第16話 恋でも病気でもなく

 20億回も繰り返された霧川きりかわルルナとの朝の場面が今日も正常に作動する。

 だけどそのシステムは少し壊れかかっているのかもしれない。

「ごつーん」と僕に肩をぶつけて、「今日も会えたね」とお決まりのセリフを言うまでの一連の流れ。なのに霧川の表情には翳りが見て取れる。

 ような気がする。

 世界のスイッチが入ってしまったことで、細部のバランスが崩れはじめているのだろうか。

 思い過ごしかもしれないけど。

 でも、すべてが思い過ごしだったらどんなにかいいだろう。

 朝が来て、目が覚めて、なあんだ夢か……って言えたとしたら。


「なんてこと……今日は数学が2時間もある日だった」歩きながら手帳をチェックしていた霧川がぼやいた。「しかも2時間ぶっ続けで……信じられない」

「信じられないってことはないでしょ」

 僕は霧川からもらったキャンディを口の中で転がしながら言う。霧川のほうを見てはいないけど、霧川の目つきが鋭くなったのを空気で感じる。

「私はこの世に数学なんてものが存在することじたいが信じられないの」

「そう感じるのは自由だけど」

「だいたいさあ、こんなありふれた質問するのも嫌なんだけどさあ、やっぱり言うね。あのさ、数学って何の役に立つの?」

「数学はこの世界に最も重要な学問のひとつだよ……って言いたいところだけど、残念ながらそういう時代でもないんだよね、役に立つ学問なんてものは、もうこの世には存在しない。もうすぐ世界じたいが終わっちゃうんだから」

「ねー、そうでしょ!」霧川は僕の腕を掴んで軽く飛び跳ねた。身軽だなって思う。「どうせみんな凍りついて、どうせすぐ終わっちゃうのに、どうして勉強しないといけないんだろうね」

「儀式みたいなものじゃない?」僕は思いつきを言ってみる。「意味はなくても、昔からそうしてきたことを急にはやめられないんだよ、人間って。子供には、学校に通って勉強するという儀式に時間をかけさせているのが、まあ収まりがいいんじゃないかな」

「毎日儀式じゃ疲れちゃうのにね」霧川は正面を見る。「あーあ、理紅には期待してたんだけどな」

「どうして急に理紅が出てくるの?」

「だってあの有居ありい理紅りくだよ。この退屈な日常をめちゃめちゃにしてくれるんじゃないかって私は思ってたの。いい子だけどね。気も合うし。でも、ちょっと器用すぎる。学校を破壊するどころか、すっかり溶け込んじゃってるんだもん」

 僕の胸は少し痛んだ。勉強以外のことに関しては、僕は頭の回転が人よりかなり遅いのだと思う。霧川に隠しごとをしていることの意味に、このとき初めて気づいたのだ。

「ねえねえ、ナノ」

「うん?」

「学校でもナノと仲良くしようかなって、最近は思ってるの」

「そうなの?」

「まだ、すぐにってわけじゃないけど。そのうちね」

「へえー」

「嬉しい?」

「うん、まあ……」

「だよねー」と霧川は嬉しそうに言う。「そしたらさあ、みんなの前でも私のことルルナって呼んでいいよ。嬉しい?」

「うん。とても」

 僕はにっこりしてみる。

「やっぱりねー」と霧川もにこにこしている。

 霧川の横顔はいつもと同じように理想的な描線で構成されていて、霧川の周囲にはいつもと同じ清潔な空気がきらきらと漂っている。

 だけど霧川は眠っているあいだに夢を見ることができない。

 僕にはそれがとても悲しい。


 ●

 ○

 ○


 昇降口で靴を履き替えて、一人で保健室に向かう。なんとなく、今日も三鳥川みどりかわ集介しゅうすけが来ているような気がした。

 木製の扉を開く。

 梅森うめもりマミ先生と、三鳥川集介。

 やはり予想した通りのメンバーが保健室にそろっている。

 だけど目の前に飛び込んできたのは、まったく予想もしていない光景だ。

 集介の上半身は裸だった。いや、それはよくあることだけど……。

 問題は梅森先生だ。

 先生は集介の正面に立っていた。そして集介の胸に左手を突っ込んでいる。

 先生の腕が集介の体に突き刺さっているのだ。

荻野おぎのくん、ドア閉めて」梅森先生がこちらを見ず早口に言う。「治療中なの。すっごい、集中力が要るタイプの」

「え……」と僕は硬直してしまう。

「早くして。いま大事なところだから!」

 僕は後ろ手にドアを閉めた。

 何が起こっているのか、まだ理解できていない。梅森先生の腕は、肘のあたりまで集介の体に飲み込まれている。だけど背中に貫通しているわけでもない。血も出ていない。トリックアートみたいだ。

 先生の表情は真剣そのもの。額にうっすら汗を浮かべている。

 集介も苦しそうだ。

 でも、ほんの少しだけ。

 胸に腕を突き立てられているのに。

「三鳥川くん、もうちょっとがんばってね」

 先生がうわずった声を出す。先生の頬の血色はいつもより格段に良い。高揚した顔つき。何か攻撃的なものを感じる。

 集介は何も答えず、ただ眉をひそめて耐えている。

「……見つけた」梅森先生が歌うような、弾んだ声を出す。うすいピンクの唇が、とてもスロウに、笑った形に変化する。「見・つ・け・た・ぞ~」

 先生は少しずつ腕を引き抜きはじめた。先生の腕と集介の胸の接触点から、信じられないことに、まばゆい光が放たれている。

 壮大な宗教音楽でも流れてきそうな雰囲気だ。

 先生は慎重に集介の体から腕を引き抜いていく。

 ゆっくり、ゆっくり。

 その手には何かをつかんでいるようだ。

 血液の比喩みたいに光がほとばしり続ける。僕はただ見守ることしかできない。

「うう……」集介がようやくうめき声を漏らした。胸を掻きむしろうとするそぶりを見せて、なんとか思いとどまる。

 集介はその手を頭に持っていく。長い髪に指が埋もれる。

 先生が集介の胸から取り出しているもの、それが思ったより巨大であることがわかってきて、僕はだんだん恐ろしくなってきた。

 それに今さらだけど、これは何だかとても馬鹿みたいなことが起こってるんじゃないか? という冷静な気分も持ち上がってきて、自分が興奮しているのか意気消沈しているのかすらわからない。

「うああ……!」と集介が低く叫んだ。ほとんど白目をむいている。身をのけぞらせている。きれいな白木の弓みたいだ。

 先生は途中から、両手で抱きかかえるようにして中の物体を引っぱり出した。真っ白な光の洪水。溺れてしまいそうなほどの。どすん、と音がしてそいつは落下した。

 古い板ばりの床がきしむ。

 集介はよろめいて、背後にあるベッドに尻餅をついた。目つきは鋭く、髪が乱れている。腕を突っ込まれていたはずの胸には穴なんて空いていなくて、全身にうっすら汗をかいていた。

 梅森先生は引っぱり出したものから手を離し、荒い呼吸で頭を何度か左右に振る。

 先生の金色の髪は、汗で額や頬にはりついている。

 地面に落ちた巨大な物体に目をやる。それが何なのか、すぐにはわからなかった。あまりにも唐突すぎて。それは体を丸めた女の子だったのだ。しゃがみこむような姿勢の。真っ赤な髪がひときわ目につく。ゆっくりと女の子は立ち上がった。背筋を伸ばして僕たちを順番に見る。


「初めまして。三鳥川みどりかわ乃亜のあです」少し温度の低い、だけど明瞭な発音でその女の子は言った。「三鳥川集介の双子の妹だよ」


 三鳥川乃亜は生まれたときから17歳で、生まれたときからこの学校の制服を着ていた。

 ぱりっとした白いシャツにエンジ色のリボン。集介は男子の中でも背が高いほうだけど、乃亜もかなり背が高い。

 今は保健室のベッドに集介と並んで腰かけて、ペットボトルの水を飲んでいた。

 顔は集介に驚くほどよく似ている。とても繊細な顔立ちの双子だと思う。

 僕はもう、この二人が兄妹だという事実を半ば受け入れている自分に気づく。

 梅森先生は三鳥川乃亜に質疑応答をしながら書類を作成していた。集介はその会話にたまに口を挟んでいる。集介の顔色は、もうすっかりいつも通りだ。

 僕は棚から自分の薬を出して、一錠飲む。今日の僕の、未決定だった細部が次々とフィックスされる。鏡を見る。今日の僕は少年っぽいと思う。

 自己判断はあてにならないけど。

 集介と乃亜を改めて観察する。

 片方は生まれたばかりなのに、17年の時を隔てて双子というのは、当然だけど意味がよくわからない。

「三鳥川くんの胸が最近苦しかったのは、恋でも病気でもなく、内部に乃亜ちゃんが育っていたからだったの」

 と梅森先生が説明するけど、やっぱりよくわからない。

 真面目に考えたら負けって感じだ。

 世界はこんなふうに、細部から崩壊していくのだろうか。

 それとも活性化しようとしているのか。

 あるいは単なるバグみたいなもの?


 三鳥川乃亜は暗い微笑を浮かべて言う。

「私は集介と一緒に育ってきた。だから集介のことなら何でもわかる。今では集介のたったひとりの家族でもある。神秘的な血のつながりだって、ちゃんとあります。だけど私と集介は別の人間よ。私は集介の一部というわけではない。私は過去17年の歴史を持った状態で、この世界に追加されたんだから」


 三鳥川乃亜の炎のように赤い髪がなめらかに揺れた。

 乃亜は、たったいま自分がこの世に生まれたことで、この世界の過去の17年の歴史が修正されたのだと主張した。三鳥川乃亜の育ってきた歴史が、急遽この世界に書き加えられたのだと。

「集介の記憶も書き換えられているの?」と僕は思わず聞いてしまう。

「僕の記憶?」と集介。「どういうこと?」

「今の今まで、双子の妹なんていなかったんでしょ。そこに突然、過去の歴史を持った状態の妹が生まれた。 昨日までは存在しなかった妹との思い出が、集介の記憶の中に、今はあるということ?」

「どうだろうね」集介は落ち着いた笑みを浮かべて僕を見る。「そもそも僕は記憶力が壊滅的にないからさ」

「あはは」と梅森先生が笑った。

 へんなやつだな、って僕は思う。

「へんなやつだな」と実際に言ってしまう。

 へんなやつばかりの世界だ。

 というか、普通、ってどんなのだっけ?

 三鳥川乃亜が集介の肩にそっと手を置く。その表情からは何も読み取れない。とても信じられないような生まれ方をしてきた女の子なのに、僕はそのことを、もう当たり前のことのように感じはじめている。

 世界の崩れる音が聞こえてくるような気がした。

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