第13話 幽霊
いつものように造形部の教室に向かうと、いつものように吉野先生が何か事務仕事をしていた。
すべてがいつも通りの放課後……と言いたいところだけど、部屋の真ん中に珍しい人が座っている。
沼野摩耶。
僕以外の唯一の部員であり、この学校でもっともレアリティの高い生徒でもある。目撃情報の少なさから、その存在自体が疑われている人だ。
「よう、少年」座ったまま彼女は言う。「あれ、今日はかなり少女みたいだな」
濃いピンクの長い髪に、壁の環境映像が反射していて、ちょっと神秘的だ。瞳の色は濃紺。手足は長くて、全体的にどこか蛇みたいな印象だ。
「何でいるんですか、沼野さん」
「何でいるんですかとは酷い言いぐさだな。私は部長だぞ。ここに私がいるのは、とても自然なことだ。自然の摂理だ。大自然の恵みだ。あと……極めて自然なことなんだよ」
「僕は毎日ここにいるんですよ」
「不自然なやつめ」
僕は沼野さんの隣の席に座った。
「久しぶりに会えて嬉しいです」
「あらっ、可愛いこと言うようになったのね、少女ナノ」沼野さんは僕の頭を撫でた。「何か最近変わったことなかった? あったよな? あったって顔してるもん。言えよ」
「何もないですよ」と言いつつ僕は緊張している。昨日、動物園の地下で沼野さんらしき人影を見たのを思い出したからだ。
「本当に何もないの?」沼野さんは視線を僕に固定する。ちょっとごまかせない雰囲気が漂ってきて、僕は息苦しくなる。
「沼野さんこそ、何かあったんでしょう。部活に顔を出すなんて」
「そうねえ。変わったことってわけでもないけど」沼野さんは顎を少し上向きにする。「今日は愛の告白というのを受けたね」
「そうなんですか」
「そうなんですよ。鯨井という名の、見たこともない少年に」
「鯨井って、鯨井サトシ? ですか?」
だとしたらけっこう意外だ。
「ああ、たしかそんな名前だったね。友達?」
「僕の後ろの席なんですよ」
「ああそう。にべもなく撥ねつけてやったよ。可哀想に。でも、何しろまったく知らない少年だからね。知らないやつに愛を語られることほど気持ちの悪いことはない。そして残念なことに私の歴史を紐解くと、とても不自然なことに、あるいはとても当然なことに、老若男女が私に愛の告白をするんだけど、相手がどれもまったく知らない人間なんだ。どうしてだろうね。どうしてだと思う?」
「沼野さんは有名人で、しかも沼野さんは他人に興味がないからでは?」
「当然の帰結か。まあそれにしても」沼野さんは足を組み替えて口調も変化させる。「あの少年はよくないね」
「鯨井ですか?」
「そう。あまりに暗い目をしている」
「うーん、たしかに今日は様子がおかしかったかもしれないけど……いつもは普通ですよ」
と言ってはみたものの、僕は正直、鯨井の普段の様子なんてまるで知らない。
近隣の女の子の詳細なデータベースを脳内に有していて、運動神経が良く、成績が悪い。それだけでほとんどすべてを語ったといっても良いような、単純な、取って付けたような、ストーリーにたいして影響を及ぼさない登場人物。
ひどい言い方かもしれないけど、それくらいの印象しかない。
「あれは何かをしでかすやつの目だ」沼野さんは僕をまっすぐ見る。
「しでかす?」
「お?」沼野さんは僕から視線を外し、教室のドアを睨んだ。「誰かいるな」
「ばれたか」と声がしてドアが開く。澄んだ水色の髪がぱっと目に付く。理紅だった。「話は聞かせてもらった」
「たいした話はしてないよ」と僕は言う。
「雰囲気だよ雰囲気」
理紅はなぜか胸を張って偉そうに教室に入ってくる。
普段はとても静かな部なのに、なんだか今日はがちゃがちゃしている。僕は少し心配になって吉野先生を見た。先生は顔も上げずに黙って仕事をしている。こちらの会話が耳に入っているのかどうかもわからない。
「ああ、きみは有居理紅だね」と沼野さん。「顔と名前は知ってるよ」
「充分ですよ。はじめまして。有居理紅です。先日この部に入部しました。よろしくお願いします」
理紅はきれいなお辞儀をする。
「入部したの?」と僕。
「入部したの」と理紅。
「なるほど」先輩は椅子から立ち上がって、鞄を手に取った。「ちょっと人口密度が高すぎるな。呼吸ができない。お肌にも悪い。今日は帰る」
「久しぶりに会えたのに」
「ちょっと寄ってみただけなんだよ。少女ナノ、顔を見ることができて良かった。それから有居さん、きみのことは顔と名前しか知らないけど、この子をよろしく」
沼野さんは幽霊みたいに静かな足取りで教室を出て行った。
教室に静けさが戻る。
「誰、いまの?」理紅は沼野さんが座っていた席に座る。
「部長の沼野摩耶さんだよ。ひとつ先輩で、ほとんど学校に姿を現さない。それに毎回、会うたびに性格が違ってる。ルーレットみたいな人なんだ」
「そういうところは、少しきみに似てるかもね」
「そうかな?」
「ところで」理紅が僕に顔を近づけて耳打ちした。吉野先生に聞かれたくない話なのだろうか。「さっきの話だけどさ」
「さっきの話って?」
「私が盗み聞きしてた話。鯨井くんが先輩に告白したって話」
「ああ」
「今日、私も告白されたんだよ」
「えっ、誰に?」
「鯨井くんに」
「へえ」僕は少し考える。「どういうことだろ」
「あと、ルルナもされたんだって、告白」
「誰に?」思わず理紅を見る。
「鯨井くんに」理紅は大きなまばたきをした。
僕は一瞬動きを止めてしまう。何が起こっているんだろう。鯨井はたしかに女の子の情報には詳しいけど、誰彼かまわず手を出そすタイプの人間でもないはず。
「鯨井くんって、何人もいるの?」理紅は怪訝そうに言う。
「一人だよ」
「どう考えても異常だよね」
「そういう人間がいたっておかしくはないと思うけど……ただ、鯨井らしくない行動だとは思う。まるで急に別の人格と入れ替わったみたいなさ。何らかの錯乱状態にあるのは間違いないと思う」
「これも私たちが【スイッチを入れた】ことによる影響?」
「鯨井だけにそんな影響がでるの?」僕はちょっと混乱する。「なんか違うような気がする」
「どこかで会議しない? ここじゃない場所で」理紅が小声で言う。
「会議って?」
「今後のこと。私たちはもう【戦い】のある世界に属している。作戦もなしに生き抜くことはできないんだよ」
僕たちは吉野先生に許可をもらって部活を早退した。黙って帰っても何も言われることはないだろうけど。
誰もいない昇降口で自分の靴箱を開ける。
僕の靴の上に一枚の紙が乗っている。
取り出すと、何か文字が書いてあった。
『決闘場にて待つ・鯨井サトシ』
決闘場?
何のことだろう?
すると理紅がちょっと興奮した感じに近寄ってきた。
「ねえ、ナノ! 私の靴箱にこんなものがあった!」
理紅が手に持っているのは、美しい装飾を施された鍵だ。
明らかに昨日拾った鍵と関連がある。
僕は手紙を理紅に渡す。理紅が文面にさっと目を走らせる。
僕たちは顔を見合わせた。
「どういうこと……?」理紅が口もとに指を当てて考え込む。「決闘場ってたぶん、昨日見た動物園の地下の、あれだよね?」
「たぶん……」僕は弱々しく頷く。「鯨井がこの手紙と鍵を用意して、僕と理紅の靴箱に入れたってこと?」
「鯨井くんはどこまで知ってるんだろう」理紅は鍵を手の中でくるくる動かしながら言う。「まあ、行くしかないか」
「行くの!?」と僕。
「行かないの!?」と理紅。
「行くよ……」僕は観念して言う。「でもまさか、鯨井と決闘するわけにもいかない」
「まあ、その場の流れしだいだね。どちらにしろ、この鍵を無視するわけにはいかない。世界をこんなふうにしたのは私たちなんだから」
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