第12話 鍵
理紅は唐突に出現した鍵をべたべたさわっている。
いろいろな角度からながめてみたり、片目で見たり、曲げようとしてみたり。軽くかじって(!)みたり。
「なんの鍵だろ」理紅は鍵をノーモーションで僕に放った。
とっさにキャッチしてしまう。こんな気持ちの悪いもの、あまりさわりたくない……と思った瞬間、鍵が発光する。思わず落としてしまった。
「びっくりした……」
地面に落ちた鍵からは緑色の光が放たれたままだ。
一条の光が、意思を持ったようにまっすぐに動物園の奥に伸びている。
理紅が鍵を拾った。
恐怖心というものがないのだろうか。少し心配になる。
「見て」理紅が楽しそうに僕を振り返る。「鍵をどの方向にむけても、光の指す方向は変わらない」
「この方向に行けってことなのかな?」
「とてもレトロな映画とかゲームなんかによくある趣向だね」理紅は目をきゅっと細めた。「わくわくする」
「この光の先に、呪われた王家の墓があったりするんだよね」
「何があるのかなあ」理紅の声は明らかに弾んでいる。
「えっ、行くの……?」
「えっ、行かないの?」
「行ってもいいけど……」
「こわがりなんだな、きみって」
「違うよ。ただ、目的も意味もわからないし……」
「安心しなって。終わりを見たいんだろ、エンドローム患者さん」理紅は僕の手を引いて歩き出す。反対の手にはハンドライトみたいに鍵を握っている。「私が守ってあげるからさ」
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光の指し示す通りに、僕たちは動物園の中を進む。
細い通路。つがいの動物たちがおさめられたガラス張りの個室がずらりと並んでいる。立体の図鑑みたいだ。照明は暗い。僕たちの靴音だけが寒々しく響くいている。動物たちは陰気な顔でじっとしている。
やがて道は行き止まった。壁の前に大きな石碑が建てられている。
何も文字は書いていない。形としてはよくある凡庸なモニュメントだ。
「動物園にこんな場所があったなんて」僕は素直に驚いた。「どうして誰も気づかないんだろう」
辺りには誰もいない。耳鳴りがするくらい静かだ。
僕たちは石碑に近づいてみる。正面には何もない。そこで裏に回ってみる。
「やっぱり」と理紅が言った。
石碑の裏側には、大きな鍵穴がわざとらしく用意されていた。
「どきどきするなあ」理紅が僕を見る。「私が開けて良い?」
言いながら理紅はもう鍵を差し込んで回しはじめている。
僕は何も言わなかった。
かちり。と、想像通りの音がする。
続いて、鈍い地鳴り。
足もとの床がもったいぶって左右に開きはじめる。僕たちは慌てて数歩後退した。
地面が真四角に割れていく。
現れたのは、真っ暗な床下へと続く階段だった。
鍵から放たれる光は階段の下へと向かっている。子供だましの冒険コミックみたいだ。
「なんて古くさい演出だろう」理紅が口もとを押さえてくすくす笑う。「ほんとに王家の墓なのかも」
「えっ、降りるの?」と僕は理紅の顔色を窺う。
「えっ、降りないの?」
「降りるよ」僕は観念して頷く。「守ってくれるんでしょ」
「もちろん!」
理紅はどんどん元気になっている。僕はだんだん不安になってくる。
これは【世界の秘密】みたいなものを暴くための行動って気がする。
僕たちは身を寄せあって階段を降りた。
正確には、身を寄せているのは僕のほうだけど。
「きみってさあ」理紅が正面を見たまま言う。「いま、男なの? 女なの?」
「どっちでもないよ。薬を飲んでいないときは、どっちでもない。というか、どちらでもある。可能性だけが入った容れ物みたいなものなんだ」
「私は女だよ」
「知ってるけど」
「すごく良い女なんだ」
「何なの急に。良い女の定義がわからないけど」
「ナノ、ずっと震えてるよ。それは薬を飲んでいないから? それとも」理紅が耳もとでささやいた。「やっぱ、こわい?」
「わからない」
「安心しなよ。私は女なんだから」
よくわからない理屈を言って、理紅は僕の腰に手を回した。彼女の体からは、とても甘い匂いがする。
もぎたての林檎みたいな匂いだ。と僕は思う。
変だな。
もぎたての林檎なんて、見たこともないのに。
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長い階段が終わった。
途中から完全に真っ暗だったので、僕たちは鍵から発せられる緑色の光に頼りきりだった。誰かの寝息のような弱々しく生ぬるい風が吹いていて、薄気味が悪かった。
階段を降りきって少し進むと、大きな円形の広場に出た。
ここには照明が生きている。鈍い明かりで、全体がぼんやり見える。
緑色の光は広場の中央を指し示していた。ただし広場は分厚いガラスの障壁に覆われていて、中に入ることはできない。
入り口らしきものはあるけど、施錠されている。
光る鍵をあてがってみたけど、今度はうまくささらない。
「この鍵では無理かあ」理紅が残念そうに言う。
「たぶん次のステージに進むには、新たな鍵が必要なんだ」僕はこれ以上進まなくて良いことに、ちょっとほっとする。「どこで手に入れたら良いのかわからないけど」
「ほんとに大昔のゲームみたいだな」理紅はパーカーのポケットに手を突っ込んで、不機嫌そうに広場を見ている。「この場所じたい、古代の決闘場みたいなデザインだし」
「ねえ、何か変な匂いがしない?」と僕が言う。
「する」理紅は薄く笑った。「何の匂いか知らないでしょう?」
「うん」
「私は良く知ってる。死臭だよ」
死臭。確かに、それは僕の知らない匂いだ。
というより、死人が発する匂いがあるということすら、考えたこともなかった。
今まで一度も。
そして僕は思い出す。
理紅は目もくらむような死体の山のてっぺんで目を醒ました女の子なのだ。
そのとき、視界の隅に何か動くものが見えた。
慌ててそちらを見ると、もう何もない。
人。
だったような気がする。
濃いピンク色の、長い髪がなびいていた。
ような気がする。
そんな髪の人をひとりだけ知っている。
造形部のただ一人の先輩。
でも、たぶん見間違いだろう。こんなところに人がいるはずはない。
結局僕たちは引き返すしかなかった。
階段を上って動物園に戻ると、鍵は光を失い、すべてが元通りになった。
平凡な夢を見た朝のような、何の感慨もない気持ち。
最初の戦いを終えたその夜。
明かりを消してベッドで眠ろうとして、僕ははっきりと自分の異変に気づいた。
闇を恐れている。
部屋の隅の暗がりが、いまにも意思を持って動き出しそうで怖かった。
これまでの僕にはなかった感情だ。
敵と戦うことで、僕は少しずつ感情の振り幅の大きい種族へと変貌していくのではないだろうか。昔の人間のような。
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翌朝。いつも通り学校へ向かう。
いつもの時間に、いつもの場所で、霧川ルルナと鉢合わせる。
「ごつーん」
霧川が肩をぶつけてくる。20億回繰り返されたようなありふれたイベント。
ずっと昔から新鮮な霧川の笑顔。
「おはよ。今日も会えたね」
「おはよう」といつものように答える僕。
でも僕の右ポケットには、昨日拾ったあの鍵が入っている。
昨日と今日は違う日だ。
右手の鍵の感触が、その現実を僕に突きつける。
「理紅は一緒に来ないんだね。はい、これどうぞ」いつものように霧川はキャンディを僕に差し出す。「理紅の家、ナノの家の近くなんだよね?」
「そうらしいけど、行ったことはないよ。場所も知らないし」僕はキャンディを素直に受け取る。「用事もないしね」
「ナノって誰に対してもそうだね」
「まあね。どうせなくなる世界だから」
僕はキャンディを口の中に放り込んだ。
学校が近づくといつものように霧川は僕から離脱する。僕はいつものように一人で保健室に向かった。
古びた木製の扉をノックする。
「はあい。どうぞ」
背中を向けていた梅森先生が丸椅子の上で体を回転させてこちらを向いた。
「荻野くん、おはよう」先生はにっこりほほえむ。「お薬ね?」
「はい、今日もお願いします」
僕はいつものように棚から自分で薬の瓶を取り出す。緑色の錠剤を手のひらに一錠だけ落として、その場で飲む。未決定だった僕の細部が次々とフィックスされる。
仮縫いみたいなものに過ぎないけれど。
「あら?」じっと僕を見ていた梅森先生が、椅子から立ち上がって近づいてきた。金色の豊かなボブヘアが早朝の照明を鈍く反射する。白衣と揺れる黒いピアス。かすかな香水。
「なんですか?」と僕は聞く。
「荻野くん、きみ、今日はずいぶんはっきり【女の子】なのね。最近ずいぶん、そっち寄りだとは思っていたけど」
梅森先生は僕の前髪をかき上げて、額に手のひらを当てる。ひんやりした手だ。
「そうですか? 自分ではそういうの、わからなくて……」
「男の子っぽい日のきみのほうが、先生は好きかな」梅森先生はくすっと笑う。「あはは、教師がこんなこと言っちゃだめか」
「よくわかりませんけど」
梅森先生は僕の額に手を当てたまま、僕の顔をどことなく熱っぽい視線で見つめる。ちょっと苦手な感じだ。
「荻野くん、きみ、もうちょっと笑顔でいたほうが良いね。もてると思うよ」
「人前ではあまり笑わないようにしてるんです。自分の笑顔が好きじゃなくて。冷笑的だから……子供の頃に気づいたんです」
「きみ、まだ子供じゃない。笑い方なんて練習しだいだよ。私が教えてあげようか。バランスの良い笑顔の作り方」
「うーん。また今度で」
先生の冷たい手が、僕の額から頬、頬から顎へとなめらかに移動する。先生の細かな指の動かし方には、すべて意味があるような気がする。
「ねえ、荻野くん」僕の顎を軽く持ったまま先生は言った。「先生のこと、一度〈お姉ちゃん〉って呼んでくれない?」
「え?」
僕は梅森先生の言葉を何度か頭の中で反芻する。うまく飲み込めなかった。
お姉ちゃん?
ぷっ、と梅森先生が吹き出した。
そして僕から離れると、椅子に座って背中を向ける。
「ごめんごめん、冗談よ。教師が言ってはいけないタイプの。そろそろ行ったら? もう授業が始まる時間じゃない?」
保健室を出ると、すぐさま
彼もちょうど保健室に向かっていたところのようだ。
「集介、また胸が痛いの?」と僕は聞く。
「うん」集介は少し微笑む。「恋か大病のどちらかだよ。どちらも同じ意味かもしれないけど」
「大変だね」と僕は言う。「もうすぐ授業だから急いだ方が良いよ」
通りすぎようとする僕の腕を、集介が軽くつかんだ。
強くはないけど、どうやっても逃れられないような、絶妙の力加減だ。
「なに?」
「荻野、今日のお前……」
「女の子みたいだって言うんだろ?」
「いや、顔が」
「へん?」
「いや。美しいね。いつもより」
「美しい?」僕は小首をかしげる。
「もともと僕は荻野の顔は好きだよ」集介は僕から手を離した。「でも今日は、昨日までと明らかに違うと思う。造形は同じだけど……」
集介の少し陰りのある表情は、木造の校舎に妙にマッチしていて、思わず笑いそうになってしまう。普通の女の子だったら、どきどきしてしまうだろう。
「美しいと言ってくれてありがとう」と僕は言った。そしてにっこり笑ってみる。梅森先生に言われたように。「美しいと言われたいと、思ったことはないけど」
「まあ、美しいという言葉じたいは、あまりたいした意味を持たないからね」集介は少し笑って、僕に背を向けた。「授業には少し遅れる」
教室は少し騒がしい。
霧川ルルナと有居理紅が何か楽しそうに話していて、その周囲には人だかりができている。
僕は黙って自分の席に座る。
後ろの席の
「なあ、荻野」と鯨井は予想通りの不機嫌そうな口調。「お前、霧川ルルナと仲いいよな?」
僕はどきっとする。そのことは学校ではほとんど知られていないはずだ。
「そう?」と僕はごまかした。
「有居理紅ともかなり仲が良さそうだけど」
本格的に僕は驚く。
僕と理紅の冒険を、鯨井はどこかで見ていたのだろうか?
そんなはずはないと思うけど……。
「どうしてそう思うの?」
「なんとなくわかるんだよな。女のことなら」鯨井は不敵な笑みを浮かべる。「お前、今日は女っぽいしな」
「僕も鯨井のデータベースに載せてもらえるの?」と少し冗談っぽく言ってみる。
「どうだろうね。俺は今、それどころじゃないくらい機嫌が悪い」
「何かあったの」
全く興味がないけれど、話をそらすために僕は聞く。
「俺は昨日までの俺とは違ってしまった。俺は気づいてしまったんだよ。この世界の秘密ってやつに」
「世界の秘密……?」
昨日の僕と理紅を、やはり鯨井はどこかで見ていたのだろうか?
「俺って女が好きだろ? だけど、たいていの女ってのは俺のことを好きじゃない。それどころか、たいていの女は俺のことを嫌っている」鯨井にはどこか思い詰めたような気配があった。「これは、俺が女に好かれるようにはできていないからなんだ。つまり、世界は俺に都合悪く作られている。あるいは、俺は俺の思うようには生きられないようにつくられている」
なあんだ、と僕は思う。
「なあんだ」実際に口に出して言ってしまった。
「なあんだって何だよ」鯨井が僕を睨む。
「たぶん声の出し方とか、視線の動かし方とか、そういう細部の設定が、一般的な女性の嗜好と逆方向に加算されているだけだよ。鯨井は運動神経がとても良いから、細部の調整にだけ気をつけたら、あとは簡単なんじゃない? 僕はまだ子供だし、女の子に好かれようと思ったこともないから、本当のところはわからないけど」
「それだよ。そういうとこだよ」鯨井は強いため息をついた。「子供とはいえ、俺はお前みたいにナチュラルに女に好かれるやつが心底嫌いなんだよ。そのことに昨日気づいた。唐突に」
「昨日何があったの?」
「さあね。言いたくない」
ほんとに苛々しているみたいだ。絶望とも怒りともとれる不思議な表情をしている。いつも快活な鯨井には珍しい。というより、こんなふうに苛々する人間というのが、この世界では珍しい。
それこそ旧世代のわかりやすいフィクションの登場人物みたいだ。
僕と理紅が【スイッチを入れた】ことが、世界全体に何らかの影響を及ぼしているのだろうか。
そこまで考えたところで、担任の教師が入室してきた。
先生は今日のスケジュールと、いくつかの注意点を発表する。
そして僕の隣の席だった
たしかに僕の右隣の席は空いている。
冷凍睡眠計画が発表されて以降の世界で、異常多発している失踪事件。
このクラスでは、志賀は6人目の失踪者だ。
とくに珍しくもない話題。
いつもと同じチャイムが鳴る。
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