第27話 彼女の癖

 金子かねこシロウ、射場いとばりり子、相原あいはらつぐみ、小城おじろ久志ひさし浦原うらはらマリカ、九谷くたに七緒ななおたき京一郎きょういちろう雨海あまがいアイメル、雨海あまがいユリイカ、柿岡かきおかしゅう紙屋かみや萌奈もえな市岡いちおか相太そうた……。

 僕たちは毎日のように敵からの挑戦を受けた。連戦連勝。理紅の絵は次々に発想の殻を破り、僕のイメージを刺激する。

 負ける気がしなかった。


 一方で世界は静まりかえってゆく、

 この数か月で、通行禁止になった区画も、手入れの行き届かなくなった施設も、失踪者の数も、飛躍的に増えた。

 閉鎖された学級があり、つぶれた工場があり、終わってしまうサービスがあった。

 冷凍睡眠は予告通り再開された。有居理紅はまだ冷凍睡眠の届けを出しておらず、そのためか冷凍庫では何の事件も起きていない。

 といっても、結局は理紅や僕の順番だって来る。僕たちはそこから逃げようとしていたはずだ。

 でも、どうやって?

 人々は少しずつ凍りついていて、世界は徐々に狭まっているのだ。

 終わりは急速に近づいている。


 僕と理紅は一緒にいることが多くなった。

 たいていの放課後には、力を合わせて決闘場で戦った。

 見たこともない人たちと。

 勝利を収めるごとに、決闘場の位置が深くなることに僕たちは気づいていた。勝てば勝つほど、深い階層で戦うことになるのだ。地下へ地下へと潜り続ける僕たち。

 いちばん下には何があるのだろう。

「何にもないんじゃない?」と理紅は言う。

 霧川とは少しずつ疎遠になっていった。

 放課後にはたいてい決闘があるから、霧川とは帰らないことが多くなった。朝はいつも通りに〈鉢合わせ〉のイベントが起こるけど、以前のように会話は弾まない。

 決闘のことは、もちろん霧川は知らない。それでも、僕と理紅がふたりで行動する時間を、霧川は明らかにこころよく思っていない様子だった。

 けれど僕は戦いたいのだ。敵を倒したい。世界を終わらせたい。

 それは衝動だ。

 衝動に突き動かされるなんて、単純だと自分でも思う。

 なのにどうしても逆らうことができない。

 戦うほどに僕は馬鹿になっていく。

 

 だからその日、霧川が僕の家を訪れたのは、とても久しぶりのことだった。

 霧川は少し疲れている様子で、表情もどことなく決まり悪そうだった。

「こんばんは」霧川は僕に軽く挨拶をして、それから足もとに寄ってきた僕の猫を撫でた。「ディディエ、元気だった?」

 勝手に付けた名前で猫を呼ぶ。この猫に名前はないのに。

 猫は素直に甘えた声を出した。何と言ったのかはわからない。

「今日は何の用? 勉強?」

 僕が聞くと、霧川はゆっくりと首を横に振った。

「じゃあ、ごはんでも食べる?」

「それも違う」

「だったら何?」

「ナノ」霧川は少し緊張しているようだった。「私、凍ることにしたの」

「凍る……」それが冷凍睡眠のことを言っているのだと、一瞬では理解できなかった。僕にとっては過去のシステムだったからだ。

「届けを出してきたの」

「急だね……」

「どうせ全員凍らなきゃいけないのよ」

「それはそうだけど……いつ?」

「来週の日曜日」

「ほんとに急だ」

「ナノと一緒に凍るつもりだったんだけど……耐えられなくて」

「何が?」

「私、もう一刻も早く凍りたいの。一刻も早く安心したい」

「安心? 凍ることが?」

「だって、人がどんどんいなくなってる。毎日毎日、とても心細いの。心細い、ってこういう気持ちだったのね。どうして今まで平気で生きてこられたんだろう。こんなに恐ろしい世界なのに。凍らなければウイルスで死んでしまう。凍ったら、次はいつ目が覚めるかわからない。その保証もない。だったら、一刻も早く凍りついたほうがまし。凍って、何も考えずに次の時代まで眠りたいの。最近はいつも、朝が来るのが怖い。眠ること以上の安心ってないと思う。ずっと起きなくて良いのだったら」

 その言葉は、霧川が自分の心を整理しているようにも、言い訳のようにも聞こえた。どこか切羽詰まったものも感じる。

 何かを言わなくてはいけない、と感じて、僕は簡単に「そうだね」と同意してみせた。本当は少しも理解していないくせに。こういうときの自分の浅薄さには死ぬほど嫌気が差す。

「ナノはいつ凍るの? やっぱり最後?」霧川が少し明るい声で言った。

「うん。そうしようと思ってる」

 僕はまた嘘をついた。僕は凍らない。僕と理紅だけは凍りつかないのだ。

 僕はなぜか胸がいっぱいになってしまう。何かの予感が僕を支配している。何なのかはわからない。わからないことだらけだ。戦うようになってから、僕は本当に頭が悪くなった。

 霧川は胸に抱いていた僕の猫を解放した。猫は僕の足にじゃれついてくる。

「私、もう学校には来ないよ」霧川はまっすぐに僕を見て言った。

「明日から?」

「明日から」

「そうなんだ……えっと」

 と言ったきり、僕は言葉に詰まってしまう。何を言えば良いだろう? 時間はどんどん流れていく。猫が僕の足もとから去った。

「最後に、安心の補充をしていい?」

 霧川は僕を椅子に座らせた。僕の正面に立ち、僕の両肩に手を置く。体を寄せてくる。霧川の長い髪が、僕の胸に垂れ下がってくる。

「凍るのに、安心の補充なんて必要?」僕は余計なことを言った。「安心するために凍るのに」

「凍るために必要な安心」

 抽象画みたいな不思議なタイトルをつけて、霧川は僕の背中に両腕を回した。

 霧川の小さな顎が僕の肩にのって、霧川の冷たい耳は僕の頬に押しつけられた。

 僕の顔は霧川のしなやかな髪の毛に埋まってしまい、僕の胸は霧川のかすかな嗚咽で振動した。

 霧川の匂いや体温といったものが、とても貴重で美しいものだと感じられて、凍らせたくない、という自分勝手な欲望がいまさら僕の中に生まれる。

「氷が溶けたあとに、また会えたらいいね」と霧川はささやいた。

 霧川の左手は、いつものように僕の後頭部の髪の毛を握りしめている。

 彼女の癖。

 最後まで変わらなかった。

 寂しさとしか言いようのない感情が僕をゆっくりと満たしていく。そんなふうに分析できてしまう僕の冷酷さが邪魔だ。


 どれくらいの時間そうしていただろう。ようやく霧川が僕から離れた。霧川の頬は濡れていた。僕の頬も。乱れた髪を片手で簡単に整えると、霧川は僕の部屋を無言で出て行った。


 ○

 ○

 ●


 僕はしばらく何もする気になれなくて、ただ椅子に座っていた。僕の後頭部には、まだ霧川に触られているような感触があった。

 霧川のことを今日は下の名前で呼ばなかったことに気づく。

 呼んであげるべきだった。

 ルルナ。

 とても短い音なのに。


 そんなふうに心が乱れていたからだろうか。

 部屋の中に侵入者がいることに気がつかなかった。

 いや、部屋に勝手に誰かが入ってくるなんて、今まで想像したこともなかったから、平静な精神状態だったとしても気づかなかっただろう。


 そいつは、ゆっくり、ゆっくり、僕に近づいていた。


 音を消して、気配も消して。


 僕への敵意だけを持って。


 僕が侵入者の存在を認識したのは、そいつが僕の体に接触した瞬間だった。

 がりっ。

 と気分が悪くなるような音がして、僕は肉と骨を削られる激しい痛みに貫かれた。叫び声を上げてしまったと思う。痛みは右肩のあたり。見ると灰色のどろどろした影が僕の皮膚に噛みついている。そいつの目とおぼしき二つの黒い穴が、陰気くさく僕を見つめていた。


【敵】だ。


 僕は立ち上がって腕を振り回す。椅子が倒れた。そいつは離れない。牙みたいなものがますます食い込んだだけだ。脂汗がぼたぼたと落ちる。痛い。吐き気がする。気が狂ってしまいそう。

 じっさいに敵に体を損ねられたのは初めてのことだった。

 恐怖と混乱でものが考えられない。

 生まれて初めて、僕の精神は極限まで追いつめられていた。

 僕はそいつを壁にぶつけたり、引き剥がそうとしたり、殴ったり、掻きむしったりした。どれも効果はなかった。僕の肩に深く噛みついたまま、そいつは僕の体を触手みたいなものでまさぐった。その部分は気味悪く変色したり、欠けてしまったり、どろどろに熔けたりした。果ては、おぞましいことに、さっき霧川にさわられていた僕の後頭部の髪を、そいつが同じようにさわりだした。

 僕はほとんど半狂乱になっていたと思う。

 だからドアが開いて理紅の声がしたときも、状況を理解するのに時間がかかった。

「我慢しろ!」理紅はそう叫んでいた。「ほら、絵を描いた! いつもみたいに動かすんだ!」

 声のした方向を見る。片方の目はすでに視力を失っていた。だからもう片方の目で絵を認識する。何だかよくわからない絵。だけど途轍もなく胸を打つ絵だ。傑作といって良い。僕は感動しながら壁からその絵を引き剥がす。僕の肩にのしかかっている敵に思い切りぶつけてやる。

 聞く者の精神を狂わせるような厭な叫び声をあげて、そいつはようやく、僕から離れた。

 僕は床に崩れ落ちながら、肩口を押さえながら、片目で敵をとらえながら、細く鋭利な理紅の絵で、そいつを切り刻んだ。引きちぎって、叩き割って、すり潰して、とにかく、完膚無きまでに打ちのめした。

 僕の体内に含まれる慈悲の成分は、一瞬で蒸発してしまった。


 どのくらいのあいだ、僕の残虐行為は続いていただろう。


「もういいんじゃない?」呆れたような理紅の声で我に返る。理紅は椅子に座ってミルクを飲んでいた。僕の冷蔵庫から出したものだろう。「君の治療のほうが先だよ」

「治療?」

「自分の体を見てみなよ」

 僕は自分の体を見る。

 血が出ているところはほとんどない。

 血が出ているのは、自分で壁にぶつけたりした、かすり傷くらいだ。

 敵に噛まれた部分は出血したりせず、著しく欠損したり、おぞましく変容したりしている。

 僕の姿は化け物のようだ。

「どうしよう」僕は理紅に視線を戻す。「僕は死ぬの……?」

「なんて顔してるんだよ」理紅はぷっと吹き出した。「治せるよ。敵にやられた部分はね。世界にスイッチを入れたとき、ルールを理解したんじゃなかったの?」

「憶えてない」

 僕の声は今にも泣き出しそうだった。理紅は「仕方ないな」と苦笑し、僕に近づいてくる。

「敵に蝕まれた部分は、私の絵によって補填できる。そういうルールなんだ。マニュアル読んだだろ?」

「不具合があったのかもしれない。僕の中にうまくインストールされなかったんだ」

「それはご愁傷様」

 理紅は食器棚から皿を取り出した。そこに絵の具を何色も注ぎ込む。指を絵の具に浸す。

 そして僕の体に、直接絵を描いた。

 欠けていたふくらはぎが丸く回復する。潰れてしまった指があざやかに蘇る。背筋を補正し、耳たぶを膨らませ、腕の肉を盛りつける。

 色を塗られたところが、理紅の絵の一部になっていく。

 僕の体に、理紅の創造といってよい部分がいくつも生まれる。

「死ぬかと思ったんだ」僕は結局泣いてしまう。

「まあ、私もちょっとだけ思ったかな」

「怖かった」

「いつまでもぐずるなよ。きみは死ななかったし、敵を倒した。傷も癒えたし、すべてが元どおり。何か問題がある?」

「……ない」

「まず、泣くのをやめな。もう11歳なんだからさ」

 理紅の歯切れの良い口調には、僕の精神を落ち着かせる効用がある。

 だんだんと呼吸が整ってきた。

 いちばん最後に、理紅は僕の後頭部の髪を回復させた。いつも霧川が握りしめた場所だ。理紅の温かい手によって、その部分が再生する。新しい形に。

「はい、できあがり」理紅は新米の美容師みたいな目で、満足そうに、いろいろな角度から僕をながめた。「なかなかうまくいったな」

「ありがとう」

「擦り傷とか、殴られたところなんか自分で治療しなよ。それは絵では治せないから」

「うん。薬があるから大丈夫」

「私はコーヒーでも淹れよう。口の中を苦くしたい」

 理紅はキッチンに向かう。僕は傷口の治療をする。

「あ、そうそう、ナノ」キッチンから理紅の声。

「なに?」

「今から、私もここに住むことにするよ。ひとりのときに敵が襲ってくるパターンもあるってわかったからさ」

「……そうだね。僕だけじゃなく、理紅がひとりで襲われることもあるかもしれないんだよね」

「そうなったら大ピンチだぜ」

「そういえば、どうして僕が襲われているとわかったの?」

「わからなかったよ。散歩してたら、この家の前を通りかかっただけ。少し話でもしようと思ったら、入り口のドアが開いてて、中を覗いて、びっくり仰天、ってわけ。つまりナノ、きみはたまたま、偶然に助かったんだよ」

「ドアが開いてた?」僕は首をかしげる。「霧川が出て行ったときに、ロックされたはずだけど……」

「ルルナが来てたんだ?」

「うん……来週の日曜日に凍るって言ってた」

「えっ?」理紅もさすがに驚いたようだった。「急な話だな。なんにも聞いてないや。見限られたかな」

「見限られた?」

「友情を」理紅は自分で言って自分で笑う。「友情ってのがどういう区分の感情なのか、正確にはわからないけどね。私はルルナが好きだったよ。私が好きでいられる範囲で。でも、当たり前か。こっちはあの子に内緒で、こそこそ世界から逃げ回っているんだからさ」

「僕たちは世界中の人を裏切っているのかな」

「さあね。とにかく、これからは二人なんだ。私たちは二人で終わりを見る。それだけのことだよ。難しい話は無しにしよう。楽しくやろうぜ」

 キッチンからコーヒーのいい匂い。

 寂しさと混じり合って、胸が苦しい。


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