第11話 扉


 僕が目を覚ましたのは冷たいベンチの上だった。

 動物園の休憩スペース。だんだん記憶が戻ってくる。

 食べかけのサンドイッチはすっかり乾燥していて、壁に映る映像も夕景に変化していた。足もとには僕の猫。おとなしく眠っている。

 僕の肩には、有居理紅の頭がくっついている。理紅もまだ眠っているみたいだ。水色の髪が、なんともいえないきれいな形に流れている。

「理紅、理紅」僕は彼女の腕を揺さぶった。「ねえ、起きてよ」

「ん!?」理紅がぱっちり目を開ける。水色の瞳が星みたいだ。「私寝てた?」

「……というか、向こうに行ってたんだよ」

 僕は理紅から体を離した。

「向こう?」理紅は目をこする。「向こうって?」

「えっと……」僕は口ごもる。「何だっけ」

 自分の言葉がちゃんと理解できない。僕もまだ寝ぼけているのかも。

「あの世?」と理紅。

「あの世って、どの世?」と僕は笑う。「しっかりしてよ」

「ああ……思い出してきた。【向こう】での出来事」理紅が頭を左右に激しく振った。「あ、でもいろいろ忘れてるな」

「どっちなの」

「ひとつ確実に言えるのは」理紅は人差し指を僕の目の前に突きつける。「私たちがこの世界にスイッチを入れたってことですな」

 断片的に記憶が蘇る。


 砂利が敷きつめられた寒々しい空間。不思議な黒い台座。その上に設置された謎のレバー。それを僕たちは押した。


 でもそのあとの記憶がない。何か重要な出来事が起こった気がするけど……。

「あのレバー、何のスイッチだったんだろう」

「教えてあげよう、荻野おぎのナノくん。あのレバーを押すことで、この世界のどこかの扉が開いたんだ」

「扉」

 ずいぶん観念的な言い方だな、と思う。

「世界は気づかれることで変化してきたんだよ。これまでずっと」理紅は勝ち誇ったような顔だ。「地球が動いていると気づいた人たち。地球は丸いと気づいた人たち。そういう人たちに気づかれることで、世界はひとつずつ扉を開かざるを得なかったんだ」

 理紅のちょっと興奮した様子を見ていると、不思議なもので、僕のほうは少し冷静になってくる。

「地球はもともと丸かったんだよ。誰かが丸いと気づいたから急に丸くなったわけじゃない」

「そうかな。材料が転がっていただけだと私は思うな」

「材料って?」

「地球が丸いと判断できる材料を拾い集めた人たちが、地球は丸いと気づいた。だから地球は丸くなった。もちろん、地球は平面だとする材料も転がっていたわけだけど。じっさい、地球は丸いと気づかれる以前の地球は、平面だったのかもしれない」

「今だってこの世界は平面だと思ってる人は多いよ」

「そいつらは負けたんだよ。思想の戦争で」

「平面派のほうが、数では勝ってると思うけど」

「数では決まらないのが戦争さ」

「だったら何で決まるの」

「さあ……将の質とか」

「まじめに言ってる?」僕はため息をつく。「だいいち理紅の言い分だと、地球が大きな亀に乗っているという材料を集めた人が出てきたらどうなるの?」

「亀の上に乗ってしまうね、地球が」

「そもそも僕たちは生まれたときから地下に住んでいて、地球が丸いってことを実感できていないんだよ。今の地球ってほんとに丸いのかな?」

「地球は丸い、と決定されて以降、誰もそれ以外の材料を集めることができていない。だから、まだ丸いはず」

「うーん」だんだんどうでも良くなってきた。「そういう視点だって存在するというのは認めるよ。非常にトリッキーなアングルだとは思うけど。気づかなければ存在しないのと同じ、という事実なんて珍しくもないしね」

「とにかく!」理紅はぱちんと一回手を叩いた。「世の中、何だってそういうふうに発見されて進歩してきたんだよ。私たちもその一員になれたってこと!」

「え? 僕たちって何か発見したの?」

「そう。発見した。それによってこの世界は変化したんだ。この退屈な世界に足りていないものが、ついに加わった」

「足りていないもの?」

「この世界って、旧世界と比べて、いろいろなものが省略されてる気がするって、きみも言ってたでしょう」

「うーん。人間の感情が、昔に比べて省略されてる気がする、とは言ったかも」

「なんだと思う? 世界から最も省略されているものって」

「楽しさ?」

「いいや」理紅はにっこりする。「戦いだよ」


 戦い。


 僕はちょっと痺れてしまった。

 そうだ。

 なぜ今まで気づかなかったのだろう。

 この世界に欠けていたもの。それは、

 戦い。

 戦いだ。

 僕たちの世界に戦争はない。大きな揉めごともない。人類が地上に暮らしていた時代に制作された膨大なフィクションのほとんどは、争いごとをテーマとしているというのに。

 土地や権力を奪い合ったり、恋愛やお金のことで争ったり、なんだかよくわからない哲学的な理由で殺しあいをしたり……過去の物語の中では、人間の生活のすべてに闘争がつきまとっていた。

 僕たちの世界にはそれがない。

 あるにはあるけど、それは旧世界の消えかけのエコーのように、ささやかな規模のものだ。

「たしかに、戦いっていうのが、いちばん大きな省略だ」僕はそれを認める。「かつての世界から『戦い』をばっさり切り落としたかたちが、いま僕たちの住む、この世界だったのか」

「君の言っていた、もっとも大きな省略は感情だって意見も正しいけどね。感情があるていど省略されているから、戦いも起きないということだから。でもこれからは違う。ついに戦いの日々が幕をあけたんだよ。私たちの敵とのね」

「敵って?」

「……さあ?」理紅は腕組みをして考える。「戦いのない世界を維持したい人たち?」

「そんな単純な話なのかなあ」

「でも矛盾はない。矛盾のないことなら、正解である確率は高い」

「戦いをなくすために戦うだなんて、大いなる矛盾だと思うけど」

「怖いの?」と理紅は鼻で笑う。

「わからないよ。戦ったことなんてないから」

 僕の言い方には、少しムキになっている感じがあったかもしれない。理紅は一瞬だけ微笑ましいものを見るような顔をした。

「まあとにかく、これから私たちの前には、待ち望んだ敵がついに登場する」

 理紅はベンチから立ち上がった。軽く伸びをしてから、またしゃがみこみ、足もとで眠っている僕の猫を撫でた。

「かわいい猫だな。名前なんていうんだっけ。爆弾?」

「わざと言ってるでしょ。名前はないんだってば」

 理紅は笑って猫を撫で続ける。

 その様子をながめているうち、僕の中に新たな疑問が生まれる。

「僕たちがどこかに逃げるっていう話はどうなるの?」

「あれはもう中止だね」理紅は即答した。「戦って、勝ち続けること。それが逃げきるってことでしょう」

「また勝手な理屈を……」

「おもしろければ何でも良いんだよ。私は最初にそう言ったはず」

「そうだけど。でも、きみの言うように敵が現れたら、何らかのルールで戦うわけでしょう? 負けたらどうなるんだろう」

「死ぬ」理紅の全身から悪魔的な好奇心が発散されているのを感じる。「私たちは終わりまで勝ちつづけなければならない。終わりが見たいと言ったのは君なんだよ、荻野ナノくん。エンドローム患者なんだろ?」

 理紅はちょっとした決め科白っぽく言ったつもりかもしれない。

 でも彼女が意図したような効果は得られなかった。

 理紅が言い終わらないうちに、僕たちの足もとから、何かが煮立つような、低く鈍い、そしてどこか異様な音がしたからだ。

 ベンチに座っている僕の靴の少し先、ほとんどつま先が触れそうな位置に、フライパンくらいの大きさの黒い穴がゆらゆら揺れている。

 僕たちは反射的にベンチの上に立った。猫のかごは理紅が抱えている。

「これは……?」

 情けないことに僕は理紅に軽くしがみついてしまっている。

 理紅は僕の背中にそっと手のひらを当てた。

 そこから微量の安心が流れ込んでくるような気がする。

「これも敵だよ。もう知ってるでしょう? 何をすればいいのかも」

 理紅は黒い穴を見ている。その目が歓喜に燃えている。


 そうだ。


 急速にいろいろなことを思い出す。

 僕は目の前の黒い穴がなんなのかを知っている。

 どうすれば良いのかも。

 さっき、レバーを押した瞬間に、自分の中にインストールされたマニュアル。

 まだそれは体に馴染みきってはいないけれど、

 どうすれば良いのかぐらいはわかる。


 黒い穴は突如として強烈な光を放った。

 かと思うと、いきなり地面から剥がれた。

 地面から離脱して、のだ。

 めまぐるしく色を変えながら、なめらかに形も変えている。3歳児がつくった人形みたいな珍妙なシルエットに落ち着くと、敵……そう、【敵】はいきなり僕たちに襲いかかってきた。

 こいつに触れられたり、傷つけられたりすると、どうなるのだろう。わからない。敵が僕たちの体を、どのように損ねるのかは。

 ただ、良くないことが起こるのだけはわかる。

 というより、

 知っている。

 レバーを押したとき、全てを理解したのだ。

 敵の攻撃を、僕と理紅は別々の方向に逃げてかわした。理紅は猫の入ったかごを胸に抱えたままだ。

 敵は急には止まることができず、そのまま直進し、かなり離れた位置でようやく停止する。

 動きが鈍い。

 僕と理紅は再び同じ場所に集まる。

「少しのあいだ、ミサイルちゃんを預かってて」と理紅はかごを僕に押しつける。

「ミサイルちゃん?」

「猫だよ」

「そんな名前じゃない」僕は猫の入ったかごを受け取る。

 僕たちはどうやって敵と戦えば良いのか、すでに知っている。


 理紅がポケットから絵の具を何本か取り出した。とてもレトロなチューブ式のやつだ。魔法のような手さばきで絵の具の蓋を開け、白い壁にぶちまける。

 そして。

 右手を絵の具の海に突っ込む。

 手術のようにも暴力をふるっているようにも見えると評された手と指の動き。

 たしかに、精密かつ放縦。

 再現不能の難曲を奏でているピアニストみたいだ。

 壁の一区画に、瞬く間に魔術的なできばえの抽象画が誕生した。

 有居理紅は、天才的な色彩感覚を持つ15歳の美少女画家なのだ。

 敵がようやく方向転換して、僕たちに向き直る。

「はい、猫を預かって!」今度は僕が、猫のかごを理紅に押しつける。

「手が汚れてるのにー!」理紅が抗議の声を上げる。

 かまっている暇はない。

 次は僕の番だ。

 僕は念じるだけでよい。

 その絵が動いているところを想像するだけで。

 毎日、造形部の部室で乗り物の模型を作っていたし、それがいきいきと動くのを想像していた。どれも旧時代の乗り物で、実際に動いているところは見たことがない。

 だけど、僕の想像の中では動いていたのだ。

 そのときと同じ要領で、理紅の絵が動いているところを想像する。

 それだけで、理紅の絵は意のままに動くはず。

 レバーを押したあのとき、僕は彼女の絵を自由に動かし、敵と戦わせる能力と、そのライセンスを授かったのだ。

 誰に?

 誰でも良い。

 頭の中で絵が動く。

 一瞬、全身がしびれるような感覚があって、理紅の絵は僕の念じたとおりに壁から剥がれた。

 すぐさま敵の位置を確認する。

 もはやオブジェというより七色に輝くアメーバみたいな姿に変形している敵が、再びこちらに飛びかかってくるところだった。

 僕は理紅の絵を盾にしてそれを防ぐ。

 鈍くて重い音。盾は大きくしなって、その反発で敵をはじき飛ばす。

 今度はこっちのターン。

 理紅の描いた絵は抽象的だけど、少し人型っぽくも見えた。僕は腕に見立てた部分で敵をつかみ、力任せに引きちぎった。

 ちぎった敵をふたつとも地面に投げつける。

 驚いたことに、分かたれた断片は、2つともそれぞれ意思を持ったようだ。体勢を立て直して、左右から同時に襲いかかってきた。

 僕はまだ冷静。理紅の絵を糸のように細く変化させ、攻撃をかわす。

「あ、絵を改変したな!」理紅の声が聞こえる。

「解釈のひとつさ。すぐにもとに戻すよ」

 僕は分解した絵を糸のような状態に保ったまま、2つに分かれた敵の片方をぐるぐる巻きにし、締め上げ、細かくスライスした。

 そこでようやく絵をもとに戻す。

 残った敵を理紅の絵で殴ったり蹴ったり切り刻んだりした。

 確実に消滅させるために。

「なかなか調子が良いね」

 理紅がのんびりした声をあげる。

 理紅は絵を描いたあとは仕事がない。

「大昔のコミックのヒーローになったような気分だよ!」

 僕の声は弾んでいた。心躍る、とはこういうことか、と思う。

 こんな感情が僕のなかに眠っていたなんて。

 これは僕たちが、世界に奪われた感情を取り戻す戦いなのかもしれない。

 そんなことを思う。


 ○

 ●

 ○


 戦いは終わった。僕たちを襲った敵は消滅し、理紅の描いた絵もすり減って、最後にはすっかり消え失せてしまった。

「戦いって、何も得るものがないな」退屈そうにしていた理紅が言った。「敵も消えた。私の絵も消えた」

「僕は楽しかったよ。君の絵を動かすのって」

「役割を交換したいよ」理紅はため息をつく。「私は退屈」

「まあまあ」

「この戦闘方法って、何かの比喩なの? あまりにも直接的で単純じゃない? 私たちの世界から失われた【戦い】ってこういうこと? もっと人間性を削りあうような、複雑な陰影を持つ営みではないの?」

「機嫌悪いなあ」と僕は彼女の目を見ずに言う。

 理紅が急に返事をしなくなった。地面の一点を怪訝そうに睨んでいる。

「どうかした?」

「ねえ、あれ何だろう」

 理紅が指さした方向を僕も見る。敵が最後に消滅したあたりの地点だ。

 そこに何かが落ちている。

 僕たちはおそるおそる近づいてみる。

 金属片のようだった。

 理紅が躊躇なくそれを拾った。

「わっ、大丈夫? いきなりさわって」

「うーん、これ、鍵だね。とてもレトロなデザインの」

 理紅は顔の横でそれを揺すって見せた。

 たしかにそれは、絵本に出てくるようなデザインの、とても美しい鍵だった。


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