第25話 水のない区画で
長い階段を上り詰めると、そこは動物園だった。
といっても動物が展示されているスペースではない。
中央に石碑の据えられた、園内のシークレットゾーンだ。
前回は、鍵から放たれる光に導かれてここにたどり着いた。そして石碑に鍵を差すことで、地下へ降りる階段が出現したのだ。
今回は沼野さんがむりやりに作ったドアからこの階段に割り入った格好になる。
「私たちがさっき戦ってた場所は、前回と同じ決闘場だったってこと?」理紅が不思議そうに辺りを見渡しながら言う。
「でも僕たちは三鳥川家の温水プールから、あそこに落下したんだよ」
「動物園のすぐ下に決闘場があるわけじゃなくて、その中間のフロアに三鳥川家が挟まってるってことか?」理紅が首をかしげる。「いやでも、ぜんぜん違う場所だよなあ? やっぱこの世界の構造ってめちゃくちゃなのか?」
「地図なんてあてにならないよ」沼野さんが言った。「この地下国家の全貌を知る人間は存在しいない。何百もの階層によって構成されているけれど、上の階と下の階がどのようにつながっているのか、そんなことすら正確には把握されていない。たとえば、感知することができないほど、ゆっくりと回転しているフロアがあったりするかもしれない。あるいはすべてのフロアが回転しているのかも。しかも回転速度がそれぞれのフロアで異なっているという可能性だってある。つまり、いま我々が立っている場所の真下に何があるのかは、時間帯によって変化するのかもしれないってこと。地動説ってわけだ」
沼野さんだけが自分でくすくす笑った。
「でも、エレベータを使えばいつも同じ場所に行き来できますよ」と理紅が反論する。
「どうかな。それって、壁に映された映像をそのまま信じきっているだけってことはない? 有居理紅らしい意見とはいえない」
「そっすか」理紅は腕組みして乱暴に言う。「つまり私たちは、壁に映し出された景色によって、本来の位置をごまかされているということっすかね?」
「そう怒るなよ。単なる思いつき。可能性の話だよ」沼野さんはわざとらしく口もとに手を当てた。「だって私は、この世界のことなんて何にも知らないんだからね!」
「はいはい可愛い」理紅はふてくされたように視線をそらした。
「ところで水着ちゃんたち」沼野さんの表情に少し慈愛の色がともる。「その格好で帰るつもりかい?」
僕と理紅は、はっとして顔を見合わせる。
そうだった。
僕たちは水着なのだった。
静かな園内を沼野さんに先導されて歩く。
とうに閉園時刻を過ぎている。
薄闇に光る無数の動物たちの瞳。僕たちの足音。僕と理紅は靴さえ履いておらず、ぺたぺたと裸足の間抜けな音を立てている。人が少なくなってきたとはいえ、この格好で街に出るなんて。
だんだんと気が重くなってくる。
動物園の出入り口に到着する。閉園後もこの広場は少しだけ明るい。その明かりで僕と理紅の体を、改めて観察する。
水着だ。
言い逃れのしようもなく。
理紅の肩は弱い照明で白鈍く輝いていて、そこに流れ落ちた水色の髪は、理紅が身じろぎするたびにゆらゆらと揺れた。
僕だって子供用のワンピース水着だ。
僕と理紅は顔を見合わせて途方にくれた。
「気をつけて帰ってね」という沼野さんの声がどこかから聞こえた。少し笑いを含んだような声。だけど声のした方向に沼野さんはいない。
というか、沼野さんはもうどこにもいなかった。
すっかり僕たちの前から姿を消している。
「沼野さん、帰っちゃったみたい」僕はため息をついた。「神出鬼没にもほどがある……」
「あっさり帰ってくれて良かったわ」理紅が少し不機嫌そうに言った。「私、あの人あんまり好きじゃない」
「沼野さんに助けてもらったから、いま僕たちはここにいるんでしょ」
「水着の私たちを見捨てて帰るような人だよ」
「それはそうだけど……」
「ナノ、きみは水のない区画を水着で移動する人間を見たことがあるのか?」
「あるわけないでしょう。まあ、古いフィクションの世界では、そういう人たちをよく見かけるけれど……」
「水のない区画で水着を着てはいけない。そんなルールは、たぶんどこにもないけれど、だからといって誰もそんなことはしない。そうだよね?」
「うん」
「つまりこれって、この世界の、この時代における常識ってこと?」
常識。
これまで、あまり考えたことのない概念だ。
僕と理紅は〈世界を疑うことのできる〉数少ない人間だと思っていた。でも結局、この世界の常識などというものを、律儀に守っていたというわけだ。無意識に。
「このまま帰るしかないか」理紅が腹をくくったように言う。「電車に乗らないといけないけど」
「本当に大丈夫かな?」
「大丈夫よ。自信を持とう」理紅は僕の体をじろじろ見た。「私たち、なかなかきれいな体をしてるんだから」
電車の座席に理紅と並んで座る。
周囲の人たちが僕たちをどう見ているのかはわからない。僕は意識を外部からほとんど切断していた。ただ機械的に行動している。
常識を破るとどうなるのだろう?
誰も試したことがない。
「なんだか青春って感じがする」
理紅が途中でそう言ったのは聞こえた。少し弾んだ声だった。
青春?
それってどういう理屈だろう。
なかなか明文化できないコンセプトって気がする。
電車は少しだけ揺れながら進み続ける。インフラの質は落ち続けている。予告なしに廃止されるサービスも多い。電車の本数もかなり減少しているようだ。
僕たちは壁で細かく区切られた、箱のような世界に住んでいる。
電車だって、壁で区切られた箱のひとつだ。
箱の中を、箱に乗って移動する。俯瞰的に想像すると、人間ひとりひとりの意思なんてものは存在しないように思えてくる。
ある地点からある地点までの移動を繰り返すだけの、ただの点になったような。
そんな気分。
僕がよく妄想するように、もしも僕たちが、ごく単純な虚構の世界に生きている登場人物なのだとしら。僕と理紅が水着で電車に乗っているこの状況で、何らかのトラブルに巻き込まれる可能性が高いと思う。
そんなに深刻なものとは限らない。たとえば霧川ルルナに偶然に目撃されてしまうとか。そして何らかの誤解や、いさかいが生じてしまう。僕はなぜか突拍子もない言い訳をしたりするのだろう。両方の機嫌を損ねてしまって、だけど何とかして両方と仲直りしようとして、それがさらなるトラブルを呼んでしまう。おもに恋愛をテーマにした、ちょっとしたコメディのワンシーン。
地上時代に作られた、今ではほとんど顧みられることのない膨大なフィクションの数々。
僕たちもその断片のひとつなのだとしたら。
だけど結局、何ごともなく自宅に到着してしまう。
水のない区画を水着で歩いても、世界には何の変化もない。
「じゃあね」と理紅が手を上げた。「さすがに眠い」
理紅の家は僕の家の少し先だ。お互いに行き来したことはないけど。
「あの、理紅」僕は理紅の後ろ姿に声をかけた。「今日はいろいろあったね」
僕はもうちょっと理紅と話をしたかったんだと思う。
一時的な別れを惜しむなんて、僕としてはとても珍しい行動だ。
あたりはすっかり夜。
夜であることに意味はない。壁の街に映し出される環境映像が、地上時代の夜を想起させるものに変わるだけ。
理紅は半分だけ僕を振り返った。
水色の髪が顔にかかっている。少し疲れた表情。まつ毛はとても重そうで、唇は半開きだった。
なんだか病的に美しい。
「ほんとにね」と半分だけの笑顔を見せて、理紅は水着のまま暗い通路へ消えた。
●
○
○
翌朝。
冷凍睡眠計画がついに再開されるという大々的な発表があった。
神にも等しいコンピュータ・システムの決定だ。
冷凍睡眠の再開について、僕にはほとんど何の感想もなかった。まだそんなことをやっているんだ、という印象しかない。今となっては、あまりにも古くさい儀式だと感じる。僕は戦いを知る前と変わってしまった。自分が冷凍されることなんて想像すら出来ない。そんな無抵抗な人間でいることなんて、もう出来ない。
この自信は、かつての僕には存在しなかった〈闘争本能〉みたいなものから生み出されていると思う。つまり僕は冷静な判断が出来ていないのかもしれない。
世界の終焉を見たい。
そのあとのことは知らない。
僕は以前より頭が悪くなった。利己的になった。
下品で哀れな、度しがたいエンドローム患者なのだ。
僕の細部はいまだに設定されていないし、僕はいまだに世界を疑ってしまう。どうやっても冷笑的な気分から逃れることが出来ない。
きっと僕が12歳になる前に、すべての人類は凍り付いてしまうだろう。
逃げ切ったところで、僕と理紅に残されるのは、停止した世界と死のウイルスだ。
何の希望もありはしない。
人類に残された唯一の希望を凝縮したものが〈冷凍睡眠〉なのだから。そこから逃げることは、すなわち絶望を意味する。子供にだってわかる引き算だ。
どこか冷え切った気持ちで、いつも通りの通学路を歩く。
いつも通りの場所で、霧川ルルナと偶然に鉢合わせする。
20億回ぐらい繰り返されてきたようなありふれたイベント。
【学年一の美少女】で【僕の幼なじみ】の霧川ルルナ。まるで誰かの妄想みたいに都合よく僕のそばに配置された女の子。いつも蛇みたいにねじ曲がった通路から現れる。僕はまっすぐな通路を通ってくるのに。もしも世界が僕たちの性質を暗喩したつもりでいるのなら、残念ながらまるで逆。
いつだって、のたうち回っているのは僕のほうなのだ。
「ごつーん」
霧川がわざわざ声に出して肩をぶつけてくる。
「ナノ、おはよ。今日も会えたね」
いつもと同じ挨拶。
それだけで僕は何もかも満たされたような気分になり、同時にひどいむなしさが押し寄せてきて死にたくなる。
「おはよう、霧川」
「冷凍睡眠のニュース見た?」
「見たよ、もちろん」
「理紅は凍るのかな?」
「理紅?」僕はどきっとしてしまう。「どうだろうね……」
たぶん理紅は凍らない。僕と運命を共にしてくれるはず。
運命。
とても不思議な言葉だ。あまりにもつかみどころがなくて、あまりにも頼りがいがありすぎる。そしてあまりに無責任だ。
「ねえねえ」霧川の声はむやみに明るい。「冷凍睡眠が始まってさあ、理紅がまた最初に凍るグループに選ばれて、また前と同じような大量殺人が起きたら、どうなるんだろう? やっぱり2回も続くと、言い逃れできないのかな?」
「言い逃れって……まるで理紅が悪いことをしたみたいじゃないか」
あれ?
と僕は思う。
理紅って、自分が凍っていたときに起きたあの大事件のことを、本当はどう思っているのだろう。今まで一度も聞いたことがなかった。
報道の通り、ただ凍りついていて、事件については何も知らないのだろうか。
それとも、何かを知っている?
僕は運命を共にする相手のことを、少し疑い始めている。
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