第26話 おかしいと思わない?
清潔なベッド。整頓された棚。白い照明と。ひんやりした空気。
いつも通りの秩序が保たれた保健室。
だけど梅森マミ先生の姿はない。
豊かな金色のボブヘアと黒いピアスが同時に揺れるあの感じ。低い笑い声。保健室の一部だった梅森先生が消えてしまった。
先生がいつも座っていた丸椅子に腰かけると、まだ温もりが残っているような気がした。
だけどそれは単純な錯覚に過ぎない。じっさいには丸椅子は無慈悲なほどに冷たい。梅森先生が一度もここに座ったことがないような気さえしてくるし、梅森マミという人間が存在したことさえ信じられなくなってくる。
保健室は無人だ。
ずっと昔からそうだったのかもしれない。
僕は棚から勝手に薬を出して、1回分を服用する。
全身に軽く電流がはしる。小さな快感。指先が震える。ほんの少しだけ呼吸が荒れて、未決定だった僕のディテールが次々にフィックスされていく。
鏡を見る。
11歳の少年。少し疲れた目をしている。
今日の僕だ。
○
●
○
放課後。僕は造形部の教室に向かう。
いつものように、吉野先生が何か書き物をしている。僕は物置から作りかけの模型を取り出して、真ん中あたりの席に座った。
残りの部員……沼野摩耶と有居理紅はまだ姿を見せていない。
沼野さんはもうこの学校に現れることはないだろう。そんな気がする。
理紅とは今日はまだしゃべっていない。避けられているような雰囲気もかすかに感じた。少しだけ、目をそらされているような。心配しすぎかもしれないけど。
僕の心配はたいていは思い過ごしで、だけどそうでないものは致命的なほど奥深くまで刺さってしまう。
僕と吉野先生だけの教室。
目の前には飛行機の模型。
何もする気が起きなったけれど、とりあえず飛行機の表面をきれいに削る作業をはじめてみる。
どうせ飛ばない飛行機なのに。
そもそも飛行機が飛んでいるところを映像以外では見たことがない。
僕たちは本物の空を知らないし、冷たい雨に濡れたこともないし、ふいに現れた幻想的な虹に胸を撃たこともない。
すべて地上時代に作られた膨大な数のフィクションから得た知識。そこからしか、僕たちは自然現象について学ぶことができない。
僕は黙々と飛行機を磨く。
この飛行機は少しバランスが悪い気がする。じっさいには空を飛べる形をしていないと思う。
教室はとても静かだ。
ずっと昔から、僕と吉野先生しかこの世界にはいないような気がしてくる。
僕と吉野先生が同一人物に見えるときがある
という理紅の言葉を突然思い出す。
あれはどういう意味だろう。
僕と吉野先生のあいだには50歳近い年齢の隔たりがある。
時間の流れを飛び越えることはできない。
常識的には。
遠い過去から積み上げられてきた歴史。
だけどこの世界ではどうだろう。
僕たちが日々消費している映画やコミックや小説といった旧時代のフィクション。そこに描かれているのと同じような〈常識的な〉時間の流れ方が、本当に僕たちの住むこの世界にも当てはまるのだろうか?
僕が霧川との挨拶を20億回も繰り返してきたように感じるのはなぜ?
時間は本当に流れているの?
人が老いて死ぬのは知っている。
でも僕は、じっさいに人が老いて死ぬところを見たことがない。
本物の死を目の当たりにしたことすらないのだ。
人が失踪することには慣れた。戦った相手が消えてしまうことにも。
しかし、死とはなんだろう。
死は僕にとって単なる知識でしかなく、情報でしかない。
この世界の時間の流れ方がめちゃくちゃだったとして。
11歳の僕と、年老いた僕。
それが同時に同じ場所に出現したとしても、何もおかしくないのかもしれない。
僕はふいに、吉野先生に教わったことが「何ひとつない」ということに気づく。
僕は飛び級で、この学校で学ぶような知識はすでに習得した状態で入学した。
僕がもともと所持していたこれらの知識は、本当は吉野先生が長い時間をかけて得た知識だったのではないだろうか?
その知識を僕と先生は共有しているのだ。
僕と先生は同じ時間軸の上に存在していて、たまたま現在と未来が同時に表示されているだけなのかもしれない。
「先生」耐えきれなくなって僕は声をかける。
吉野先生がゆっくりと顔を上げる。
大きな体。しわが刻まれ、たるんだ皮膚。
「先生は、誰ですか?」思わずそんなことを聞いてしまう。
吉野先生は少しの沈黙のあと、息を漏らすように笑った。
先生の笑うところを初めて見た。でも先生の表情は、すぐに愛想のなさを取り戻してしまう。
「禅問答かね」
「そういうわけじゃ……」
「禅という思想が、かつて地上には存在した。さまざまな書物にその証拠が残されている」先生は大きく息を吐いた。「しかしそれは本当のことだろうか?」
「あれだけ膨大な数の記録を、ただの空想だけで、僕たちを騙すためだけに生み出すことはできないと思います」
いつか理紅に言った言葉を僕は繰り返している。
「本当にそうだろうか? ただの妄想ではないと言い切れるか? 書物に書かれた歴史が、かつて存在したという証拠はどこにある?」
「地上時代、あるいは地上という場所そのものが存在しなかった、と先生はお考えですか?」
それは僕がいつも考えていたこと。
先生は僕をじっと見つめる。そしてゆっくりと口を開く。
「どこまでが本当で、どこからが作りものなのだろう」
その言葉と共に、過去に吉野先生とかわした短い会話が、いくつも脳内に蘇る。
先生は常にこの世界に疑問を抱いていた。
どうして気づかなかったのだろう。
世界を疑うという思想は、この世界にまったく存在しないわけではなかったのだ。
僕と理紅だけが特別だと思っていた。
でも、どこからどこまでを疑えば良いのだろう。
すべてを疑っていたつもりの僕でさえ、つい昨日まで【水のない区画で水着を着てはいけない】という単純な常識すら疑うことができていなかったのだ。
あまりにも考えが浅い。
それに、僕がどれだけ世界を疑ってみても、どれだけ知恵を絞ってみても、すべてはどこかで見たような手垢の付いたストーリーに連結されてしまう。
僕の想像力は、この小さな世界よりもさらに狭いのだ。
造形部での活動を終えて、昇降口へ向かう。
壁の映像は、もの悲しい夕景。
霧川のテニス部での活動が終わるまで、少し時間がある。
どこで時間を潰そうか、と考えながら靴箱を開けた。
靴の上に一枚の紙片が乗っている。
『決闘場にて待つ・金子シロウ』
知らない生徒からの手紙だ。
「戦うしかないね」
背後から声がして、僕は振り返る。
壁に斜めに寄りかかって有居理紅が立っている。何かを諦めたような表情で僕を見つめている。白い頬に夕暮れの街並みが反射している。
「理紅」僕は理紅が声をかけてくれたことに、少しほっとしていた。「もう帰ったのかと思ってた。部活に来ないから」
理紅は壁から体を離してまっすぐに立った。水色の髪がさらりと頬に流れる。
「戦うんでしょ?」
「うん。一緒に来てくれるよね?」
「おかしいと思わない?」
「なにが?」
「いつの間にか私たちは戦いから逃げられなくなっている」理紅はゆっくりと目を閉じる。まつ毛の影がそっと頬に落ちる。「世界から逃げていたはずなのにね」
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