第19話 秘密を知られたからには



 □■□□□



「布団圧縮袋はもういりません!」


 突然ルシヤさんが大きな声を出した。

 狭い中央線の車内。

 同じ車両の約10名の視線が僕の隣に注がれる。


「布団圧縮袋ばかりが30枚もあるのです! 布団は1枚しかないのです!」


 ルシヤさんの日本語の発音は美しい。

 美しい発音でルシヤさんは寝言を言っている。

 衆人環視のなか、ルシヤさんは、ぱちっ。と音がするくらいはっきり目を開けた。

 そして周囲を見て、床を見て、自分の手を見て、僕を見た。

「夢を見ていました」

「でしょうね」

「非常にこわい夢」

「布団圧縮袋の夢でしょう?」

「私の故郷が帝国軍の版図に塗りかえられてしまう夢です」

「帝国軍?」

 ルシヤさんは劇画調の顔になり、両手で自分の口をおさえた。

「帝国のことは秘密なのだった!」

「知ったからには僕を殺すの?」

「そうするより他ないのです……」

「まだ寝ぼけてる?」

「そのようです」ルシヤさんはくすくす笑う。

 電車がゆっくり止まる。ドアが開く。

「ここで降ります!」

 ルシヤさんが急に走って降りたのであとを追う。

 新宿ではなく、まだ西荻窪。


 ルシヤさんは改札をするっとくぐり、ずんずん進み、西荻窪の可愛らしい商店街にずぼっと突入した。黒い髪がカーテンみたいに揺れている。ときどき僕を振り返って天使の微笑み。


 にこっ。


 ついて行っても良いみたいだ。けだるい午後の商店街。ルシヤさんを追いかけているうちにわかったことだけど、僕はもうルシヤさんのことが、確実に好き!

 じっさいに走って追いかけることで自分の気持ちがわかることだってあるのだ。

 それか、走って追いかけるから好きになる。

 なんて単純な構造。


 ルシヤさんは角を折れて路地に入り、右へ左へと折れ曲がり、こんなに曲がれるものだろうかと心配になるくらい角を曲がり続け、やがて行き着いた小さな民家風の雑貨屋に走り込んだ。ちょっと一人では入りづらい、センス無き者は立ち去れと言わんばかりのアンニュイな店構え。西荻窪にこんな店があったとは。女の子の目には、いつだって男には見えない店が見えるものなのだ。

 その店でルシヤさんは素敵な雑貨を次々にかごにいれる。チョイスがすばらしい。ルシヤさんの部屋にはこんな素敵な雑貨が並んでいるのか、と想像して嬉しくなる。

 どうして女の子の買い物はセンスにあふれているのだろう? どうして僕は自分の部屋をカラーボックスだらけにしてしまうのだろう? どうしてルシヤさんはこんなにも可愛いのだろう? どうして戦争はなくならないのだろう?

 どうして? どうして?

 

 それにしてもルシヤさんはすごい量の雑貨を買おうとしている。

 それを持って移動するの?

 カレーはいつ食べるの?


 ルシヤさんが店員と親しげに話しているのが聞こえる。日本語ではない。母国クロアチアの言葉だろう。と思ったけど、聞き耳を立ててみると「ププピル」「ピルップ」「ピポポプ」「ポルンガ!」みたいな響きで、明らかにクロアチアの言葉ではない。

 ポルンガって、ナメック星の神龍だよな?

 クロアチア語をしっかり聞いたことはないけど、これは絶対にクロアチア語ではないはず。そう、まるで天使とか妖精の言葉のような……。

 クピポ。プクリポ。ポポヴィッチ。

 ププッピ・ドゥ。


 ルシヤさんは大きな紙袋3つ分も買い物をして、そのうち2つを僕に持たせた。

「わたしの家までお運びくだサーイ」

 急に外国人なまり。

 でも、ルシヤさんの家に招待された! という衝撃で気にならない。

 僕は喜んで荷物持ちをする。

 両手がちぎれそうなほど重い。

 気温30℃。

 汗が止まらない。

 でも片思いの女の子の前で見栄を張らない男がいるだろうか。いやいない。ぷるぷる震えながらも僕は芥川龍之介みたいにクールな表情を作ろうとがんばる。たぶんソクラテスの石膏像みたいに白目をむいている。

 ルシヤさんのアパートまで徒歩28分。


 ルシヤさんは木造アパートの二階に住んでいた。

 天使は安アパートの二階に住んでいたのだ!

 二階から目薬をさしてほしい。

 愛の。


 狭い玄関だった。うす暗い。畳。可愛い雑貨などひとつもない。辞書の「殺風景」の項目に載せてほしいような光景。靴下が汚れそうだ。

 でも部屋の中で見るルシヤさんは何だかとびきり新鮮で、地球には存在しない物質でできているみたい。荷物運びで疲弊しきった心にどきどきが蘇った。

 ふすまを開けて奥の部屋に案内される。

 金髪の若い女がいた。

 白衣を着ている。外国人だ。ルシヤさんと同郷だろうか?

 部屋はひどい有様で、ビーカーやらフラスコやらホーロー鍋やらルマンドやらモニタやらごちゃごちゃの配線やら。

「誰だ貴様は!」とその金髪女に僕はいきなり怒鳴られる。

「大学の同級生なのです」とルシヤさんが日本語で説明した。

「なぜここにつれてきた!」

 白衣の女はわざとらしく注射器なんかを持っていて、それを勢い良くピストンさせるものだから、針から透明の液体がぴゅっと出た。

「荷物持ちをお願いしました」とルシヤさん。「あと、帝国のことを知られてしまいました」

「なんだと!」金髪の女はぴゅっ、ぴゅっ、と注射器から液体を出す。「殺すしかないな」

「待ってほしいのです、博士」ルシヤさんが慌てて制する。「殺すのは少し待って。一度見てもらってからでも遅くないのです」


 殺す?

 博士?


「ふうむ」金髪が考え込む。「お前がそう言うのなら」

 ぴゅっ。

 畳が謎の液体で濡れている。

 とりあえず生命の危機は去ったようだ。

 ルシヤさんが、殺すのは「少し」「待って」と言ったのが気になる。

 殺すことも視野に入っているのだろうか……。

 白衣の金髪が僕に近づく。よく見ると可愛い。良い匂いがする。第二の天使発見。

 クロアチアには天使しかいないのか?

「おい貴様」

「僕ですか」

「無意味な問いを発するな。無駄に消費される時間が死ぬほど可哀想だ」

「はい……」

「まあいい。冷蔵庫に春雨の酢の物がある。今すぐそれを食べろ」

「えっ? 酢の物? カレーを食べるつもりだったので、カレーの口になってるんですけど」

「いいから食え! 春雨を一本も残さず食え。スムーズに事を運ぶための体づくりだ」彼女は僕の胸に軽くパンチして、にやりと笑う。「大事な体だからな」

 何だか淫靡な予感を嗅ぎ取った僕は大人しく春雨を食べることにした。

 深い皿にラップがしてある。

 中華春雨サラダ。

 ふつうにおいしい。

 でも淫靡な扉への圧倒的な期待感で、あまりのどを通っていかない。

 食べながら黒髪のルシヤさんと、金髪の女を見比べてみる。


 淫靡だ。


 金髪が横でイライラしているので無理をして急いで食べた。

「ごちそうさまでした」と僕は手を合わせる。

「よし服を脱げ」

 情緒もくそもない。日本人とはあまりに考え方が違う。

「あの、シャワーとかは」

「必要ない。服も全部は脱がなくていい。下着は着てていい。というか下着は脱ぐな」


 僕はその通りの姿になった。

 何となく、胸もとを隠す僕。


 金髪は背伸びして戸棚の高い位置から何かを取り出した。

 金髪はあまり背が高くない。

「この袋に入れ」

 金髪が広げてみせたのは、布団圧縮袋だ。

「えっ」

「わたしもご一緒します」

 見るとルシヤさんがいつのまにか下着姿になっている。

 薄いピンクの上下。ガーターベルト。

 何も恥ずかしがるそぶりがなくて、とても自然な感じだ。

「えっ、えっ」

 僕は思わず目をそらしてしまう。じろじろ見てはいけない。ここは一発、紳士を気取らなくては。

 でも、ちらっと見る。

 すばらしい。

 やわらかそう。

 天使のブラ。

「ほらさっさと入れ!」金髪が僕を布団圧縮袋に押し込もうとする。

「嫌です!」

「嫌じゃない!」

 金髪は僕とルシヤさんを餃子の具みたいにたやすく布団圧縮袋に詰め込んだ。

 肘を折りたたませたり、足で押し込んだりといった複雑な工程を、すごいスピードとパワーでやりとげた。

 なんていう手際の良さだ。梱包のバイトをしたら良いと思う。

 僕とルシヤさんは瞬く間に下着姿で布団圧縮袋の中。きれいにパックされている。ほとんど抱き合うようなかたち。鼻と鼻がくっつきそうな距離。そこに天使の微笑み。ぎゅっ。と抱きしめられる。幸せの絶頂……だけど、思っていたのとはぜんぜん違って、少しも淫靡な雰囲気がない。

 状況が不明すぎる。

 金髪は布団圧縮袋に掃除機をセットして吸いはじめた。

「やめてやめて、死んじゃう!」と僕は心底情けない声を上げた。

「静かにしてろ、すぐに良くなるから!」金髪は目をむいて掃除機のつまみを強にした。

 掃除機本体には「バイソン」とカタカナで書いてある。

 手書きで。

 急激に圧縮されるビニール。

「うっ……やめて……」

 意識が遠のく。薄れる。途絶える。



 □□■□□



 ぱちっ。

 気がつくと僕たちは見渡す限りの草原に放り出されている。

 僕はルシヤさんの姿を探す。


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