第22話 温水プール

 理紅の目は少しとろんとしていて、唇はかすかにひらかれている。まだ完全には意識がはっきりしていないみたいだ。

 僕だって似たようなもの。状況がよく理解できていない。

「なんか……」理紅は首を左右に振った。「映画の重要な場面を見逃してしまったような気分」


 僕たちは目の前のプールを漫然と見つめる。

 クロールで何度も往復しているのは集介だ。

 暗い水面を切り裂く美しいフォーム。水音も心地良い。

 乃亜はどこだろう?

 見渡す限りどこにもいない。

 理紅が急に立ち上がった。体を伸ばしたり、ねじったり、飛び跳ねたりといった、準備運動みたいなことをやりはじめる。

 髪が踊るように揺れたり、水着に包まれた肉体が弾んだりするのを、僕はやや不躾な視線でながめてしまう。

「さて」理紅はプールを睨んだ。「私も泳ぐか」

「泳ぐの?」

「泳ぐ」


 理紅は一番奥のレーンのスタート台に立った。黒い水着が薄い闇に溶けてしまって、肌と髪が浮き上がって見える。理紅は右手をまっすぐ上に伸ばした。名前を呼ばれた水泳選手みたいに。

 それから、姿勢を整える。

 きれいな飛び込み。

 ゆっくりのクロール。

 中央のレーンで泳ぐ集介とはテンポがまるで違っていて、ふたりを同時に視界におさめると、何だか音楽的な気分だ。

 僕も少しくらい水に浸かろうか、と思ってプールに近づく。

 水面をのぞき込む。

 水中から唐突に乃亜が顔を出したので、僕はびっくりして尻餅をついてしまった。

「ふふふっ!」水から肩を出して乃亜が笑う。「そんなに驚いた?」

「……ずっと潜ってたの?」

「そんなに長い時間でもないよ」

 乃亜が手すりにつかまってプールから上がる。赤い髪。白い水着。うすいピンク色の肌。とめどなく水滴が流れ落ちている。

 プールから上がる瞬間の女の子って、とてもきれいだと思う。

 僕は急に、自分の水着が恥ずかしくなってきた。

 紺の水玉。変なフリル。古くさいデザインのワンピースだ。

 その水着に包まれているのは、どう見ても女の子の、体の僕。


 僕と乃亜は並んでプールサイドに座った。足はふたりとも水の中に浸している。

 水はとても温かい。

「乃亜って、今日生まれたばかりなんだよね?」改めて乃亜に確認する。水着から伸びた僕の足は、静かに水を揺らしている。

「そうよ。17年分の歴史を持った状態で生まれたの」

「集介との17年分の思い出があるんだよね?」

「まあね。あの空っぽの兄の中に、17年もいたんだから」

「空っぽ?」

 乃亜は唇をほんの少しだけ歪める。

「性的な衝動以外に何ひとつ持たない空っぽの兄よ。あの貞操観念のまるでない梅森マミとお似合いね」

「きみを集介の中から引っぱり出してくれたのは梅森先生だよ」

「私のためにそうしたんじゃないよ。あの女は、それが気持ち良いからそうした、気持ち良くて気持ち良くて仕方がないから、そうしたの。そういうことしか考えていない女よ。集介も梅森マミも、性的な機能だけを設定された可哀想な人形なの」

「人形……」僕は水中で動かしていた足を止める。「僕もときどき、自分を人形みたいに感じる。僕たちって、コンピュータゲームとか、本の中の登場人物みたいだって思うことがあるんだ」

「思春期の妄想でしょ」乃亜は何の興味も引かれなかったようだ。「子供にはちょっと早いわ」


 理紅が泳ぐのをやめて、反対側のプールサイドから上がったのが見えた。

 体を揺すったり、髪から水を絞ったり、肌に付着した水滴を地面に叩きつけたりしている。しかもプールサイドをゆっくり移動しながら。ちょっと不自然な挙動だ。

 いったい何をしているのだろう?

 理紅から視線を外した僕は、ふいにプールの異変に気づいた。

 いつのまにか水が真っ黒になっているのだ。

 浸した足の先もまるで見えない。僕は驚いて立ち上がった。黒い水が足の上を流れ落ちる。

 プールを見渡す。

 中央のレーンで生まれたクロールの波が、プール全体を揺らしている。

 だけど集介の姿はない。

 水しぶきだけがクロールの形に巻き起こって、それが何度も往復しているのだ。

 まるで集介が透明人間になったみたいに。

「集介、どこにいるんだろう」僕は乃亜に聞く。変な質問だと自分で思う。

「集介?」乃亜は鼻で笑った。「そんなやつはもういない」

 乃亜も立ち上がる。プールを睨んでいる。その表情は異様に暗い。

 何だかよくない予感がした。

「ナノ!」僕を呼ぶ理紅の声。「走って! こっちに来い!」

 理紅は反対側のスタート台のあたりで、僕に向かって手を振っている。


 よくない予感がする。


 よくない予感がする。


 よくない


 予感


 が


 得体の知れない、どこか幼稚な恐怖で僕の胸はたちまち満たされてしまう。

 パニック状態だったのかもしれない。

 濡れたプールサイドを無我夢中で走った。

 理紅のもとへ。

 何だか乃亜に追いかけられているような気がして、途中で何度も振り返ったけど、彼女はただ静かに水面を睨んでいるだけだった。

 だけど、良くない予感がする。

「ナノ、早く!」

 理紅が両手を広げて僕を待ち構えている。その胸に僕は飛び込む。

 理紅は一瞬、ぎゅっ、と僕を強く抱きしめた。

 濡れた肌同士、濡れた髪同士。それが触れあうほんのわずかな時間で、僕は痺れるような陶酔を味わう。

 理紅はすぐに体を離すと、僕の両肩をつかんで方向転換させた。

「見ろ」

 僕は言われるままプールを見る。

 乃亜が手を複雑な形に動かしている。指揮者みたいに。するとその手の動きにあわせて水面が沸き立つ。水が異常なうねりを起こす。


 黒いプールから何か大きな塊が姿を現そうとしている。


 水と同じ色の、黒いかたまり。


 ゆっくりとプールから引っ張り出される。

 ゆらり、と揺れるような挙動で身を起こす。

 乃亜が集介の中から生まれたときの光景に、どこか似ている。


 現れたのは真っ黒な人形だ。


 人形といっても、かなり大きい。

 ずぶずぶ、と音を立ててプールを抜け出すと、そいつは水面から少し宙に浮いた状態で静止した。

 集介に似ている、と思う。

 だけど身長は集介の2倍近くありそうだ。

 黒い水でつくられた巨大な集介。本物そっくりのきれいな顔。髪も一本一本が意思を持ったように細かく蠢いている。


「急いで! こっち!」

 理紅が僕の手を引いて走り出す。

 僕たちはプールの端へ走って逃げる。

「あれは集介? それとも敵?」僕は走りながら聞く。

「今となっては、そのふたつは同じ意味なんじゃない?」理紅が集介の位置を確認しながら言う。「たぶん、きみが私の絵を動かすように、乃亜はお兄さんを操ってる」

「そうか、これって【戦い】なのか!」僕は急にそのことを思い出した。「理紅、早く絵を描いて!」

 これが戦いなら、僕たちだって武器を持たなければならない。

「絵の具なんて持ってるわけないでしょ!」と理紅が叫ぶ。

 僕は自分たちが水着だってことを思い出す。

「どうするの?」

「逃げ回るしかないよ!」

「そんな……」

 僕の顔は、たぶん情けないくらいに弱り切っていたと思う。

「なあんちゃって」理紅がぺろっと舌を出した。

「なに?」

「これくらいで、べそをかくなよ」理紅は軽やかに笑った。


 僕は理紅に手を引かれたまま、プールの端に設置された飛び込み台の階段を駆け上がる。

 飛び込み台は5メートルほどの高さ。

 その頂上からプール全体を上から見渡す。

 巨大な集介の頭が少し低い位置にある。今にも動き出しそうだ。

「見える?」理紅が誇らしげに叫んだ。「プールサイドに私が描いた絵」

 僕は目をこらす。

 プールを取り囲む床は、白っぽい、乾いた素材でできている。

 水に濡れるとしばらくのあいだは黒い染みになる。

 それを利用して、理紅は水滴で絵を描いたのだ。

 さっきプールから上がったときの理紅の奇妙な行動を思い出す。あれは理紅が、自分の体にまとわりついた水滴で絵を描いているところだったのだ。

「まさか、このために泳いだの? こうなることを見越して?」

「まあね」理紅は満足そうに笑う。「バトル漫画みたいな布石だろ」

「かっこいい」

「さあ少年よ。この絵を感性のままに動かすのだ!」

 理紅は腰に手を当てて胸を張った。

 僕は集中する。

 プールを取り囲む巨大な絵。

 それが地面から剥がれて、動きだすところを想像する。


「私はお前たちのことが嫌いだ!」乃亜がプールの端で叫んでいる。「自分たち以外の人間を、まるで脇役扱いする、高慢なお前たちのことが! 17年間ずっと! 大嫌いだった!」


 乃亜が腕を振った。黒い集介が宙に浮かんだままこちらに近づいてきて、乃亜と同じ動きで腕を振る。直後に爆発音。視界を覆うほどの水柱が上がる。何か衝撃波のようなものを放ったのだ。盛大なしぶきが僕たちを濡らした。

 理紅の絵も、その水で上書きされて、すっかり消えてしまう。


 だけど僕のイメージが決定するほうが一瞬早かった。


 プールを取り囲むように横たわっていた理紅の絵が、ゆっくりと僕の意思で立ち上がる。

 それは複雑な線画の巨人だ。即興で、瞬く間に、水滴だけで、これほどの絵を描いた理紅の才能に驚嘆する。

 動き出した理紅の絵は、黒い集介の人形を大きさで上回っている。


「面白いことしてくれるじゃない!」乃亜が叫ぶ。

 集介がまた腕を振る。さっきと同じように衝撃波が放たれる。

 僕は線画の巨人を操り、大きな腕でそれを防いだ。

 いくつもの派手な水しぶきが上がる。

 爆発音と爆発音と爆発音。

 突風と突風と突風。

 何もかもが連鎖する。

 僕と理紅が身を寄せ合っている飛び込み台が揺らいで、倒壊した。

 僕たちは5メートルの高さからばらばらに放り出されてしまう。

 轟音。

 空中で、僕は驚くべき光景を目の当たりにした。

 プールの底が一瞬で、すっかり抜けてしまったのだ。

 真下は巨大な空洞。

 大量の水とともに僕たちは落下する。

 プールのさらに下の階層へ。

 真っ暗な闇へ落ちていく。


 なんとか意識を保って、線画の巨人をコントロールする。その大きな手に、僕と理紅をつかませた。

 空中で体勢を立て直す。

 ほとんど感覚的にやったことで、何が何だか自分でもわかっていない。

 すさまじい地響きが鼓膜をびりびりに揺らした。

 僕の操る巨人が、どこかの地面に着地したのだ。

 巨人の手に乗っているおかげで、僕たちにほとんど衝撃はない。

 あたりは静か。

 でも、ここはどこだろう。暗い。目が慣れない。

 かなり広い空間だということはわかる。

 床は水浸しだ。


 やや離れた位置に、黒い集介の人形がふわりと降り立つのが、かろうじて見えた。

 両腕には乃亜をお姫様抱っこの容量で抱えている。乃亜は集介の首に腕を巻きつけた格好だ。

 僕たちは全員水着で、髪も体もまだ濡れている。

「ここ、【決闘場】だよね」と理紅が言った。

 よく見ると、たしかに見覚えのある円形の広場だ。

 鯨井と戦った、あの決闘場とほとんど同じに見える。

「でも、決闘場って動物園の地下だったよ」と僕は言う。「いくつも同じのがあるのかな?」

「ひとつしかないんじゃない?」理紅は集介たちから視線をそらさずに言う。「どこがどこにつながっていても、私は驚かないよ。もはや」

 僕たちの頭上には、底の抜けたはずのプールの水面が揺らめいている。

 だとしたらここは水中のはずだけど。

 僕たちは呼吸をしている。

 ここは水中じゃない。

 だったら、ここはどこだ?

 きらきらと揺れる水面。こうして下からながめると、夜空みたいだ。

 空、星、夜。どれも、地下世界に住む僕たちは本物を見たことがない。

 それらはすべて、過去につくられた膨大なフィクションの中にしか存在しない。


 僕と理紅。

 集介と乃亜。

 二対二に分かれて僕たちは対峙している。


 戦い、って感じがする。


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