第18話 魔女の大釜
長くて暗い廊下を渡り、4人で更衣室に向かう。
等間隔に設置された燭台の明かりで、僕たちの影が絡まりあって蠢いている。
化け物の影みたいだ。
突き当たりに二つの扉が並んでいだ。
「僕はこっちだから」と集介が左の扉に入ろうとした。
僕もそのあとに続く。
「荻野は向こうだろ」集介が少し笑って、大きな手で僕を押し返した。
「僕は男だよ」集介を見上げて抗議する。「まだ子供だけど」
「自分の姿を見てみろよ」
集介は僕の両肩に手を置いて、僕の向きをたやすく、くるりと回転させた。
ごちゃごちゃした装飾に縁取られた大きな鏡が正面にある。
そこに映っている僕は、どこからどうみても11歳の女の子だった。
保健室で薬を飲んだときには、かなり男の子、って感じにフィックスされていたはずなのに。
1日のうちにここまで変化してしまうなんて、とても珍しい。
というか、初めてのことかもしれない。
「私たちと一緒に着替えていいよ。ナノが男の子だろうが女の子だろうが、どっちでもいいしね」理紅が僕の手を引いて言う。
「私も平気」乃亜が右側の扉を開けた。
更衣室はかなり広い。照明もここだけは近代的だった。
僕たちの左右には色とりどり水着がずらりと並んでいる。こんなに大量の水着は見たことがないってくらいに。
だけど僕も理紅も水着なんて見ていなかった。
部屋にいた意外な人物が僕と理紅を驚かせたのだ。
「どちらになさいますか、お嬢様」
かしずくように乃亜に接する女性。
梅森マミ先生だった。
物語でよく見かけるような、中世風のメイド服を着ている。
「先生がどうしてここに?」と僕は聞いた。
「この女は」答えたのは乃亜だった。「昔からこの家で召使いとして働いているの。気にしなくていいわ」
「召使い……」僕はどうしていいかわからずに理紅を見る。
理紅はもう梅森先生を見ていなかった。黙って水着を選んでいる。
「この女には貞操観念が著しく欠如しているの。気をつけてね」乃亜は顎で梅森先生を指し示した。「ほら、梅森。お客様が水着を選ぶのを手伝ってさしあげて」
「はい」うやうやしく一礼して、梅森先生は理紅に近づく。
乃亜と梅森先生の関係はどうなっているのだろう。
乃亜は今朝、梅森先生の手によって、集介の体の中から取り出されたのに。
梅森先生は理紅に近づく。理紅はそれを手で制した。
「私は自分で選ぶから大丈夫。それよりナノの水着選びを手伝ってください。ここ、子供用の水着がないみたいなんですけど」
「少々ですが、ご用意がございます」梅森先生は敬語で答えてにっこりする。「ずっと昔、このお屋敷の住人だった、小さな女の子の水着がいくつか」
僕は梅森先生が選んでくれた子供用の水着を着る。白地に紺の水玉模様で、多少フリルの付いたワンピースだ。なんだか垢抜けない。それに女の子用の水着を着るのは初めてだ。少し不思議な気持ちになった。
乃亜と理紅は少し離れた場所でそれぞれ勝手に水着を選んでいる。二人とも今は裸だ。とくに僕の目を気にしてはいないみたい。理紅は無表情のまま鼻歌を歌っている。乃亜はきびきびした動作で着替えている。ゆるくウェーヴした赤い髪が彼女の背中を覆っていた。それは乃亜の動きに合わせてリズミカルに揺れている。
理紅が選んだのは黒い水着。乃亜は選んだのは白い水着。どちらも旧時代に見られたようなファッション性の高いデザインだ。
「行きましょうか」と乃亜が扉を開けた。
僕たちは揃って部屋を出る。
梅森先生は深くお辞儀をして、その場を動かなかった。
「集介は先にプールに行ってると思う」と乃亜が言う。「少し歩くけど。とっても良いプールなのよ」
僕たちは黙って乃亜のあとに続いた。
理紅は僕の手を引いている。
「どうしてプールなんかで遊ぶんだろう?」理紅が、僕だけに聞こえるような小声で言った。
「自慢のプールなんじゃない?」
乃亜が早足なので、僕たちとの距離が少しずつ開いていく。
「初対面の相手が家に来たとき、プールなんかで遊ぶか?」
「その家の最大の娯楽がプールなら、使って欲しいんじゃない? 僕が子供だから、喜ぶと思ったのかも」
廊下は進むほど、どんどん暗くなっていく。先を歩く乃亜の姿は、もう半分以上も闇に沈んでいた。白い水着に包まれた形の良いお尻が、闇の中で左右に揺れていた。
「スタイルが良いな」と前方を見ながら理紅は言う。
「理紅だって、とてもきれいだよ」と僕は言った。言いながら、霧川の水着姿を見たことがあったかどうか、考える。
思い出せない。
「ありがと」と理紅。「ナノも可愛いね、その水着」
「そうかな?」
僕は妙に嬉しくなってしまう。
見た目を褒められて嬉しく思うなんて、僕には珍しい。
辺りはいつのまにか真っ暗だ。隣の理紅もよく見えない。つないだ手の感触だけが頼りだった。
「ほんとにプールなんてあるのかな?」理紅が眉をひそめる。「プールって、何かの暗喩か? 温水プールって言ってたよね? 茹でられて温泉卵みたいにされてしまうのかも。童話みたいに」
「煮立った大きな釜でね」
自分で言って、僕は少し寒気を覚える。後ろを振り返ると、もう真っ暗で、何も見えなかった。
思わず引き返すことを提案しかけたけど、理紅に笑われそうで言えなかった。
さらに進むと、ほんのり周囲が明るみを帯びてきた。少しほっとする。
しんとした冷たい空気。どこまでも広がる空間。足もとはいつのまにか砂利だ。
屋敷の中のはずなのに。
「ここ、来たことがある」僕は額に汗をかいている。「前に、動物園で意識を失ったとき……」
「レバーを押した場所だね」理紅の声は冷静だった。「つまり、私たちが世界のスイッチを入れた場所」
「そう」
「きみ、ここのことを、何とか、って表現してたね」
「狭間だって言った気がする」僕は自分の言葉を思い出す。「この世界と、別の世界を仕切るカーテンがあるとしたら、ここはたぶん、カーテンレールだ……とかって言ったはず」
「改めて聞いてみても、まるでピンと来ない表現だな」
「今となっては、僕にもよくわからない」僕はあのときより確実に物わかりが悪くなっている。「そんなことより、この場所が実在して、僕たちが生活している空間と地続きになっていたことが驚きだよ……」
「どうかな? 本当に地続きだと思う?」と理紅が言う。
「だって今、僕たちはここに立ってるし」
「私たちはいま現実を見ているの? 見ているとしても、見ていないとしても、いったいいつから? きみの性別はいつ入れ替わった? その性別は正解? 性別の境目ってどこ? プールって本当にプール? 三鳥川乃亜って何者? 私たちが戦う相手は? 私たちはなぜ戦うの? この国は本当に地下にあるの? 地上というのは本当に存在したの? 地上はどうして滅んだの? 敵ってなに? ウイルスってなに? 天使ってなに?」
天使?
僕たちは歩みを止める。何かに気づいたのだ。
『……分断する意思、ノイズとカオス、予期せぬ銀河と純粋で高貴な偽りの記憶、過去と未来の濁った水域から寄せては返す暴力の波、致命的な空、憂鬱な暗示、密集した電子的な構成、鼓膜、制御、赤ん坊、洞穴、テンポは遅く、デシベルは柔らかく、重力は無視できる、城、顔、競争、接続……』
目の前に、見覚えのある黒い台座が現れる。
その頂点に設置されたレバーは、今は倒されていた。
三鳥川乃亜の姿は、見渡す限りどこにもない。
「まただ。呪文みたいなお経みたいな……久々に聞いたな」理紅が頭を振った。「あれが聞こえると、いつもここに来ちゃうのか?」
「このレバーを引けってことなのかな?」僕は理紅の横顔を見上げる。「これは前回、スイッチを入れた状態のままだよね? また世界を元に戻すの?」
「いまさら言うのもなんだけど……」理紅は顎に手を当てて考える。「これって、世界にスイッチを入れるとか戻すとか……そういう概念でもないのかもね」
「だったら何?」
「わからない。けどこのレバー、すっごく引いてみたくない?」
「うん、とても。我慢できないくらい」
僕たちは以前そうしたように、お互いの手を重ねてレバーに乗せた。
力を合わせてレバーを引く。
カチッ、と小気味よい音がする。
ブチッ、と意識が肉体から切断される感覚。
■□□□□
クロアチア人留学生のルシヤ・ブラシッチさんと中央線に揺られている。
陰で「天使」という何のひねりもないあだ名で呼ばれているルシヤさんは、僕の肩に頭を乗せてすやすや眠り、何のひねりもなく天使の寝顔。
電車の振動。よどんだ空気。疲れきった乗客の顔、顔、顔。
眠る天使の髪。
どきどきする。
あれ?
僕はルシヤさんのことを好きなのか?
同じ学部だし、見た目がきれいだとは思っていたけど、べつにそんな、恋愛感情みたいなものはなかったはず。むしろ僕は同じサークルの所沢さんのことを好きだったはず。だったらこの異常などきどきは何だ。
というかルシヤさんが僕を好きという可能性はないか?
こうして新宿にカレーを食べに行こうと僕だけを誘うくらいだから……。
脈がある?
いやいやそんなはずはない。
ヨーロッパっていうのは、挨拶がわりにキスするような、日本とはステージの違う人々の住まう土地だからね。ルシヤさんは単にカレーが好きなだけだ。
ルシヤさんおすすめのカレーってどんなカレーだろう?
クロアチアにもカレーってあるのかな。
カレーの好みが一致してたら嬉しいな。相性占いなんかも一致してたら嬉しいけど。
あれあれ?
こんなにどきどきしてるってことは、やっぱり僕はルシヤさんを好きなんじゃないか?
いやでもルシヤさんのほうこそ?
そんな実のない思考がぐるぐるぐるぐるローテイト。結果として僕はバッハの肖像画みたいな表情。揺れる中央線のシート。
僕の胸は期待と妄想でいっぱいだ。
電車は進む。
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