第24話 衝突する世界

「やあ、水着の少年少女」ほとんど無表情に沼野さんは言う。「いや、少女少女って感じかな」

 僕たちはしばらく反応できなかった。

 神出鬼没の沼野ぬまの摩耶まや。細い剣を手にしてはいるけど、高校の制服にリュックを背負った、ごく普通の出で立ち。

 その足もとには血にまみれた三鳥川乃亜の死体が転がっている。

 死体はみるみるうちに黒く変色しはじめている。

「沼野さん、どうしてここに……?」

 ようやくそう言った僕の声は、がんばって絞り出すようなトーンだ。

 状況がまだわからない。

「お前は私に会うと必ず『どうしてここに』と問うんだな」と沼野さんは薄く笑った。「まあ、今回ばかりは言いたくなる気持ちもわかる。どう考えても私、待望のヒーロー登場って感じだったものね」

 沼野さんの一瞬のウインク。

 それから沼野さんは、視線を下に落とした。

 黒くて丸い、ぶよぶよのかたまりが横たわっている。

 ほんの数秒前まで乃亜だった物体だ。

 すでに死体ですらなくなっている。

 沼野さんはそのかたまりに細い剣の先端を突き立て、ゆっくりと切りひらいた。

 果物みたいに簡単に、かつて乃亜だった物体は解体されていく。

 やがて沼野さんはしゃがみ込むと、黒いかたまりに手を突っ込んだ。中から何かを取りだしている。

「何ですか、それ?」と僕は聞く。

「何でもないよ」沼野さんは立ち上がる。「私は、こことは別の世界のルールで動いているんだ。たまたま私の一部がこの世界と重なる瞬間があっただけ。だから気にしなくて良い。私はこいつを集めているだけなんだから」

 沼野さんは、黒いかたまりから取り出したものを、自分の顔の横に持ってくる。

 それはうすく輝く球体だった。大きさは林檎と同じくらいだ。

「きれいですね」腕組みして黙っていた理紅が言った。

「でしょう」と沼野さんはにっこりする。

「それ何ですか?」と僕は聞く。

「知らなくて良いよ。この世界とは関係のないストーリーなんだから」沼野さんは小さなリュックに球体を放り込みながら言う。「私はこの世界とは何の関係もない。私にはこの世界のことは何もわからない。この世界の謎はお前たちだけで解かなくてはならない」

「謎なんてものが、もしあればの話ですけどね」と理紅が素早く反応する。「謎だと思わなければ、謎なんて何ひとつ謎じゃない。恋愛と同じです」

「きみは無意味なレトリックが好きなんだな」沼野さんは理紅に冷ややかな視線を投げつける。「謎なんていくらでもあるよ。すべてを謎だと思えばね。恋愛と同じさ」

「僕たちは謎を解かなければならないの?」僕は急いで口を挟んだ。「沼野さんは、僕たちの置かれているこの状況を、どう考えているんですか?」

「きみたちの置かれている状況というものがまずわからない。興味もない。謎なんて解きたければ解けば良いし、解きたくなければ解かなくて良い。そこがどんな世界であってもね。いずれにせよ、私はこの世界にはあまり関与したくない」

「それってつまり……」僕はこのことを聞いて良いのかどうか迷う。けど聞いてしまう。「ここではない、ほかの世界というものが存在するってことですか?」

「ほかの世界は存在するし、ほかの世界は存在しない。ああ、つまらない物言いをしてるな、私……」沼野さんはわざとらしく前髪をかき上げた。「私に何も聞くな。私に何も期待するな。私を攻略しようとするな」

「攻略可能なんですか?」と理紅が言う。「攻略しがいがありそうですけど」

「さあね。私が攻略可能かどうかは、今後の人気しだいなんじゃない? さぞかし泣けるエンディングだと思うよ、私の個別ストーリーは」沼野さんは少し大きな声で笑った。「さて、そろそろ帰ろう。もうここに用はない」

「どうやって帰るんですか?」僕は言った。「そもそもどうやってここに?」

「質問ばかりだな、ナノちゃん」沼野さんはため息をつく。「私には何も聞くなと言っただろう。ここにどうやって来たかなんて、説明してもきみたちには理解できないよ」

「私たちにはできないことが、いろいろできるんですね」

「そう突っかかるなよ、有居理紅。帰り方は適当さ。帰ろうと思えばどんな方法でも帰ることはできる」

 淡々と言いながら、沼野さんは細い剣の先で空中に大きな長方形を描いた。

 何もない空間が、沼野さんの剣の軌道の通りに切り裂かれる。

 沼野さんはさらに長方形の中に小さな円を描いた。「これ、ドアノブね」と言いながら。

 そして空中に描いたその円を、じっさいに沼野さんは手でつかむ。

 軽くひねって押す。

 空中に描かれた長方形の線が、ドアみたいに簡単に開かれた。

 ドアの奥には、ゆるく湾曲した長い上り階段が伸びている。

 才能のない画家の描いた絵みたいな光景だな……と僕は思った。

「ついて来なさい、水着ちゃんたち」沼野さんは自作のドアをくぐって、階段を上りはじめる。「まったく。水着を着ていない私がおかしいみたいじゃないか」

 僕たちもそのあとに続く。

 透明のドアをくぐり、階段を上る。

 階段は金属のような木材のような、不思議な素材。何もかもがあやふや。それこそ夢の中にいるみたいだ。

 あまり深く考えないようにする。


 沼野さん、理紅、僕の順番で黙々と階段をのぼり続ける。

 制服の沼野さんのお尻と、水着に包まれた理紅のお尻が規則正しく動くのを見ていると、僕のお尻も後ろから誰かに見られているような、そんな変な気分になってきて、一度だけ背後を振り返った。

 そこには身震いするような闇のかたまりがあるだけだ。

 僕は再び正面を見て歩きだす。

 誰も何も喋らない。

 しだいに気分が悪くなってきた。

 足音のリズムが僕の中の何かを少しずつかき回している。少しずつ、少しずつ。気がつくと僕は、三鳥川家の双子がいなくなってしまったことが、悲しくて悲しくて仕方ない状態になっている。

 とても不思議なことだけど、今日生まれたばかりの三鳥川乃亜の、ありもしない17年分の歴史が、僕の中にもなだれ込んでしまったのだ。

 いろいろな場面がフラッシュバックする。

 乃亜の笑顔。乃亜の涙。真剣な表情。運動会で活躍するシーン。汗で光る髪。僕の猫と遊んでくれたこともある。勉強を教えたこともある。他愛ない会話で笑い合ったことも。

 たぶんこれは、本物の乃亜でも、空想の乃亜でもない。

 その中間に位置する、仮縫いの乃亜。

 だけどそれは、本物の記憶なんかよりずっとリアルで重みがあった。

 集介と乃亜を消してしまったのは僕だ。

 戦いによって。


 いつの間にか僕は泣いている。

 前を行く二人がそれに気づいて、階段をのぼる足を止めた。

 二人は少し驚いたような顔で僕を振り返っている。

「またベソかいてる……」理紅が呆れたように言って、僕と頭の高さを合わせると、指でそっと涙を拭ってくれた。「もう11歳だろ。しっかりしろよ」

「ごめんなさい……」

「何か心配事でもあるのか?」沼野さんが数段上の、高い位置から声をかけてくれる。「言ってごらん。相談には乗らないけど。人生相談なんかに乗るようになったら終わりだからね。人って」

「なんだか、集介と乃亜がいなくなったことが、急に悲しくなってきて……」言いながら、僕はもっと泣いてしまう。「乃亜が、この物語の、主人公、だったのかも、しれな・い・の・に……」

 涙が水着の上を流れ落ちる。僕は両目を手首のあたりでぬぐう。嗚咽が止まらない。理紅がやさしく頭に手を置いてくれた。

「私が殺した女のことかい? あんなやつの戯言は気にしなくていいよ」と沼野さん。「主人公だなんて、そんな古くさいシステムで世界は動いていない。太古の神話じゃないんだから」

「そうなんですか?」と理紅が言った。

「あ」沼野さんはわざとらしく口もとを手で隠す。「相談に乗ってしまっているね。よくないよくない」

「ナノ、単純に薬が切れて不安定なんじゃない?」理紅がぽんと僕の頭に手を置いた。「泣かないほうが良いよ。可愛い水着なんだから」

「どういう理屈?」僕はちょっと笑ってしまう。

「そうだよ、なかなか似合ってるじゃないか」沼野さんまで、珍しいことを言う。

「ありがとうございます」僕はちょっと照れてしまう。

「今、男の子の姿になったりしたら大変だね」と理紅が冗談ぽく言った。「あ、でも体格はほとんど変わらないから大丈夫か」

「急ごう」沼野さんが僕に背を向ける。「そんなおぞましいものは見たくない」

「何がですか?」と理紅がきょとんとする。

 僕にも意味がわからない。

「ああ、すまない」と沼野さんは目を伏せた。「この世界には存在しない概念の話をしていた。忘れてくれ」


 僕たちはまた階段を上りはじめる。まだ少し胸が詰まっていたけど、呼吸を整えながら上る。

 階段はどこまで続くのかわからなくて、少し不安だ。

「明日は筋肉痛だな」と沼野さんがつぶやいた。さすがに息が少し荒い。

「意外と、体力、ないん、ですね」理紅の息は完全に上がっている。

「明日は学校に来るんですか?」と僕は沼野さんに聞いた。

「学校にはもう行かないかもね。とくに用事がなくなってしまったから」

「そんな」と僕は驚きの声を上げる。「部活もやめるんですか? 僕ひとりになってしまうのに。きっと吉野先生も寂しがると思います」

 吉野先生が寂しがるとは思わなかったけど、先輩を引きとめるためにそんなことを言ってみる。同じ教室にどれだけ長時間いても、吉野先生と沼野さんが話しているところなんて、見たことがないのに。

「吉野先生?」沼野さんは歩みを止めて僕を振り返る。「誰だい、それ?」

「え? 顧問の吉野淳三先生ですよ」

「顧問? あれってきみが勝手にやってる部じゃないの?」

「そんなわけないでしょ。吉野先生、いつも部活のあいだは教卓で仕事をしているでしょう? あ、この前、沼野さんが来たときにもいましたよ」

 沼野さんは首をかしげたり、上を見たり、眉をひそめたり、鼻に手を当てたり、不思議そうな顔のバリエーションをいくつも披露する。

「そんな人、見たことがない」

 思い出すのを諦めたのか、沼野さんはまた階段を上りはじめた。

 一歩進むたびに、ピンク色の長い髪が小刻みに揺れる。

「そんなはずないのに」と僕。

「それって本当に実在する人物なのかな?」と沼野さん。

「私は吉野先生を知ってるけど……」理紅が苦しそうな呼吸で言う。「見る人によっては、吉野先生とナノって、同一人物に見えるんだと思う」

「どういう意味?」僕は理紅の背中に向けて聞く。

「よくわからないけど。そんな気がする」理紅は振り返らずに言う。

 階段の終わりはまだまだ遠い。

 僕たちの足音と呼吸音だけが響いている。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る