第28話 妄想の地図(1)
理紅は何の荷物も持たずにそのまま僕の家に居着いた。
僕が作った食事を二人で食べて、古い時代の映画を二人で観て、古い時代のゲームを少し楽しんで、シャワーを浴びて、同じベッドで眠った。
僕はまだ子供だけど、誰かと一緒に眠った思い出をさぐると、かなり幼い時期まで記憶を掘りおこす必要がある。
理紅は何の遠慮も緊張も感じさせない態度で、ずっと以前からここに住んでいたみたいに、目を閉じるとすぐに寝息をたてた。
理紅の呼吸と体温を間近に感じていると、なんだか安心してしまって、僕もすぐに眠りに落ちた。
そして僕は夢を見る。いつもと同じような夢。とびきりきれいな女の子が登場する夢だ。
その女の子は積み上げられた死体のてっぺんに横たわっている。辺りは暗く、音楽のようなものが幽かに聴こえている。山積みの屍はすべて青ざめていて、その頂上で眠る女の子だけが蜂蜜色に輝いていた。温かそうな髪。ゆっくり上下する胸。
見つめていると、どきどきして胸が苦しくなってくる。
ひょっとすると僕は劣情を催していたのかもしれない。
女の子が、急にぱっちり目を覚ます。
死体の山から下りてくる。ワンピースの裾が一歩ごとに揺れる。裸足で地面に立つ。にっこり微笑む。
それから彼女は、ゆっくりと踊りはじめた。
ゆるやかで、つつましいダンス。
踊りながら鼻歌をうたっている。
きれいなメロディ。
物語の終わりにふさわしいような。
そこで僕は目を覚ます。いつもの自分の部屋。さっきまで見ていた夢の残骸が周囲にちらちら舞っている。
夢の中で聞こえていた音楽がまだ鳴っていた。ベッド横の小さなテーブル。そこに理紅が腰かけていて、夢で聞いたのと同じ鼻歌をうたっているのだ。
「おはよ、ナノ」理紅が意地悪そうに微笑む。「今日も会えたね」
霧川が20億回も繰り返した挨拶の言葉。
「なんちゃって」と理紅は舌を出した。
僕は何も言えずにいる。
これは今まで一度も経験したことのない朝だ。と僕は思う。
僕たちはきちんとした朝食を取り、二人で理紅の家に向かった。理紅の制服や、学校に持っていくものが必要だからだ。荷物はあとで運ぶことにした。
理紅が着替えるのを待って、僕たちは一緒に登校する。
霧川と20億回も鉢合わせたいつもの場所を通りかかっても、霧川はそこに現れない。
学校に着くと、僕は保健室に向かう。理紅もついてきた。
保健室には誰もいない。
僕は勝手に薬を飲んで、今日の僕を細部まできっちりと決定する。
「やや男の子よりの感じだね」と理紅が評した。
僕は薬の瓶を自分の鞄にそっと忍ばせる。
どうせ僕にしか必要のない薬だ。
二度とこの部屋に来ることもないだろう。
板張りの廊下を歩いて、僕たちは教室に戻る。
教室に生徒の数は少ない。
失踪事件もペースが落ちないし、それに加えて今では冷凍睡眠も再開されている。
理紅をメンバーに含まない冷凍睡眠計画には、何の問題もないようだった。
おかげで、すごいスピードで学校からも街からも人が消えていく。
当然、教師の数もどんどん減っている。空き時間となる授業も増えてきた。
吉野先生も、もういない。
放課後に部活をすることもなくなった。
帰り際に靴箱を開くと、決闘を申し込む手紙が今日も届いていた。
僕と理紅は決闘場に向かう。
前回よりもさらに深い階層で、僕たちは戦う。
●
○
○
「私たちが戦いから逃れるには、素直に冷凍睡眠のプログラムに従うしかないのかもしれないね」
戦いを終えて帰宅すると、理紅は僕の家のソファにどっかりと寝転んだ。
クッションに顔を埋めて、うつぶせになる。
「でも凍ってしまうと、世界が終わるところが見られないよ」
「そうなんだよなあ」
「そもそも、世界の終わりを見たいから、凍るのをやめたんだよ。忘れたの?」
「そうだった」
「そう決断した途端に、僕たちの生活に戦いがつきまとい始めた」
「世界には戦いなんてなかったのに。私たちは戦いを覚えてしまった。戦いを知らなかった人類が戦いを覚え、戦いによってものごとを解決しようとしている」理紅がクッションから顔を上げて、横向きに寝転んだ。「そして戦う力のないものは、ひっそりと消えるか、凍り付く。力こそが全て。なんだか、歴史の初期状態にいるような気がしない?」
「これから文明が進んでいくのかな」
「そのために必要な人口がほとんどないよ。あったとしても、すぐに死のウイルスが世界中に蔓延するし」
「僕たちは凍らないから、最後はウイルスによって死ぬんだね」
「仲良く二人でね」
「どうせ僕たち以外はみんな凍るのに、僕たちは誰と、何のために戦っているんだろう」
「そこなんだよ」理紅はうつぶせのまま、こもった声で言う。「私たちの目的は何?」
「敵は、冷凍睡眠から逃げようとする僕たちが許せないのかも」
「もうバレてるってこと? 私たちが凍らないつもりなのが」
「そう」
「誰に?」
「誰だろう……」
「ナノ、さっきから適当に喋ってるね」
「いや、ちゃんと考えてるよ。たとえば、冷凍睡眠から逃れようとしている人たちが、僕たちの他にいてもおかしくはない……とはやっぱり思う」
「じゃあ、凍りたくない人たち同士で戦ってるってわけ?」
「そういう気がする」
「仲良くできないのかな」
「さあ……向こうから決闘状が届いているわけだし」
「そこだよね。どうして私たちが〈戦える相手〉だってバレてるのかな? だって、私たちは決闘状を書くことなんてできないじゃない? どこの誰が戦いのルールを知ってる人なのか、わからないし」
「たしかに……。それにもし、決闘状に従わず、戦いから逃げたらどうなるんだろう」
「逃げ回っていたら、いずれ凍るしか道はなくなるんじゃない?」
「凍らなくても、近い将来、死のウイルスは100%襲来する」
「堂々巡りだね。結局、ウイルスによって死ぬのが〈世界の終わり〉を見たことになるのか? いや、それって世界の途中だよな。だって他のみんなは凍りついてて、いつか解凍されて、世界の続きを見ることができるんだから」
「決闘じゃなくても、昨日みたいに突然敵が襲ってくるパターンもあるんだよ。どちらにしろ戦いからは逃げられないと思う」
「そうか……」理紅は再びうつ伏せになり、細い体を伸ばしたまま動かなくなった。
僕はそのまっすぐな背中に声をかける。
「理紅は、戦いが嫌い?」
「嫌い、というより……」理紅は顔を上げない。「私はもう、戦いそのものに失望してるのかも。勝つか負けるか、その二つしか結果が出ないなんて、なかなか古典的な思想だなって思うよ。はっきり言ってしまえば、古い」
「古くなるために戦うのかもしれない」僕は思いつきを口にしてみる。「僕たちは地上時代の人間たちのような大げさな感情や、戦って勝ち負けを決めるような愚かさを身につける必要があるんじゃないかと思うんだ」
「何のために?」
「世界を最初からやり直すために」僕は深く考えもせずに言う。「やり直すためには、終わるしかない。そして最初からやり直すためには、最初の人類にならなければならない。きっと最初の人類の愚かさが僕たちには欠けているんだ。戦って、その愚かさを取り戻すんだよ」
「どうしてわざわざ最初からやり直すんだよ」
「失敗したから」
「何に?」
「進化……あるいは進歩に」
「ふふっ」と理紅が鼻で笑った。「きみの理屈には、一度だって根拠があったためしがないね」
「根拠って概念がよくわからないんだ」
僕は素直に認める。
それは僕が、この世界の枠組みをいちいち疑ってしまうことと、何か関係があるかもしれない。
僕の人生にはどこか現実感が欠けている。夜に見る夢と、目が覚めてからの現実。その二つを区別する必要を感じていない。
夢と現実、両方の世界での法則は大きく異なる場合があるけど、どちらの世界の僕も僕の意思でしか動かないし、どちらの世界の僕も心拍数は同じだ。
「自分でわかってる? きみはあまりにも都合の良い存在なんだよ」クッションに顔を押しつけたまましゃべるものだから、理紅の声は聞き取りづらい。「年齢は11歳。子供だけど、幼児ではない。自分の責任において何かを決定することは充分に可能な年齢。だからといって大人から責任を追及されるようなこともない。衣食住の心配もない。性別は流動的。ルックスはなかなか可愛らしいし、頭も良い。誰からも好かれて、とくに女性から嫌われるってことがまるでない。どんな弱音を吐いても聞いてもらえるし、どんな言い訳にも耳を傾けてもらえる。戦えば勝つ。とくに努力する必要もなく。何ごとにおいても勝ち続けることができる。どう?」
「どうって言われても……」
「まるで単純な物語の主人公みたいじゃないか」
「僕が?」
「それか、誰かが夢見ている理想の自分……みたいな」
「僕は、誰かの空想上の存在なのかな?」
「だったら私は誰なんだよ」理紅が非難するような口調で言う。「ナノの夢の中に登場する脇役ってこと?」
「僕は何も言ってないよ」
「私だって眠っているあいだに、夢を見るんだからね」
そうか。
理紅も夢を見る。
夢。
そのことについて考え出すと、いつもこの世界が信じられなくなる。
この世界で閲覧可能な大量のフィクションに【夢】はたびたび登場する。
なのに、じっさいには誰も夢を見たことがないし、夢という概念を理解する者も、僕たち以外にはいない。
結局僕たちは、この世界についてあまりにも無知なのだ。
だから議論は堂々めぐりになるし、ただの根拠のない妄想を積み上げていくだけで終わってしまう。
「理紅は前に言ってたよね。集められた材料によってこの世界は変化してるって」
「ああ、言ったね、そんなこと」理紅はうつぶせのまま足をゆっくり動かして円を描いている。「地球が丸いと判断できる材料をすべて拾い集めた人たちが、地球は丸いと気づいた。だから地球は丸くなった。地球は平面だとする材料も転がっていたけど、そちらは一部の材料しか拾われなかった」
「僕たちは材料を集めなければいけないんじゃない?」と僕は言った。少し早口になっていることを自覚する。「この世界を変化させるために。僕の理屈に根拠がないって言うけど、僕たち自身がその根拠、つまり材料を集めなくちゃいけないんだよ。そうすれば、世界は集められた材料の通りに姿を変える」
「そのために戦いが必要ってこと?」理紅が足の動きを止める。
「そう。地上時代に制作された映画や小説といった物語には、僕の知る限り、すべて闘争の要素が組み込まれている。直接的であれ、間接的であれ。戦いを少しも描かない物語なんてものは存在しない」
「そうかも」
「そうだよ。ところが僕たちの時代には、ついこの間まで、戦いそのものが存在しなかった。だから僕たちの世界には物語が作られなくなった。つまり……」
「戦いを知ることは、私たちにとって重要だって言いたいの?」
「少なくとも無意味ではないと思う」
「ああ、そうか。私たちが生きているこの世界は、すべて過去の物語からの引用なのかもしれないね」理紅がクッションから顔を離してこちらを見た。水色の髪が顔をほとんど隠している。「だとすれば、私たちが物語の登場人物であろうと、誰かの見た夢の中に住んでいるのであろうと、いつでも何かを変えることはできるのかもしれない。適切な引用さえできれば」
「理紅のその意見にだって根拠は感じられないよ」
「あはは、結局私たちの言葉って、ただの妄言でしかないんだね」理紅は再び枕に顔を埋めて笑う。「とくに私なんて、一度凍ってるからね。あのとき凍ってしまった論理的思考というやつが、まだきちんと溶けていないのかも」
僕たちは最初に出会ったときからずっと、妄言をぶつけ合っているだけだ。
すべての言葉に根拠はないし、すべての言葉に確信もない。
生きている限り、人と人との会話は噛み合わない。
ただ、言葉を発することによって、世界のどこかがひそかに変容し続けている。
「そうだ、理紅が凍っていたとき、理紅以外の人間は全員死んだんだよね? 理紅だけが生き残った。あれはいったい、冷凍庫のなかで何が起こったの?」
気が緩んでいたのだろうか。
何となく聞いてはいけないと思っていた質問を、僕は自然にしてしまっている。
僕は理紅の様子を窺う。
自分で質問したくせに、僕はひどく緊張していた。
「やっとそれを聞いたね」と理紅は言う。
「避けては通れない問題だと思う」
「まあ、そうか」理紅は勢いよく身を起こして、ソファに座り直す。「ここをうやむやにしてきたのは、たしかによくない」
「話してくれるの?」
「たいした話じゃないよ。きみはがっかりすると思う」理紅は不敵に微笑んだ。「それでは、謎に満ちた【冷凍庫大量殺人事件】、その解答編の、はじまりはじまり」
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