第14話 決闘
動物園は休園日だった。
照明は完全に落とされている。だけど入場口は開いていた。
「勝手に入って良いのかな?」僕は門の前に立って言う。
「だめなんじゃない?」と言いながら、理紅は堂々と動物園の敷地に足を踏み入れる。「入るけど」
園内の照明がぼんやり灯った。
それと同時に、昨日拾った鍵が、昨日と同じように緑色の光を発する。
この【最初の鍵】は、僕たちに目的地を示す機能を持っているようだ。
光線の指示通りに動物園を進む。
さまざまな動物の暗い表情が左右につらなっている。複雑な道順に幻惑されそうになりながら、石碑のある行き止まりに到着する。そこに鍵を差し込み、地下に進む階段を出現させる。それを降りる。【決闘場】が目の前に現れる。
この行程じたいが、まるで何かの儀式のようで、うんざりさせられる。
まだ2回目なのに。
僕は鯨井の姿を探した。だけど【決闘場】には誰もいない。ここは分厚いガラスで囲まれていて、昨日は中に入れなかった。門扉だけは鉄製で、高さも幅も2メートルほどはある。
「さあ、新しい鍵を試すぞ!」理紅がうきうきした様子で、決闘場の門に鍵を差し込んだ。
「開かなかったりして」
「開かなかったら暴れるからね……開いた!」
ゆっくりと【決闘場】の扉がひらかれる。あまりにも重厚な音が鳴り響くものだから、逆にユーモラスだった。
おそるおそる中に入る。目の前の階段をのぼりきると、そこは半径100メートルほどの円形の広場だった。弱々しい照明で満たされている。周囲を取り囲む分厚いガラス。その外側は観客席のように見える。
まさに決闘場といった印象だ。
ふと、薄暗い明かりが、徐々に光量を増しているように感じられた。
突如、爆発的な閃光がはしる。
と同時に、爆発的に音楽が鳴りだした。
ものすごい音量だ。
かつて地上に存在したあらゆる民族の祝祭。そのときに奏でられる音楽を、かきまぜて、合成し、集中豪雨にして降らせているような音だ。複雑なリズムが空間を支配している。色とりどりのライトも乱射され、一瞬にして【決闘場】は旧時代のダンスフロアみたいな様相を呈した。
「なにこれ」僕は唖然としてしまう。
「鯨井くんがいる」
理紅が顎で指し示したほうを見る。
正面の壁ぎわに、いつのまにか鯨井が立っている。
生気がなく、いまいち感情の読み取れない、不思議な顔だ。
「鯨井!」音楽が大きいので、僕も珍しく大声を出す。「これ、どういうつもり?」
「どういうつもり? って変な質問だな」隣で理紅がくすっと笑った。
「よう、お二人さん」鯨井は顔を上げて僕たちを見る。「気をつけてくれ。俺は今、【影が差した】状態にある」
「影? なんのこと?」僕は大声を維持している。
鯨井は歌うように喋る。
「俺は世界の秘密に気づいてしまった。世界は俺の都合の良いようにはできていない。俺はこの世界に適合していない。あるいは適合しすぎている。俺はこの平穏な世界で、生まれてはじめて絶望を知ってしまった。自分の望む能力が自分にセットされていない。俺には何もない。あるいは欲しくもない何か別のものがある。わかってしまったんだよ、荻野。俺という人間は女の子と恋愛を楽しんだりするようには設計されていない」
「何を言ってるの?」
「気づいたのさ。俺は気づいてしまった。そして気がついた人間には【影が差す】。そうなったら戦うしかない。戦って相手を倒すことで、自分の運命を切り拓いていかなければならない。影を取り払わなければならない。これは暗喩であり直接表現でもあり、目を背けたくなるような現実でもある」鯨井は笑う。「過去の世界の遺物だよ」
鯨井の輪郭から少しずつ何かが溶け出していた。徐々に彼は人の形を保てなくなっている。黒い霧のようなものに変貌していく。そのことに僕は気づいている。
理紅はもっと早く気づいていたようだ。すでに絵を描きはじめている。地面にチューブ式の絵の具をぶちまけて、その中に手を突っ込んで猛然と絵を描いているのだ。
「ねえ、僕は鯨井と戦わなくてはいけないの?」
「そうみたいだね。がっかりだよ!」理紅は叫ぶように言う。
「がっかり?」鯨井の様子を気にしながら僕は聞く。
「私が望んでいた【世界の変化】ってのは、こんな幼稚なものじゃなかった!」理紅は迷いなく絵を描き続ける。「妬みとか嫉みとか絶望とか、そんなありふれた感情でさあ! 闇に墜ちたりしてさあ! そんで人間の闇の部分を増幅させたような、へんてこな姿の敵と戦う! 何のひねりも独創性もないストーリーだって思わない? 結局もとの世界と同じ、安っぽいフィクションみたいな世界だ!」
ヒステリックな理紅の叫び。
鯨井は、もうほとんど黒い影と化していた。
「ねえ、理紅、急いで!」
「わかってるよ!」理紅は最後の仕上げに、絵の細部を荒々しく指で修正する。「つまんねえなあ、もう! ほら、できたよ!」
理紅が言うのと、鯨井の影が僕に襲いかかって来たのがほとんど同時。
理紅の絵が動いているところを僕は一瞬で想像する。
地面から絵が、なめらかに離脱。
今回のは、4本の首を持つ蛇みたいな抽象画だ。
鯨井の影から放たれた黒い矢を、僕は理紅の絵を使ってはじき飛ばした。
鯨井の影は動きを止めない。すかさず僕の懐に飛び込んでくる。
動作がとても速い。
鯨井の運動神経の良さをそのまま反映したような能力だ。
だけど残念なことに、じっさいに肉体を動かして走る人間より、想像の中で走る人間のほうがずっと速い。
僕は余裕を持って理紅の絵を動かし、鯨井の矢継ぎ早の攻撃を確実に防ぎきる。蛇の4本の首にそれぞれ役割を与えて、戦略的にコントロールする。
場内は激しい照明と音楽の洪水。
周囲を取り囲む客席がぎっしり埋まっているような気配。
たぶん錯覚。
僕の中に小さな暴力的傾向が芽生え、それは一瞬で育ちきり、爆発した。
蛇の4つの首を巧みに操って、着実に鯨井に打撃を与えていく。鯨井の影は少しずつすり減っていく。動きが鈍くなっていく。暴力的思考は、実際の暴力によってさらなる飛躍を遂げる。頭が真っ白になる感覚。覚えていないけど、僕はたぶん、とんでもなく凄惨な暴力行為に及んでいたんだと思う。
気がつくと決闘場の照明はもとの落ち着いた調子に戻っていた。音楽も止んでいる。幽かな風。静寂。耳が痛いほどの。鯨井の影もどこかに消えた。理紅の絵ももうない。僕の気分は妙にすっきりしていて、同時に言い様のない罪悪感に苛まれてもいる。
「やっと終わった」しゃがみこんでいた理紅が僕を見上げる。
「怪我はない?」
「ないよ、私の騎士さま」理紅は立ち上がって、白けた目で言った。「この世は退屈に満ちている。これじゃ凍る前と同じね」
「こういう戦いがこれからも続くのかな?」
「さあね」理紅の答えは短い。「冷凍睡眠が再開される前に、私たちが世界中の人間を殺してしまいそう」
「殺す……」僕は急に我に返る。「僕は……鯨井を殺してしまったの?」
僕の声は自分でも驚くほど震えていた。
それを見て理紅は、ふっ、と優しく笑う。そして僕を正面から軽くハグする。
もぎたての林檎みたいな匂い。
「ああいうのは、殺したとは言わないよ」
「でも、鯨井はいなくなった」僕の声は小さい。
「ナノ、きみは鯨井くんの【影】を斬ったんだ。本人じゃない」理紅が僕の頭に鼻を押しつけてくる。「マニュアルに書いてあっただろ? ルールを把握してないの?」
「まだ体のすみずみにまで浸透していないんだ」
「安心して」理紅は僕の背中をぽん、と軽く叩いて、僕から離れた。「明日になったら鯨井くんはいつも通り、きみの後ろの席にいる。たぶん、これまでよりすっきりした顔をしてね」
「本当に……?」
「泣くなよ」理紅は明るく笑った。「私もう帰るね。今日はなんだか疲れた。きみは一度学校に戻ったほうがいい。ルルナの部活が終わる頃だよ。いつも待ち合わせて一緒に帰ってるだろ?」
○
○
●
翌朝、僕の後ろの席に鯨井の姿はなかった。
ホームルームで先生が、鯨井サトシがクラスの7人目の失踪者となったことを淡々と告げた。
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