておいた味噌汁が腐ったような臭い。

 

「放せ……よ……」


 この期に及んで智はたいしたことは言えなかった。

 ただ彼が言えたのは、ホンの一言。


「母さん……」


 彼の最期の言葉は、なんの芸もない、たったそれだけ。







 こうして、二人、いなくなった……

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