第10話 プロローグ (2)

 ■■□■


「自分の走っている姿を誰にも見られたくないのは、それがとても奇妙で醜いから。だけどたぶん、僕の走り方におかしなところはないんです」

 僕の声の調子は恥ずかしいくらいに切羽詰まっている。

「自分でそう思い込んでいるんだね。醜くて奇妙だって」

「そう……です」

 僕はほとんど混乱しきっていた。いつからだろう。自分の走る姿をおぞましいと思うようになったのは。

「フォビアだね」と先輩は言った。「病的恐怖。走る姿を見られることに対するフォビアをきみは持っている。どうしてだろう? 自分でも忘れている過去の痛々しい経験だとか、新種の社会病理だとか、家庭環境と思春期の衝突による歪みだとか、もっともらしい原因をひねり出して、きみに突きつけるやつはいるだろうね。しかしそれらはすべて嘘っぱちだ。耳を貸してはいけない。原因なんておそらく何もない。あったとしても見つかるまいね。探し出そうなんて思わないことじゃ。そんなのは、いかだでムー大陸を探し当てようとするかのごとき蛮行ぞ」

 なんか先輩の語尾がめちゃくちゃだけど、僕はもう気にならない。

「僕はこのフォビアを一生抱えたままなのでしょうか」

 いつの間にか熱心な信者のような物言いをしている。

 先輩は邪悪な笑みを浮かべた。

「私に言わせれば強烈なフォビアやトラウマのない人生なんて何の意味もないね。あって良かったんじゃない? 性根の腐った人間が、日陰でもがき、苦しみながら、よちよち歩きで進む人生。きみは私の好みだよ」

「このままで良いってことですか?」

「このままで良いとは思わない」

 薄く笑う先輩の顔や髪がゆらゆら揺れている。上下に。はっとして先輩の足許を見た。学校指定の黒いローファー。地面に接していない。

 彼女は少しだけ宙に浮いていた。

 彼女は、

 少しだけ、

 宙に、

 浮くことができる人間なんているのだろうか。何かそういったパーティグッズが開発されたとか。それが女子高校生のあいだで大流行しているとか。


 ふわふわと宙に浮かぶ女子高生たちが街にあふれています。


 ふわふわ系?

 そんな馬鹿な。天使じゃあるまいし。天使なんかじゃあるまいし。

「天使なんかじゃない」と先輩ははっきり言った。「普通の女の子だよ」

「そのセリフ、何かの引用ですか」

「どうして気づいた」

「目が引用っぽかったので」

「そんな目ってある?」

「僕も今、初めて知りました」

「引用だからって何だ。もはや地上には、過去の引用でないものなど存在しない」ふわふわ浮かびながら先輩が言う。「きみも飛べば?」

「僕は空を飛ぶことができません」

 僕の言葉は間抜けな英作文の問題みたいだ。

 ずっと昔から。

「飛べるよ」

 先輩の顔はどんどん遠ざかっていく。先輩がどんどん上昇しているのだ。先輩は信号機のてっぺんあたりまで移動した。とてもなめらかな飛行で。そのまま綿毛のように、音もなく信号機の上に着地する。

 スカートの中が絶妙に見えない。

「良い眺めだ」先輩はぐるりを見渡しながら言う。「世界が崩壊しつつあるのがわかる」

 長い髪が旗のように揺れている。

 周囲を行き交うまばらな人々。大量に流れる車。誰も信号機の上に立つ女の子に気づいていない。

「隣においで」

 先輩は僕を見下ろして、何でもないことのように言った。

 先輩はどうして宙に浮いているのだろう?

 僕ははっきりと幽霊を見ているのだろうか。

 あるいは、はっきりとした脳の障害による、はっきりとした幻覚を見ているのか。

「早く来なよ」

 僕は口を開けて先輩を見上げることしかできない。

 スカートの中は真の闇だ。

 そのとき、先輩の目の前を天使が横切ろうとした。先輩の瞳に一瞬ぎらついた光が宿る。先輩はすかさず天使の足首をつかんだ。優雅な空の散歩を邪魔されて天使はもがく。暴れる天使を強引に抱きかかえながら、先輩は天使の腰のポーチに手を入れた。そこから何かを取り出すと、ようやく天使を解放する。あわれな天使は一目散にどこかへ飛び去った。

 先輩は天使から奪った何かを僕に見せつける。

 朝の光にきらりと輝く、それは美しいナイフだ。

 天使から奪ったナイフを顔の横できらめかせて、先輩は妖しく微笑んだ。

「よけてね」

 言うが早いか、シャープな動作で振りかぶり、僕に向かってナイフを投げた。

 空気の切れる冷たい音。

 僕は反射的に一歩飛び退る。

 ナイフは、さっきまで僕が立っていた地面に正確に突き刺さった。

 小さな墓標のようだ。

 僕の。

 回避できたことに自分でも驚く。仮に100個のパラレルワールドが存在していたとしても、98人の僕は死んでいたと思う。

 さすがに腹が立って先輩を睨みつけた。高い位置でげらげら笑っている。

「当たったらどうするつもりだったんだよ!」

 朝のよそよそしい空気に、僕の叫びはあまりにも間抜けだった。

「当たったら、死んでたんじゃない?」先輩は目尻の涙を指でぬぐいながら言う。「でも、ちゃんとよけたし、きみ、いま飛んでるよ?」

 驚いて僕は足許を見る。

 僕の足は、地面から10センチメートルほど浮いていた。

 さよなら人類。



 ■■■□



 矢継ぎ早の疑問が僕を襲う。

 どうして僕は浮いているのだろう?

 さっきのナイフで本当は死んでしまったのだろうか?

 でも、肉体と幽霊って分離するものじゃないか?

 ふつう、地上に肉体を残して、幽霊だけが昇天するものだよね?

 つまり、僕が死んでいるのだとしたら、僕の死体がその辺に転がっていなければおかしい。

 だけど僕の死体はどこにもない。

 人は死んだら肉体を伴ったまま昇天するのだろうか。

 そんなの困る。具体的には、火葬場でやることがなくなってしまう。

 火葬場で何を焼けば良いのだろう。

 遺影か?

 遺影と、思い出の品々と、鶏肉と、ピーマンと、玉葱と……。

「ほら、早くここまで来なって」

 先輩は上空から僕に向かって手を差し伸べた。

 僕も何となく、それをつかもうと手を伸ばす。

 僕と先輩のあいだには数メートルの距離がある。届くはずもない。

 しかし僕の体は、先輩のもとへするすると引き寄せられはじめた。ヨーヨーみたいに。なめらかな飛行で。

 先輩の手に届きそうな位置まで浮上する。だけど、指がふれるかふれないかのところで、先輩は手を引っ込めた。僕の手は空を切る。先輩はすでに僕を見ていない。

 なんとか自力で信号機の上に着地した僕は、先輩の横に並んで立った。とても狭く、ほとんど体は密着している。バランスを取るのが難しい。

 先輩は僕の腰に手を回した。

「暑苦しいかもしれないけど、我慢してね」と先輩は言う。「でも私の体って、たぶん良い匂いがすると思うな」

「そうですね」と僕は答えたけど、実のところ先輩の体からは何の匂いもしない。それに、温かくも冷たくもなかった。僕はとても悲しい気持ちになる。

「どう? ここからの眺めは」

 眼下に広がる世界を見渡す。ほんの数メートルの高さだと思っていた信号機だけど、のぼってみるとずいぶん高い。10メートル以上ありそうだ。他の信号機がはるか下の方に見えるから、ここだけが特別に高いのだろうか。

 自分が暮らす街を信号機の上から眺める。さほど感慨はない。小さな街だ。

 ただ遠くの方の景色は、異様に黒々とした靄みたいなものに覆われていて、よく見えない。

「あの黒い闇、何だと思う?」先輩が問う。

「さあ……雨雲じゃなさそうですし」

「虚無さ」

「虚無」

「そう。この世界は虚無に塗りつぶされようとしている」

「なにか似たような話を、本とか映画で見たことあるぞ……」

「じゃあそれ」

「じゃあそれ?」

「きみが見たそれがこれさ」

「僕が見たあれがこれ?」

「名前なんてなんでもいいってこと。虚無だろうとバグだろうと腐海だろうと、なんだってね。問題は、そいつが今まさに、この世界を呑み込まんとしていて、呑み込まれると我々の生活がそこで終わってしまうということ。世界の危機なんて、それこそ映画や小説でさんざん描かれているけど、言葉にすれば、たったそれだけのことなんだ。生活の話だよ」

 虚無、を見ていると胸の中に言いようのない不安がこみ上げてくる。気づけば天使の姿も一匹もない。いつもたくさん飛んでいるのに。

 どうしてこんなことになったのだろう。

 どうして僕は運動会に参加していないのだろう。

 運動会で、みんなとはしゃいで、騎馬戦をやりたい。

「虚無が怖いかい?」先輩が微笑む。僕の震えは、体をくっつけている先輩にも確実に伝わっているはずだ。

「どうすれば良いんですか」僕は情けない声で聞いた。

「虚無を打ち払う方法は、いくつか存在する。けれど、そのほとんどはもう使えない。気づくのが遅すぎたんだ。見てごらん。ここも、もう危ない」

 さっきまで何十キロも遠くにあると思われた虚無が、いつの間にか僕たちの足許まで押し寄せていた。

 世界中の動物たちが叫んでいるような、悪夢みたいな音がする。

 黒い濁流の中のたった一本の信号機。そこに僕たちは立っているのだ。

 いまや世界で唯一の陸地となた信号機。大きく揺れ動いている。

「残っている方法っていうのは」僕は先輩にほとんどしがみついている。

 先輩は正面を見たまま言った。

「まず、私がこの虚無に飛び込む」

「この中に飛び込むんですか?」

「私は虚無にあるていど耐える力を持っているんだ」

「ある程度って……」

「私は虚無の海に揉まれてすぐに自分の所在を失うだろう。私はどこにも存在しない存在になる。それを探し出すのがきみさ」

「僕が?」

「そう。この虚無のどこかにいる私を、きみが探し出すんだ。探し出したら、私の名前を呼んでくれ。それは不可能に近い確率かもしれない。奇跡の中の奇跡、と言っても良いくらいに。でも、虚無はそういったことに慣れていない。きっと驚く。虚無を驚かせたらこちらの勝ちさ。それはもう虚無とは呼べないものだからね」

「先輩の、名前を……?」

「この世界にたったひとつしか存在しない、貴重な文字列。私の名前はフタガワ・ヒトツ」

「フタガワヒトツ?」

「横線が二本、縦線が三本、それから横線が一本……」先輩は指を動かして説明する。「それでフタガワ・ヒトツさ」

「……二川ふたがわひとつ。なんだか記号みたいだ」

「記号みたいなものだよ。その記号を、ずっと忘れないでいてほしいんだ」

「ずっと? って?」

「どんなことがあっても、私の名前を忘れないでほしい。世界の果てに飛ばされようと、海の底に沈められようと、時間の狭間に捨てられようと」

「…………」

「約束してくれ。私の名前、二川一を忘れないと」

「わかりました」

 と僕はちゃんと言えただろうか。

 声になっていなかったかもしれない。


 何の前触れもなく、虚無の中から、黒い無数の矢が放たれて、そのすべてが先輩の体を突き刺した。

 先輩は、ゆっくりとバランスを失い、信号機の上から落下する。

 落下している先輩……二川一の顔を見た。


 笑っている。


「世界のどこかに私はいる。いや、どこかの世界に私はいる」

 笑ったまま先輩は言う。

「私を探してごらん」

 信号機が大きく揺らいだ。

 僕の体は空中に投げ出される。

 僕はもう飛ぶことができない。

 墜落。



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